身だしなみと浴衣
陽もすっかり沈み、水平線の彼方にわずかに残った茜色が見える。天上には藍色の夜空が広がり、星々が宝石のように瞬いている。そんな美しい夜空が広がる沖縄は、しかし亜熱帯地方特有の高温多湿のせいで夜になっても蒸し暑い。
それは今ハヤトがいるホテルの一室も同じような状態で、帰ってきたらクーラーが点いてなかった。いや、正確にはクーラー自体は動いていたが冷房ではなく送風になっていた。
実のところこのホテルは個別空調で出掛ける前にハヤトが部屋を冷房にして出掛けたつもりだったのだ。しかし眠気で頭が回らなかったせいで誤って送風にしてしまったらしい。今から思えば朝の自分を呪いたくなるくらい暑くて仕方ない。
ハルカにも敢えて文句を言いたい。
それでも《アサヒ》がなんで指摘してくれなかったのかとも思ったが、よくよく考えてみればここの空調はネットにつながっているわけでもないし、リモコンの操作を観測していないはずだから彼女が知る由もないことに気づいた。
その時は端末を掛けていなかったのである。
外より地獄だ。
なんで清掃を頼まなかったんだろう?
そしてハヤトはそんな暑さから少しでも逃れるためのとある手段を手にしていた。とは言ってもそれはクーラーのリモコンではない。クーラーがあると分かりづらくなるので敢えてこの実験を行うのである。
ここは人目を気にしなくても良いわけで、練習にもなる。
早く終わらせてクーラーを入れよう。
「〈送風〉」
魔法陣を描き、その魔法を起動するための言葉を呟いた。部屋の中が青白く照らされる。これは昼間にソフィアが言っていた魔法で、それを今彼女に教えてもらったところだった。もちろん麻薬みたいな効果がないことは彼女に確認済みである。
魔法の発動と共にクーラーの送風とは違った不規則な風が部屋に流れた。肌にそれを感じ、ハヤトの髪がさわさわと揺れる。風の強さもイメージで変えられる。強く弱く、緩急を付けた風だって自由自在。その方向も容易に変えられた。敢えて複数の方向から風を自分に送ることだって可能だ。
しかし。
「う〜ん。まあ、ないよりかはマシかな?」
予想はしていたが、熱い空気を送っても一気に涼しくなるわけではない。それでも体感温度は数度下がった気がするから、本当にないよりかはマシといったところである。
「贅沢ですよ。その考えは。どんなに便利になってもできないことはあるんです。納得できないならハヤトが何か作ってみて下さい」
「それもそうだな」
確かに世の中は便利になっている。それでもできないことは沢山あるし、物理法則を捻じ曲げるなんてことはこの世界ではできない。その中で創意工夫を積み重ねて初めて世の中が便利になる。
ちょっとしたことに文句を言っても仕方ないだろう。かっこ悪い。
「じゃあ、これを、こうして……」
ハヤトはその描いた魔法陣をこれから着ていく服の裏に刻むために、一度魔法を終わらせる。そして今度はカバンからマナリウムの結晶を取り出した。それはまだ光を発しておらず青黒く染まっている。これからそれを構成するマナリウムの繋がりを組替えて魔法陣を維持するプログラムを作るのだ。
簡単に言えば魔法陣を維持することだけに特化した脳を創り出して利用する。つまり新たな人工知能をここに生み出すのだ。これをやる理由はずっと魔法を維持するために集中し続けたら遊べないから。例えば、数学の問題に集中しながら存分に遊べる人なんていないのと同じで、遊ぶならこういう文句言わない相手に頼るのが一番だった。
まあ、ハヤトが今の所作れる人工知能なんて、簡易的で昔からある特化型の人工知能でしかないが。
「随分慣れましたね?」
作業をしていたら、ベッドで寝転がってハヤトの魔法を見ていたソフィアがそう呟いた。彼女はキャミソールに、短パンを履いてかなり露出度が高い服装をしている。その銀世界のような白い肌がよく見えるのだが、ハヤトはあまり気にしない。だっていつもソフィアは家ではこんな格好でいることが多いのだ。もう見慣れてしまった。しかも最近は暑さも極まってきて短パンも履かないことがあるから、色々ともう諦めの境地にある。
「ソフィアが教えてくれたからね。一度憶えれば大抵のことは忘れないよ」
「あとは自分で魔法を作れれば言うことないですね」
「自分で?」
