血に濡れた少女
赤く染まる手。怪我をしている訳でもなく、ただ染まっている。まるで突発的に浴びたように――飛沫となって飛び散って――袖や肩、頬の辺りにも付着している。
それを見てハヤトは愕然として、同時に慄然とした。言い知れぬ恐怖が湧き上がり、心拍が知らず内に上がっていく。誰に聞かずとも分かってしまう事実が、そこにはあった。
一体、何をしていたんだ――。
静かな睨み合いがその少女とソフィアの間で暫く行われていた。少女は警戒するように。ソフィアはどちらかと言えば咎めるように。
しかしその沈黙は唐突にソフィアが破った。
「あなたがここにいるのは、私達と同じものが狙いなんですかね?どうなんですか?」
「……」
少女は答えない。ただソフィアを真っ直ぐ睨み続けている。もしその手の類の者が見たのなら少女が臨戦態勢にあることを見破ったかもしれない。しかしハヤトにはもちろんのこと、ソフィアにも察せられなかった。なぜならその少女は重心は下げているものの、それ以外は何もしていなかったのだから。そしてその重心の下げ方もトレンチコートが隠していてよく見ないと気づけない。
そして彼女の鋭い視線に対してソフィアも負けずとばかりに睨み返し続けていた。
さらにまた降りたしばしの沈黙にハヤトは動けなかった。突然現れた血濡れの少女。そして彼女と睨み合う、恐らく彼女を知っているであろうソフィアの態度。その場に言い表せない緊張が走り、ハヤトにはどうしたら良いのか全く見当がつかなかった。
下手なことを言うと何か良くないことが起こりそうな空気だけは感じ取っていたのである。
するとその少女が小さく呟いた。
「…交渉は、ありえない」
「そうですか。なら、確認したいのですが、あなたはあれみたいな人間の仲間ですか?」
ソフィアが少女の後ろを顎で指し示し、それに少女は迷いなく答えた。
「…わたしは彼らと敵対している。独自に」
「わかりました。では、私達は引きましょうかね」
「は?」
その言葉を聞いてハヤトは驚いてソフィアを見た。外ではあれほどのことがあったにも関わらず、それでもここまで来たのに今更引くというのか。ここまで来て諦めるというのか。
信じられない。
どうして――。
「ソフィア。なんで!?」
「理由は後で話しますよ。機密は彼女が持っていくので大丈夫でしょう」
「でも――っ」
「言うことを聞きなさい!この子なら、大丈夫ですよ。本当に……」
ソフィアの突然の大きな声にハヤトは二の句が継げなかった。最後はどこか言い淀んだ気がしたが、それでも今は何も言うなとソフィアが言いたいことだけはわかった。だからハヤトは何も言わない。何か理由がある気がするのである。
しかし唐突に少女は歩き出し、立ち去ろうとした。それに対し思わずハヤトは声を掛けていた。
「待てよ。お前は、誰なんだ?」
その少女は肩越しに振り返り、感情が分からぬ眼差しで一言だけ呟いた。
「…エヴェリン」
そしてそのまま去っていった。途中不思議なことに彼女の右手や服に付いていた血は碧い光を放つマナリウム――ハヤトは端末を着けていたから見えた――と共に剥がれるようにして跡形もなく消えていた。代わりに床がその血で汚れている。それを見てもハヤトは確信に近いものを感じていた。
そのまま彼女の姿が見えなくなったところでハヤトは口を開いた。
「なあ、ソフィア」
「理由ですか?それは今私達は彼女に生殺与奪の権を握られているからですよ。そんな状況で奪えるわけ無いでしょう?それに彼女ならある程度は信用できますから」
「やっぱりあいつって……」
「あなたの姉ですよ。そして私の妹です」
予想通りだった。彼女も自分の姉なのだ。マナリウムが彼女の意図するように血を払ったのも父の娘だからだ。なぜか既視感に襲われたが、やはり思い当たるような記憶はなかった。
しかしハヤトの中には他のことでもやもやが募っていた。あの血について色々考えてしまうと、自分はどうすべきだったのかと自問自答を繰り返してしまうのだ。
もしかしたら怪我をさせただけかもしれないし、或いは重傷に、最悪……殺していたいたのかも……。
そして思う。なぜ、と。
なぜ彼女はそんなことをしていたのか。しかし彼女からはほとんどの感情を読み取れなかった。無表情というのか、確かにソフィアを警戒して険しい表情だったが、それでもそこからは恐怖も怒りも何も感じなかった。それがとても不思議だったのである。ただあの瞳には冷たい何かしか感じられなかった。
少なくともハヤトには彼女がヒトを傷つける理由が想像できなかった。
そんなことを考えているとソフィアがエヴェリンと名乗った少女がいた部屋に入っていきながら言葉を続ける。
「あの子は一時期ずっと行方不明だったんですがね。父さんはどこにいるか知っているようでしたけど……。個人的にはこれ以上あまり関わりたくないですね」
「どうして?」
「あんな集団に関わって目をつけられるのは嫌ですから」
「集団?」
ソフィアの言葉が分からず首を傾げる。そしてハヤトもソフィアの後をついていった。するとそこは流石は豪華客船の内側客室で、様々な装飾や、模様が編まれた壁、落ち着く光を放つオレンジ色のガラス照明。その他細部に至るまで清潔に保たれたその部屋は高級感を醸し出している。
