島教育の勝利
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ガーデ・オースタンの首都は、夜中でもメインストリートの街灯が途切れることなく続く。酒に酔った若者の笑い声が建物に反射して広範囲に響き、それ自体は特に珍しくもない様子。
気にして窓から覗く者もいなければ、咎める者もいない。
ただ、夜中1時を過ぎると状況は一変。
0時を回ったら民間企業の営業は出来ない。レストランやバーを営む者達が家路についた後の深夜1時には、夜明けが訪れる頃まで誰も外を歩かなくなってしまう。
街灯のない裏路地の植え込みや、真っ暗な公園には浮浪者が寝床を作り、治安の良い国の称号はどこへやら。そんな街を足音を消しながら歩く者がいた。
その人物は照明を落とした暗いホテルのエントランスを確認すると、迷わず中に入って行く。
但し、22時以降も入れるのはロビーまで。客室フロアへ続く通路は大きくて取っ手のない扉で隔てられている。客室フロア側から外に出る事は出来ても、外からは扉が開かない。
その人物はフロアの前まで着いた後、鉄のベルをチンと鳴らした。
「何か御用でしょうか」
「部屋に戻りたい」
「身分証をご提示下さい。これはスイートルームにご宿泊の方も含め、全てのお客様にお願いしております」
防犯対策のため、フロントのスタッフとの会話は防弾ガラスと鉄柵の格子越しになされる。
薄暗い光に照らされているのはまだ若い男。栗毛に穏やかな表情を貼り付け、ズボンのポケットから1枚のカードを取り出した。
対応しているのは年配の女性スタッフ。ホテル歴40年の大ベテランだ。
バッチリ決めた化粧と、決して着崩さない制服。夜勤の疲れを感じさせない笑顔。夜間に訪れる不審な客にも物怖じせず、堂々とやるべき仕事を全うしようとする。
「……オルキ国、イングス・クラクスヴィーク様ですか」
「そうだね」
訪れたのはまさかのイングスだった。
「大変恐れ入りますが、本人確認可能なものをもう1つご提示下さい」
「もう1つ持たされていないのだけれど、僕は部屋に行かなくちゃいけない」
「ご宿泊の方だと証明出来なければ、客室フロアへ入る事は出来ません」
「身分証を出したよ」
イングスが宿泊している事は明白であり、目の前にいるのがイングス本人である事を疑う要素もない。
しかしスタッフは首を縦に振らなかった。
「あなた様はイングス・クラクスヴィーク様ではございません。お引き取り下さい」
スタッフは毅然とした態度と余裕のある笑顔で頭を下げ、イングスに出て行くよう迫る。そんな中、外から慌てて1人の男が駆け寄って来た。
「失礼、私はこのホテルに泊まっているのだが、この方は間違いなくオルキ国のイングス様ですよ」
「身分証のご提示をお願いします」
「私はブルーンのタンガニー・カカだ。ブルーンの外務大臣だはんで、部屋さ入れでけれ」
「身分証のご提示をお願いします」
毅然とした対応を続けるベテランスタッフに、男はチッと舌打ちをしながら身分証を取り出した。
それは確かにブルーン共和国の身分証であり、タンガニー・カカその本人で間違いない。
「カカ様だけでしたら、中にお入りいただけます」
「なしてイングスさんは入れてけねんだ。国籍差別か? そいだばまねだびょん」
一国の大臣に苦情を言われたなら、いくら高級ホテルでもたちまち支配人が駆け付け、床に頭がつきそうな程腰を曲げて謝る事になる。それでもスタッフは姿勢を崩さない。
その理由は至極真っ当なものだった。
「イングス・クラクスヴィーク様でしたら、既に2時間前からそちらのソファーにいらっしゃいます」
「なんだと?」
男は驚き、薄暗いフロアの先を見つめる。ソファの陰からすくっと1人が立ち上がり、フロントの前まで歩み出る。
「イングス・クラクスヴィークは僕だよ」
見た目は先程までフロアに入れろと要求していた方のイングスと全く同じ。
スタッフの女性はイングスがソファに座っている事を知っていた。最初から別人だと分かっているのに偽物を招き入れる理由など何もない。
「言語は互いが理解でき、意味の齟齬が出ないように共通言語のズシム語でお話し下さいませ。外務大臣でしたら、心得ていらっしゃるかと」
「クッ……そもそもあ、あんたどっちが本物だなんて分かるのか? この場でどちらが本当かなんて、立ち位置が変われば分からない! 服装なんてどうにでもなる! あっちが偽物だ!」
「分からないと言う割に、どちらが偽物と決めるつける事はできるんですね、不思議だなあ」