「ええ。ハヤトは知識人より専門家になった方が良いですよ。でないと世の中のことは知っていても何も出来ない人になります」
知識人と専門家の違いは単純かもしれない。その持っている知識を外部からしか手に入れられないのが知識人。そしてその知識を活用して自ら新しいものを生み出すことができるのが専門家だ。
そう考えれば、確かにそうだ、とハヤトは思った。自分は父の薀蓄や、学校の勉強などで知識だけは沢山持っている自覚はある。それでも、ハヤト自身ほとんど何かを成し遂げて形にしたことがなかった。痴がましいかもしれないが、ハヤトはどちらかと言うと知識人に近いのが現状なのだろう。
しかし例えば父はその知識もあって、かつ自ら自分の考えを形にしてきた。目の前の姉だって父が専門家足り得たから存在している。
自分も何かを知っているだけじゃなく、新しいものを作れるヒトになりたいと素直に思った。だって、そっちの方がかっこよさそうだから。知識を幅広く有することは大事だ。それでも形にして何かを残す方がハヤトには魅力的に思われた。自分が何かをやって、その結果残せたものがあって、それを誰かが認めてくれるのなら、それはとても誇らしいものに違いない。
よし。
なら、この作業が終わったら早速何か作ってみよう。
その時、唐突に部屋の扉が開かれた。
「暑っ!?え?なんでクーラー入れてないの?」
やってきたのはミリアだった。彼女は水色と白を基調とした、紫陽花とガクアジサイとヤグルマギクをあしらった浴衣を着ていて、サイドテールの結び目には水玉模様のシュシュを付けている。全体的にとても整っていて、本当に綺麗に着飾っていた。
そしてそんなミリアは部屋の蒸し暑さに驚いたようにハヤトたちを見比べている。そしてクーラーのリモコンを見つけて冷房のボタンを押した。
それからもう一度ハヤトとソフィアを見て、呆れ気味に溜息を吐いた。
「二人共それで行くの?花火大会だよ?もっとお洒落しようよ!」
ハヤトが準備している服は普通に半袖半ズボンの私服で、ソフィアの服も彼女の傍らに質素な肩出しワンピースが広げられていた。
しかしお洒落とは言われてもそこまで気にしたことがないハヤトとソフィアにはよくわからない。だから無反応でいるとミリアがまた溜息を漏らして、言った。
「ああ、なんで家の皆はお洒落に興味ないのっ!?あ、エレナとかフィオナは別だけどさ。もう少し考えた方が良いよ?そういうの」
「だって、面倒臭いじゃないですか?というかそういう見た目を気にするのは心まで見ない人間の悪い癖ですよ。それに付き合う必要がどこにあるんです?」
「だったら、合理的に言ってあげる。外見を気にしないと誰も関わってくれない。関わってくれないと人間関係は構築できない。人間関係を構築できないと誰かのために行動することがなくなる。誰かのために行動しないと誰かの親切は受けられない。誰かの親切を受けられないと孤独になる。孤独になると寂しさで心を病む。心を病むと精神から壊れてそのまま死ぬ。どう?これでもお洒落をしないの?」
ミリアは腰に手を置いてドヤ顔を見せる。それをソフィアは大の字になりながら見上げた。不服そうに眉を寄せて。
「そんなのただのこじつけですよ。それに私のように容姿が良ければそんなの関係ありません」
「あっ!今全世界の女性を敵にしたからね、今の発言!」
ビシッとソフィアに指先を向けるミリア。
まあ、確かに彼女の言う通りソフィアのように自分の容姿を鼻にかけるのはちょっといただけない。彼女からしたら客観的に見た評価の一つでしかないのだろうけど。
「では、何を着れと?」
「これだよこれっ!」
じゃーんっ!、という声と共にどこから取り出したのか、ミリアは何か大きな布を広げた。それはハヤトの方にも飛んできて思わずハヤトは身構える。しかしその布はふわりを舞い落ちてきて、よくよく見れば浴衣だった。
「やっぱ、花火大会と言えば浴衣でしょっ!せっかくだから借りてきたんだよ?」
それを見やってハヤトはミリアに言葉を返した。
「僕、浴衣着れないけど?」
「じゃあ、手伝ってあげる」
「え?」
着替えを手伝うと聞いて一瞬動揺してしまう。しかしよく考えてみればおかしいことはなかった。アニメとかドラマで着物の着付けを手伝うシーンを見たことがある。あれみたいに着付けを自分で出来ない人は誰かに手伝ってもらうのが普通なのかもしれない。
ただ。
「ささ、早く脱いで。浴衣着せてあげるから!」