しかしその部屋の臭いは独特のアロマとむっとする血の臭いが混ざりあったものだった。だから突如父が死んでしまったあの状況がフラッシュバックしてしまい、身体が勝手に強張るのを感じる。
あの冷たい血と父の亡骸。
非現実的だった世界。
もう見たくもない情景だった。
だからハヤトはそれ以上前に進めなかった。いや、あの時の悲しみと恐怖がこの先に行くことを拒んだ。心の奥の自分が行くなと叫んでいる。
それに、ハヤトは抗うことができなかった。
動けないでいたのはどれくらいだっただろうか?実際はとても短い時間だったのかもしれない。しかしハヤトにとっては妙に長い時間に思われた。ただ戦慄く手をもう片方の手で押え、動悸と少し荒くなった呼吸を抑えようと必死になる。しかしそれでもなかなかそれは治まってくれなかった。
そしてその間にソフィアは奥から戻ってきた。
「殺してはいなかったようです。ただ首を切られていたので危なかったですが」
「大丈夫なのか?」
「まあ、大丈夫、でしょうね……」
ソフィアはそう言うが、実のところ奥にいた二人の男女は頸動脈を切られて危なかった。あれは完全に殺そうとしていた切り筋だ。〈再生〉でどうにか命はとりとめたが、大量に血を失っているからこの先は分からない。血は分けられるが、ソフィアはそれをしたくなかった。なぜならあそこにいた人間は絶対まともじゃない。事実は知らないが、ソフィアの合理的な思考は彼らが目的のためなら他人の命を奪うことさえ厭わない存在であることを結論づけている。そんな存在を生かす理由はないが、不服に思いつつもハヤトに見られた時のために最低限の処置はしておいたのだ。それに一応救急車は呼んであるから、たぶん大丈夫だろう。
「さあ、帰りますよ」
「あ、ああ」
そうしてハヤトたちはその場を後にした。
その途中ソフィアに改めて問うてみた。
「ちゃんと説明してくれるんだよな?どうして引いたんだ?生奪与奪の権ってどういう……」
それにソフィアは事実を淡々と述べた。
「そもそも機密を奪った人間が少人数で運ぶと思いますか?まあ、ありえないでしょうね。様々な形態で伏兵を忍ばせているはずです。ならあそこに倒れていた人間以外がどこにいたのかを考えれば、何かあった時のために彼らの仲間が付近の部屋を押さえていたのは明白です。そしてあの子が奪い取ったということなら、あの子の仲間が付近に潜伏して制圧していたと見ていいでしょう。もし無理矢理にでも彼女から奪おうとすれば人数的に数で押し切られます」
「マジか……」
確かにそんな状況下にあったなんてハヤトは思いもしなかったし、予想外だった。しかし彼が最も驚いたのはそれを推測したソフィアの方だ。彼女の言っていることは確かめてもいないから事実かは分からないが、そういう可能性も捨て切れない。もし最悪奪い合いにでもなれば被害が出るだけで奪い返せなかっただろう。
きっとその時僕は足手まといだろうな。
でも。
「ソフィアって、すごいな。そんなことが分かって」
「人工実存の中では最も人工知能に近い存在ですからね。頭の回転速度は人間をずっと凌駕しているんですよ」
間接的に自分を天才と断言しているような気がするが、ハヤトは何も言えない。実際彼女はハヤトよりも圧倒的に頭が良いし、天才と名乗っても過言ではない知能を備えているとは思う。まだ逢ったばかりだが、それだけは理解できた。
まあ、自分を天才と豪語しないなら気にする必要もないだろう。
「あとさ、一つわからないことがあるんだけど」
「なんですか?」
「エヴェリンはなんで機密を奪ったんだ?」
彼女が家族の一員だというのなら、なぜそのまま奪ってしまったのだろうか。ハヤトたちと一緒にいることは出来なかったのだろうか?
それが分からない。
「そんなの知りませんよ。いつか逢った時に聞いたらどうですか?まあ、今は仲間でも敵でもないみたいですが。しかし……厄介ですね」
「え?」
ソフィアは厳しい面持ちで述べた。
「彼女は本来あんなこと出来ないはずなんですよ。ほんと昔は文字通り虫一匹も殺せない子だったんですけどね」
その事実にハヤトは驚いた。虫一匹も殺せないとか、その表現は優しさの代名詞のような言い回しだ。ソフィアはかつてのエヴェリンをそのように言い表した。
しかし今見た彼女の姿からはそのようなものは感じられない。
感情がほとんど読み取れず、ただ冷淡な少女。それが彼女を初めて見たハヤトの印象だった。
「何があったのかは知りませんけど、でも今見る限りだと……」
ソフィアは先程拾い上げた自分の端末を冷めた目で見つめている。
「……」
「どうした?」
「……なんでもありません。さっさと出ましょう」
そう言ってソフィアは早足で先に歩いていってしまった。それを慌ててハヤトは追いかける。その時のハヤトには彼女の目つきがとても懐疑的なものに見えたのだった。
少女と共に新たな謎が出てきて――。
本日も本小説をお読み下さりありがとうございます。
感想、評価、質問、お待ちしております。ブックマークもよろしくお願いします。誤字脱字報告もよろしければお願いします。