ロビーの奥のソファからもう1人が立ち上がった。その肩には何かが乗っていて、しばらくすればそれが猫を肩に乗せた青年である事が分かった。
「誰だお前は」
「オルキ国の政務官、ケヴィン・グリュックスです」
「吾輩はオルキである。他国の王も分からぬ外務大臣か、事前資料を全て暗記し、出席者全員の顔を覚えた我が国の外務大臣とはえらく差があるようだの」
「ま、魔獣の」
カカは苦々しい表情でイングスを睨みつける。イングスがロビーにいた事も想定外だったが、まさか国王のオルキまで待機しているとは思っていなかったのだ。
「フン、どうせ連合国側の指示で和平軍側か中立国の要人を攫い、議決の票を差し出すよう迫るのだろう? 馬鹿の浅知恵だな」
「なんですか、ブルーンの大臣に対してのその物言い、あまりにも礼儀を欠いている!」
「悪人に礼を尽くす魔獣がおるか愚か者め。吾輩が魔獣だと分かってのその態度、覚悟は出来ておるよの」
カカは後に引く事が出来ず、その場で暫く歯ぎしりをしていたが、何を思ったか不意に隣に立っていたイングスの偽物をイングスに向けて突き飛ばした。
「はははっ、これでどうだ! このフロアに潜んでいた事までは知らなかったが、その人形がフロア内をどんな服で動き回っていたかは把握済み! ほぼ同じ服装をした2体だ、どっちがどっちだと見分けなどつくものか!」
立ち位置が代わり、よく似た服を着た同じ顔の人物が並べば、監視カメラを見ていようとどちらがどちらの服を着ていたか、詳細までは分からない。
「本物は僕だよ」
「僕も本物だよ」
「君は何の本物なんだい」
「僕は僕の本物だよ」
「そうなんだね」
イングスと偽イングスはどちらも同じ顔、同じ髪型、同じ声、同じ調子で話す。本物のイングスがどっちだとしても、判断に迷う状況だ。
「吾輩には分かるが、吾輩に分かっても嘘だなんだと難癖を付けるのだろう。ケヴィン、貴様は分かるな」
「ああ、一瞬で分かるさ。なんなら服を取り換えてもいいぜ。絶対に分かるから」
ケヴィンの挑発に、カカは好都合と服を脱ぐよう指示し、スタッフに室内着のバスローブを要求した。
これでもう見た目での判断は困難になった。
「フン、自分から見分けがつかないようにさせるなんて、どうかしている」
スタッフが照明を点け、明るくなったフロアに全く同じ顔の2体が並ぶ。カカは偽物に秘密の合図を送り、どちらが偽物か把握済みだ。
「先程まで一緒にいたのだから、私には左が本物だと分かっている。さあ、そっちの偽物を……」
「あっはっは! 馬鹿だなーあんた。誰がイングスの教育をしてると思ってんだ。おい、靴を履いてみろ」
「足のサイズが違うのか」
「一緒じゃねえの? 試しにお前が両方の靴紐まで解いてゆるゆるにしてみろ。そうすれば足のサイズが型が、って言い訳出来ねえだろ」
「く、靴の臭いで分かるのか」
「貴様は頭が悪いのう。人形に体臭などあるものか」
カカは嘲笑に顔を真っ赤にしながら、それぞれ靴紐を解き、わざと靴を入れ替えて履かせる。2体はそれぞれ当たり前のように靴を履き、紐まできちんと結び、そしてまた同じ格好で立つ。
若干目の色の濃い薄いがある気もするが、まあそれだけでどっちと判断するのは無理だろう。
「靴を履かせた、これで何が分かる」
「くっくっく……あはは、あーほんとこんな所で役に立つと思ってなかったぜ」
ケヴィンは笑いながらカカに自分の靴を見るよう要求する。
特に何の変哲もない編み上げのブーツだ。
「それが何だというのか」
「まだ分かんねーのかよ。イングスは俺が教育したって言っただろ」
「だから何だと言うんだ! 神の人形だ、より完璧な方をじっくり見定め……おい、笑うのを止めろ!」
カカは笑うケヴィンに腹を立て、イングスとケヴィンの靴を見比べる。違う靴なのだから見比べてもどうしようもないはずだが、ケヴィンは迷わず本物のイングスを選んだ。
「こっちがイングスだ。そっちはギャロンから連れて来たんだろ」
「だから何故そう言い切れる! 何が違うんだ!」
「俺の靴紐見てみろよ」
「靴紐……何が……」
「俺が結ぶと蝶結びが縦になるんだよ。俺はそっちみたいにちゃんと正しい結び方を教えられない」
見れば偽物は水平で見事な形の良い蝶結び。一方でイングスは紐がよれていかにもくたびれた、縦に近い蝶結びのような何かだ。
「神が教えた完璧なものなんて、イングスには1つもねえのさ。イングスに必要な物は、全部俺達が教えた」
「吾輩は足しか持たぬ故、手で行う事は国民に任せておる」
「フン、どうだ! だから俺が結び方を教えた本物のイングスも、蝶結びは絶対に縦になるんだよーん!」