「うわっ!ちょ、待て!」
気づけばミリアに服を引き剥がされてしまった。それも魔法陣を描いてハヤトの四肢を無理やり脱がしやすい体勢にするものだからハヤトは突然のことに冷静さを失ってされるがままだった。そしてまともに抵抗できぬままに数分後には浴衣を雑に着せられていたのであった。
それを横目にソフィアはこっちにもとばっちりが来そうで自分で着替えることにした。やろうと思えばミリアをこの部屋から叩き出すこともできるが、きっと大暴れするだろうハルカとか、勘違い甚だしくて周りを勘違いさせる花楓を連れてきて、それをミリアが煽動するであろう。そんなひたすら面倒くさい未来が見える。
下手すれば他のお客さんも何か勘違いして、パニックになるかもしれない。
考え過ぎか。
そして同時に思う。もしここに盗聴器なり、隠しカメラがあったらミリアの芸能人生は終わるのではないかと。スキャンダルとかマスコミが無駄に騒いで、相手が弟ということも風潮して大変なことにならないかと。
まあ、その時はマスコミの本社のデータを全て削除してやると思っておいた。というかここにそんな盗聴器とかがある可能性は低いだろう。自分は一体どんな妄想しているのだろうか?
ソフィアは短パンを放り出して浴衣の着付けを順々にやっていく。まずは浴衣を羽織って、死人にならないように他者からは小文字の”y”に見えるように前を閉じる。しかしそこで問題に直面した。身丈が短かったのである。
ソフィアは身丈が長い浴衣の着方しか知らなかった。
「ミリア。これ本当に私用ですか?短い気がするんですが……」
それを聞いたミリアは既にハヤトを着替えさせていて、最終チェックをしているところだった。とんでもない早業だ。
だからソフィアの言葉を聞いてすぐにこちらにやって来た。
「ああ、大丈夫だよ。対丈ってやつをやれば着れるから。ほら、コーリンベルトもあるし。あたしに任せて」
そう言って、ミリアは手際よくソフィアを着替えさせていった。見ていて本当に早い。一体どのくらい着付けの練習をしたのだろうか?そんな仕事でもあったのかもしれない。
そして本当に短時間の内にソフィアは美しい浴衣に包まれていた。よく観察したら項の辺りを晒して大人っぽく見せている。それでいて着崩れる様子もないからそういうテクニックなのだろう。
「ありがと」
「はい。どういたしまして」
ソフィアが身に纏う浴衣は紺と黒を基調にして、宝石のような星々の天の川の意匠が施された夏の夜空が優美に描かれていた。しかもそれらの星は銀糸や金糸で編まれていて、本当に光を浴びて輝いている。
素直に綺麗だと思った。
しかしこれからその壮麗な景色を消し去る花火を見に行くのはなんとなく皮肉のようにも思ったのは、空気を読んで言わないことにした。
身だしなみは社会では大事――。
本日も本小説をお読み下さりありがとうございます。
解説です。実のところホテルの空調については正直なところ一体どんな風になっているのか詳しくありません。全館空調というどこかで纏めて管理していると悪露や、個別空調の個別でお客様におまかせするところt色々あるみたいです。そして近年ではECO清掃と言って清掃して下さいという印として、ドアノブに何か掛けなければ清掃されないというホテルも増えてきているみたいです。まあ、連泊する場合に限られるみたいですが。ですので、ハヤトたちが泊まったホテルはECO清掃を頼まずに、送風にしたまま出掛けたのかもしれません。時間が経ったら勝手に止まるとかありそうだけど、どうなのだろう?それとも予約してあったのかな?それともシステムに異常が逢ったのだろうか?
対丈というのは、本来浴衣などの和服を着る時に身丈――襟から裾までの長さ――が自身の身長に対して非常に長いものを着るところをギリギリ裾が地面をするかどうかと言った長さの和服を着るための手法です。これの良い点は背の高いヒトでもあまり長さを気にして浴衣を選ばなくて良いところです。あまりにも身長が高いとそれに見合った浴衣って余り売っていませんしね。でも今回の場合は、恐らく子供用か何かを持ってきたのかもしれません。私の中ではあまりソフィアの背が高いイメージがないので。低すぎることもないけど。
本日はここまで。感想、評価、質問、お待ちしております!ブックマークもぜひ!またまた〜。




