第二十五話:決戦前夜
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創星祭を翌日に控えた彩星芸術学園は、真夏の太陽と、生徒たちの熱気に、浮かされるように沸き立っていた。
蝉時雨が、まるでこれから始まる祭典を祝福するかのように、降り注いでいる。
中庭では、模擬店のテントが立ち並び、体育館からは、軽音楽部の少しだけ音程の外れた、しかし楽しげなリハーサルの音が漏れ聞こえてくる。
誰もが、明日の成功を信じて、疑っていなかった。この、平和で創造性に満ちた学園のまさに中心で、静かに、そして急速に、狂気の舞台が組み上げられていることなど、知る由もなく。
市内の、ありふれた図書館の、最も隅の閲覧席。
広瀬未央と桐谷海都は、テーブルの上に広げられた一枚の学園の見取り図を前に、低い潜めた声で、最後の作戦会議を行っていた。
「陽菜の目的は、もはや、単なる殺人じゃない」
未央は、断言した。
「彼女が創りたいのは、物語。自分が、芸術のために命を懸けた悲劇の殉教者として、永遠に語り継がれるための、完璧な神話。だから、私たちが、ただ彼女を止めようとしても、無駄。それは、彼女の物語をより劇的にする、スパイスにしかならない」
「じゃあ、どうするんだ」
桐谷の声には、まだ、拭いきれない恐怖が滲んでいた。
「物語を、乗っ取るんです」
未央の瞳は、もはや、恐怖には揺らいでいなかった。そこにあるのは、すべてを失う覚悟を決めた者だけが持つ、硬質な鋼のような光だった。
「陽菜が、創世記という始まりの物語を演じるなら、私たちは、その舞台の上で、黙示録を、終わりの物語を始めさせます。彼女が、神として昇天しようとする、その瞬間に、その翼をもぎ取り、ただの哀れで、惨めな、一人の人間に引きずり下ろすんです」
計画は、あまりにも危険だった。
桐谷の役割。それは、陽菜のパフォーマンスが、最高潮に達した瞬間に、亡霊として舞台に現れること。死んだはずの、あるいは、心を壊されたはずの「作品」が、自らの意志を持って、作者の前に、再び立ちはだかる。それは、陽菜の完璧な脚本にはない、最大級のノイズとなるはずだ。
そして、未央の役割。それは、その混乱を決定的なものにするための、情報の弾丸を撃ち込むこと。彼女は、徹夜で一本の短い映像作品を作り上げていた。佐伯翔が遺したノートの記録。桐谷の、生々しい証言。綾波玲子と、橘美咲の関係性。そして、アノニマスの作品と、過去に橘美咲が描いた作品との、驚くほどの類似性。それらすべてを、一つの動かぬ証拠として、叩きつける。
配信は、しない。そんな、まどろっこしいことは、もうしない。
会場にいる、すべての観客の、スマートフォンに。メインステージの、巨大なスクリーンに。あらゆる手段を使って、この映像を強制的に、ゲリラ的に上映するのだ。
神の降臨を見に来た、敬虔な信者たちに、その神の醜い、本当の素顔を見せつけるために。
◇
その頃、橘陽菜は、自室で、静かにその時を待っていた。
彼女の部屋は、まるで修道僧の独房のように、がらんとしていた。余計なものは、何一つない。ただ、壁にかけられた、一枚の真っ白なキャンバスと、床に置かれた一つの絵の具のチューブだけが、彼女の世界のすべてだった。
彼女は、母親の美咲と、短い電話をしていた。
『……玲子さんのことは、残念だったわね』
電話の向こうの母親の声は、どこまでも穏やかだった。
『でも、いいのよ。それも、芸術に必要な、産みの苦しみ。偉大な作品は、いつだって、幾多の犠牲の上に成り立つものなのだから』
「うん、わかってる。母さん」
『見せておやりなさい、陽菜ちゃん。あの時、あの俗物どもが、私からすべてを奪っていった、あの画壇に。ううん、違うわ。世界中に、見せておやりなさい。本物の芸術とは、何かを。私の、最高傑作……』
電話を切った後、陽菜は、鏡の前に立った。
そこに映っているのは、どこにでもいる、少し内気な高校生の少女。だが、彼女はその姿の、さらに奥にいる、もう一人の自分、アノニマスに、語りかけていた。
これで、最後。
これが、私たちの、集大成。
彼女は、鏡の中の自分に、深く、深く、一礼した。
それは、これから、最後の舞台へと向かう、役者の、神聖な儀式だった。
◇
県警本部。捜査本部は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
綾波玲子が、ついに、すべてを自供したのだ。溝口の、執拗なまでの心理的な揺さぶりに、彼女の心は、完全に折れた。
彼女が語った、橘親子の歪んだ関係性。そして、陽菜の恐るべき犯行計画の、全貌。
「創星祭で、何かが起きる……。あの子は、自分自身を、最後の作品にするつもりだ……」
その言葉に、相田は、血相を変えた。
「すぐに、創星祭の中止を要請すべきです! 橘陽菜を、今すぐ確保します!」
「待て」
溝口は、それを、低い声で制した。
「我々が、今、動けばどうなる? 奴は、計画を変更するだけだ。あるいは、その場で自決するかもしれん。そうなれば、アノニマスの神話は、完成してしまう。我々は、世間の非難を浴び、怪物を神に祭り上げてしまうことになる」
「では、どうしろと!?」
「……乗るしか、ないだろう」
溝口の目は、据わっていた。
「奴が用意した、その舞台に。我々もまた、観客として、そして役者として、参加するしかない。会場には、私服警官を、可能な限り配置しろ。SATにも、極秘裏に待機を要請する。奴が、観客に指一本でも触れようとしたその瞬間、我々は、神をただの犯罪者に引きずり下ろす。これは、我々の、いや、警察の威信をかけた大博打だ」
◇
創星祭、当日。午前八時。
空は、まるで運命の日を知っているかのように、不気味なほど青く澄み渡っていた。じりじりと、アスファルトを焼く、夏の陽射し。学園の校門の前には、開場を待つ、人々の長い列ができ始めていた。
その喧騒の中で、それぞれのプレイヤーは、それぞれの場所で、静かに、決戦の時を待っていた。
病院を、半ば強引に抜け出してきた、桐谷。
捜査本部のモニターの前で、無線機を握りしめる、溝口。
そして、自宅の部屋で最後の準備を終え、パソコンのエンターキーに、そっと指を置く、未央。
その頃、陽菜は、創星祭のメインステージとなる、エキシビションホールの楽屋裏で、一人目を閉じていた。
彼女の耳には、外の喧騒も、何も聞こえていなかった。
ただ、これから始まる、自らの最高傑作の始まりを告げる、静かな、静かな、ベルの音だけが響いていた。
盤上の駒は、すべて配置された。
もう誰も、このゲームから、降りることはできない。




