第二十四話:創世記への招待状
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橘陽菜からの宣戦布告。
それは、広瀬未央の思考を、麻痺させると同時に、極限まで研ぎ澄ませた。
『最後の作品』とは、何か。
『最高の舞台』とは、どこか。
陽菜は、芸術家だ。それも、物語性と象徴性に異常なまでに固執する、儀式的な芸術家。彼女が選ぶ舞台は、決して、無意味な場所であるはずがない。
未央は、自室のホワイトボードに、可能性のある場所を、次々と書き出していった。
最初の事件が起きた、佐伯翔のアトリエ。
桐谷海都が「作品」にされた、旧美術棟の石膏デッサン室。
あるいは、この狂ったゲームのきっかけとなった、神保町の、あの画材店。
どれも、違う。
未央は、直感的にそう感じていた。それらは、あまりにも、スケールが小さい。陽菜が言う『最後の作品』の舞台としては、あまりにも、矮小に過ぎる。
陽菜の作品は、常に、観客を意識している。佐伯の死は、学園という閉鎖空間の観客に。桐谷の事件は、警察という、より大きな観客に。ならば、最後の作品の観客は――?
――世界、そのもの。
だとしたら、舞台は、一つしかない。
もうすぐ、この彩星芸術学園で開催される、年に一度の、最大のイベント。
『創星祭』。
生徒たちの作品が、一年で、最も輝く日。保護者や、他校の生徒、美術関係者、そして、マスコミまでもが、大勢訪れる、開かれた祝祭。
これ以上の、「最高の舞台」など、ありえない。
では、『共同制作』とは?
陽菜は、一体、自分に何をさせようとしているのか。
未央の背筋を、一つの、最も恐ろしい仮説が、冷たく駆け上った。
陽菜の最後の作品。そのテーマは、もしかしたら……『アノニマスの死』なのではないか。
社会現象となった、正体不明の神が、自らの手で、自らの神話を、最も劇的な形で完結させる。観客と、警察と、そして、自分が見守る中で、芸術のために、殉教する。そして、その死の謎と、美学だけを、永遠に残す。
それこそが、彼女が望む、究極の芸術作品。そして、その舞台の上で、自分は、彼女の死を幇助した共犯者、あるいは、彼女を追い詰めた悪役として、永遠に語り継がれることになる。
どちらに転んでも、陽菜の勝利。
未央は、その完璧な脚本に、戦慄した。
◇
その頃、県警の合同捜査本部では、綾波玲子の、長い、長い取り調べが続いていた。
「……ですから、私は、何も知りません」
玲子は、憔悴しきった顔で、同じ言葉を繰り返していた。机の上には、彼女の部屋から押収された、陽菜が描いたと思われる、禍々しいデッサンの数々と、橘美咲からの、何十通にも及ぶ手紙の束が、無造作に広げられている。
「綾波、玲子さん」
溝口は、疲れた声で、しかし、鋭い視線はそのままに、語りかけた。
「我々は、あなたが橘美咲と、その娘である陽菜に、利用されていただけだということも、理解しているつもりだ。あなたは、親友を助けたかった。ただ、それだけだったんだろう」
その、優しい言葉に、玲子の強張っていた肩が、わずかに震えた。
「橘陽菜は、怪物だ。彼女は、あなたや母親の美咲さんさえも、自分の芸術のためのただの絵の具としか思っていない。このまま彼女たちを庇い続ければ、あなたの人生は、完全に、彼女の作品の一部として塗りつぶされて終わる。それでも、いいのですか?」
「……」
「我々に、協力してください。あなたを、我々は救いたいんだ」
玲子の瞳から、一筋の涙が、こぼれ落ちた。それは、二十年間、親友の狂気に寄り添い続けた、彼女の、最後の、人間らしい感情だったのかもしれない。
◇
「……力を、貸してほしいんです」
未央は、病院の個室のベッドの前に立っていた。
桐谷海都は、あの日以来、少しずつではあるが回復の兆しを見せていた。まだ、その瞳には、深い恐怖の色が宿ってはいるが、短い単語なら話せるようになっていた。
「陽菜が、最後の行動に出ます」
未央は、前置きも、同情の言葉も、すべて省いて単刀直入に切り出した。
「舞台は、創星祭。彼女は、そこで、すべてを終わらせるつもりです。おそらく、自分自身の命と、引き換えに」
桐谷の体が、びくりと跳ねた。
「先輩。あなたにしか、頼めないことがあるんです。あなたは、陽菜の『作品』にされ、そして、生き残った、唯一の人間です。彼女のやり方を、その手口を、肌で知っている。だから……」
未央は、深く、頭を下げた。
「もう一度だけ、役者になってほしいんです。私と一緒に、あの怪物を、舞台の上から引きずり下ろすための、最後の、役者に」
桐谷は、黙って、未央の顔を見ていた。そして、しばらくの沈黙の後、掠れた声で、しかし、はっきりと、こう言った。
「……わかった」
その瞳には、恐怖だけではない。自分を、あのおもちゃのように弄んだ悪魔への、静かで、しかし、燃えるような怒りの炎が、確かに宿っていた。
◇
その夜だった。
日本中の、何百万人というフォロワーのスマートフォンが、一斉にその通知を受け取った。
『Anonymousが、新しい投稿をしました』
それは、脅迫でも、謎かけでも、あるいは、誰かへの死の予告でもなかった。
ただ、一枚の美しい画像。
真っ白な、巨大なキャンバスがイーゼルの上に置かれている。その場所は、彩星芸術学園の中央エキシビションホール。創星祭で、最も多くの人々が訪れる、メインステージだ。
そして、その画像に添えられていたのは、短い、しかし、あまりにも、雄弁な言葉だった。
『――私の最後の作品は、創星祭にて、発表します』
『それは、ライブパフォーマンスであり、共同制作です』
『真の芸術が、生まれる瞬間を。その目で見に来てください』
『テーマは、"創世記"』
◇
その投稿を、未央は桐谷の病室で、彼と一緒に見ていた。
創世記。
新しい世界の、始まり。
それは、裏を返せば、古い世界の、終わりを意味する。
陽菜は、この創星祭という、衆人環視の舞台の上で、この物語の世界そのものを、一度、破壊し、そして、自らの死と共に、新しい神話を、創り上げようとしているのだ。
警察が、会場を封鎖しようとしても、無駄だろう。それすらも、彼女のパフォーマンスの一部になる。
自分が、彼女を止めようとしても、それすらも彼女の「共同制作」の一部として、作品に組み込まれてしまう。
陽菜は、自分では決して負けることのない、完璧な舞台を作り上げたのだ。
まるで、チェスで相手に、チェックメイトを宣言するかのように。
創星祭まで、あと、二日。
逃げ場のない、公開処刑台。
未央は、その悪魔からの、あまりにも美しい招待状を、ただ見つめることしかできなかった。




