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第二十七話:二人目の芸術家

毎日18時更新

 橘陽菜が仕掛けた罠は、残酷なまでに、シンプルだった。

 そして、シンプルであるが故に、それは、絶対に逃れることのできない、完璧な檻となっていた。


 美術棟三階の、埃っぽい空き教室。広瀬未央は、ノートパソコンの画面に映し出される、自分の名前を、ただ、呆然と見つめていた。サーチライトの眩い光が、じりじりと、自分たちのいる校舎を、舐め上げるように照らし出していく。


「……どうするんだ、広瀬さん」


 隣で、作戦の協力者である、放送部の男子生徒が、青ざめた顔で声を震わせている。


「このままじゃ、見つかる……!」


 そうだ、見つかる。

 そして、それが、陽菜の狙いなのだ。

 このまま、ここに隠れ続ければ、やがてサーチライトが、この教室を照らし出すだろう。そうなれば、自分は、この狂った舞台から逃げ出した、卑劣な共犯者として観客の目に映る。陽菜の物語は、より一層、悲劇性を増し、彼女の殉教は、より神聖なものとなるだろう。


 かといって、ここで映像を流したところで、何になる?

 それは、陽菜の「共同制作者」としての役割を、忠実に、演じることにしかならない。陽菜の狂気を、より劇的に、演出するための、火付け役になるだけだ。


 どちらを選んでも、陽菜の掌の上。


(……本当に、そうかな?)


 その時、未央の脳裏に、一つの声が響いた。

 それは、桐谷の声でも、溝口の声でも、あるいは、自分自身の声でもなかった。

 それは、佐伯翔が、あの鍵のかかったノートに遺した、悲痛な叫び声だった。


『彼女を、本当の世界に引きずり出すには、一度、その幻想を壊すしかない』


 ――幻想を、壊す。

 そうだ。陽菜が、最も恐れていること。それは、法で裁かれることでも、社会から非難されることでもない。


 自分が作り上げた、完璧な芸術、完璧な物語が、自分の意図しない形で、醜く、無様に、壊されてしまうこと。

 彼女の美学を、根底から否定すること。

 それこそが、唯一、彼女の心に、ダメージを与えられる武器なのではないか。


 未央は、顔を上げた。

 その瞳には、もはや、迷いも、恐怖もなかった。


「……行くわ」


「えっ、どこへ!?」


「舞台へ」


 未央は、ノートパソコンを乱暴に閉じると、立ち上がった。


「陽菜が、私を役者として指名したのなら、その期待に応えてあげなくちゃ。最高の形でね」



 ◇



 エキシビションホールの、巨大な空間。

 サーチライトが、観客席を彷徨い続けている。観客たちは、その光の行方を、固唾をのんで見守っていた。


 橘陽菜は、ステージの中央で、静かにその時を待っていた。彼女の脚本では、未央は、やがて光に追い詰められ、半ばパニックになりながら、この舞台に引きずり出されてくるはずだった。


 だが。

 陽菜の、完璧な脚本は、初めて書き換えられることになる。


 ホール後方の扉が、ゆっくりと、開いた。

 そして、そこに一人の少女が、スポットライトを自ら浴びるように、静かに姿を現した。


 広瀬未央。

 彼女は、怯えても、逃げ惑ってもいなかった。その背筋は、まっすぐに伸び、その足取りは、まるで戦場へと向かう兵士のように、力強く、そして、迷いがなかった。


 観客席に、再びどよめきが走る。

 なんだ、あの少女は。彼女が、広瀬未央か。


 未央は、ざわめく観客たちには目もくれず、ステージ上の陽菜だけをまっすぐに見据えながら、ゆっくりと歩みを進めた。

 陽菜の瞳が、初めて、わずかに見開かれた。


(違う……)


(私の脚本と、違う……)


 未央は、ステージのすぐ下まで来ると、足を止めた。そして、マイクも通さずに、しかし、ホール全体に響き渡るような、凛とした声で言った。


「ここに、来たわよ。陽菜」


「あなたの言う、共同制作とやらに、参加してあげる」


「でも、少し、ルールを変えさせてもらう」


「あなたのテーマは、『創世記』。でも、私のテーマは、違う」


「私のテーマは、『解剖』よ」


 未央は、手に持っていた、一枚のUSBメモリを、高く掲げてみせた。


「あなたという、哀れで、空っぽな、芸術家を。その、陳腐で、自己満足な、芸術ごっこを。今、ここで、この何千人という観客の前で、徹底的に解剖してあげる」


 陽菜の顔から、あの絶対的な支配者の笑みが、すっと、消えた。

 代わりに、そこに浮かんだのは、自らの聖域を土足で踏み荒らされた、芸術家の、純粋な怒りの色だった。


「……面白いじゃない、未央」


 陽菜の声が、マイクを通してホールに響き渡る。


「やってみなさいよ。できるものならね」


「この、私が作り上げた、完璧な舞台の上で。あなたという、凡人に、一体何ができるというの?」


 その言葉を、合図にしたかのように。

 ステージの袖から、二人の警備員の格好をした、男たちが現れた。彼らは、未央の両腕を、素早く、しかし、乱暴に掴み上げる。


「なっ……!?」


「言ったでしょう、未央。これは、私の舞台だって」


 陽菜は、冷ややかに微笑んだ。


「あなたは、役者。でも、その動きを決めるのは、演出家である、私。あなたは、ただ、これから始まる、悲劇の引き金を引くだけの役割なのよ」


 警備員たちが、未央をステージの上へと、引きずり上げていく。

 そして、あの巨大な、白いキャンバスの前へと、彼女を立たせた。


 陽菜は、未央の目の前に立つと、あの墨汁で黒く染まった自らの手のひらを、彼女に見せつけた。


「さあ、選びなさい、未央」


「この手で、あなた自身の手形を、このキャンバスにつけるの」


「そうすれば、あなたは、私と同じ、芸術家になれる。この作品を、一緒に完成させた、共犯者になれるわ」


「それとも……」


 陽菜は、もう一方の清浄な手で、テーブルの上に置かれた、ガラスの小瓶を手に取った。その中身は、もはや、ただの墨汁ではなかった。粘り気のある、黒い液体。それは一見して、毒物か、あるいは、強酸であることをうかがわせた。


「……この手で、この『絵の具』を、飲む?」


「そうすれば、あなたは、私の芸術に、その身を捧げた、最初の、そして、最後の、殉教者になれる。どちらも、素晴らしい、エンディングだと思わない?」


 観客席が、凍りついた。

 これは、パフォーマンスではない。本物の、狂気だ。


 溝口が、イヤホンマイクに向かって、絶叫した。


「突入しろ! ターゲットを、確保しろ!」


 だが、遅い。

 SAT隊員が、ステージになだれ込むよりも、早く。

 陽菜が、その狂気の選択を、未央に突きつけるほうが、早い。


 未央は、絶体絶命の状況に、追い込まれた。

 共犯者になるか、殉教者になるか。

 陽菜が用意した、二つの地獄。

 どちらを選んでも、待っているのは破滅だけだ。


 だが、未央は、諦めてはいなかった。

 彼女の瞳の奥で、最後の、そして、最も危険な、反撃の火種が燻っていた。

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