第526話:頬
「うっうっうっ……ディーさんっ…………ディーさぁん……」
彼は、50万人の操られた民を1人で止めるため、全ての力を使い果たしていた。
だが、ほんの僅かに残った命の最後の一雫までを搾り出し、ほとんど意識のないままに、一番大切なものを守ったのである。
そうして、彼は彼女を抱きしめたまま、動かなくなった。
「うぅっ……ごめんっ……なさい……ぐすっ……ディーさん……!」
彼の頬に、ルカは手を当てる。
まるで眠っているようなその顔は、彼女にとってこの世界の何よりも美しく見えた。
そして、彼女は泣きながら微笑んだ後、自分の頬を両手で思いっきり叩いた。
「……私、諦めちゃってました! くっ……んー!」
ルカは泣きながらディーを抱え上げる。
重くはなかった。
むしろ、力がみなぎり、軽いと感じる程であった。
「ロードさんならあなたを……まだ間に合う筈です!」
そして、そう言いながら力強く立ち上がると、そのままベンディゴへ向けて歩き出した。
その様子を、バフォメットは不思議そうに見つめていた。
彼には今、何が起こったのか全く理解出来ていなかった。
だから、分からないままに、やはり彼は口を────
『ガァッ!?』
「……私も馬鹿ですね。こんな簡単なことに気づけないなんて」
バフォメットが口を開いた直後、灼熱の閃光がそれを貫いていた。
頭部を破壊されたバフォメットは、ないままに頭を振り乱す。
「撃つ前に、砲台を潰せばいいだけだったんですよ。隙だらけで……がふッ……ごほっごほっ! ぐっ……ふー……こ、この程度……!」
限界を超えた魔法の行使。
それは、必ず術者に代償を支払わせる。
ルカの口からは血が溢れ出し、一歩踏み出すたびに激痛が全身を襲っていた。
それでも、彼女は歩き続ける。
しかし、事はそう簡単にはいかない。
「ッ! まずい……!」
頭を修復するバフォメットの後方から、おびただしい量の土煙があがっていた。
そう。
既に、ディーの魔法は消えている。
ベンディゴ戦線は今、絶体絶命の窮地に立たされていた。
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「ククッ……あー…………やってくれたな」
むくりと、ドラグニスは身体を起こす。
バフォメットの閃光をまともに受けた彼は、かなりの重傷を負ってはいたが、時間をかけて身体を修復。
魔力はほとんど失われたが、生命の危機は脱していた。
「ふむ?」
辺りを見渡すと、抉れた大地が一直線に伸びており、周りには薙ぎ倒された大量の木が転がっていた。
「ここは……あの森の中か? ここまで……んっ、飛ばされたというわけか」
彼は立ち上がると、身体についた土埃を払いながら翼を生やし、空へと飛び上がった。
「さて、どうなったか…………あー、なるほど?」
そこには、頭を振り乱すバフォメット、進軍を再開した50の軍勢、そしてディーを抱えながらベンディゴへ向かうルカの姿があった。
「ほう、奴が死んだ……ん? いや、まだか。だが、結界は消えたようだな。ベンディゴはもう保つまい。さて、そんなことより……」
ギリッと、ドラグニスの鋭い牙のような犬歯が音を鳴らす。
先ほどから平静を装っていたが、目は血走り、頭の中の血管は怒りによってぶちぶちと千切れ、身体中を駆け巡る血は熱く燃えたぎっていた。
握りしめた拳からは血が滴り、ワナワナと肩を震わしていることから分かるように、彼は今、完全にキレていた。
「よくも……よくもこの俺様をここまでコケにしてくれたなこのクソガキがぁッ! 少々生きづらくなるが関係ないッ……! こ、この怒りを貴様の血で鎮めることよりも重要なことなぞッ……この世には存在しな────」
その時スンっと、彼の鼻が鳴った。
瞬間、彼は大きく目を見開く。
「馬鹿な……まさか奴が!?」
それは、彼がよく知る匂いであった。
遥か以前から知る、懐かしい友の。
「まだ遠いが、凄まじい速さでこちらに……クックックッ……」
いつの間にか、ドラグニスの怒りは収まっていた。
彼はそのまま戦場を静かに見守る。
その表情はどこか、嬉しそうに見えた。
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『ボォォォォ……!』
「はぁッ……はぁッ……しつこいッ!」
『ボバァッ!?』
バフォメットが閃光を放とうとする度にルカは振り返り、その顔面に灼熱の一撃を見舞っていた。
その甲斐もあってか、少しずつバフォメットとの距離は離れていたものの、ベンディゴまではまだかなりの距離があった。
「くッ……あれに固執している間に……ごほッ……い、急がないと……!」
意地か無知か、あるいはその両方か、バフォメットは頑なに同じ行動を繰り返していた。
ルカにとっては僥倖以外の何物でもなかったが、いつバフォメットが近接戦闘に移行するか分からないこともあり、ディーを抱えたまま、とにかく前へ前へと必死に足を運ぶ。
「行軍も……はぁ……はぁ……動け! 足!」
湾曲の結界が消えた時点で、残念ながら既にこの戦場は崩壊している。
しかし、途中ドラグニスの介入があったとはいえ、むしろよくぞ2人でここまで保たせたと言うべきだろう。
紆余曲折はあったが、後少しでロードが指定した時間を迎えようとしていた。
故に、もはや彼女たち2人がここにいる理由はなく、ディーのことを考えれば、彼女の選択は決して間違いとは言えない。
だが────
「ごぼっ……うっ……あ……?」
今まで以上の、大量の吐血。
手足が意思とは関係なく震え、さらに急激に狭まっていく視界に、ルカは激しい焦燥感に包まれた。
「だめっ……まだ……」
必死に自分を鼓舞し、途端に重くなったディーの身体を必死に担ぎ上げると、ルカは必死に前を向いた。
一歩、また一歩と前へ進むが、鉛のように重くなった彼女の足は、もう満足には上がらず、半ば引きずるように前へと運ぶ。
「はぁ……はぁ……ディーさっ……も、もう少し…………ですから……」
耳鳴りが鳴り続け、もはや彼女の耳には自分の呼吸の音しか届いていなかった。
だから、気づけなかった。
そのすぐ後ろまで、バフォメットが迫っていたことに。




