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病弱令嬢のスキルクラフト!  作者: 鏡石渚
第3章

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50 辺境伯家の無能 〜外れスキルで追放された令息、スキル覚醒で無双するはずが何故かざまあされた件〜

 眩い日差しに照らされた剥き出しの道を馬車は行く。

 道の遥か先に、彼の生家が見えた。

 膨れ上がった自尊心を誇示するかのようにそびえ立つ屋敷はその冷たい門を閉ざし、彼の久々の帰省など歓迎していなかった。

 それでも彼は帰ることを選んだ。

 生家、ド・ボルドー邸に。




 ──時は少し遡り、数日前。


 学園に夏休みが訪れた。

 生徒のほとんどは実家に帰省し、蝉の声だけが響く朝の頃。修練場に一人の男がいた。

 生徒会長、カヌレ・ド・ボルドー。

 彼は生家に戻らず、学園に残り剣の修行に明け暮れていた。


「うわ、元会長……」


 修練場を覗き込む一人の少女がいた。

 次期生徒会長、パティスリエ。

 彼女もまた帰省することなく学園に残っていた。


「なんの用だ。ないなら消えろ平民が」

「朝の散歩してただけですー。言われなくても消えますよー」


 先日行われた生徒会長選挙で勝利したパティスリエ。だが決着後に起こったいざこざでカヌレとの間に大きな(わだかま)りができた。

 悪態をつきながら、パティスリエは去ろうとする。


「貴様は帰省しないのか」

「なーんで話しかけてくるんですかねー? わたしには消えてほしいんでしょうに」

「ただの気まぐれだ。答えろ」

「はー、ほんとこいつ……。実家には帰りたいけど帰れないんですよ」


 カヌレはパティスリエの事情など知らないし、興味もなかった。

 だが思った。私と同じだ、と。


「貴様とは相容れないが共通項も多いようだな。私も、生家には戻れぬからな……」

「いやいや、わたしはもうちょっとしたらパティスリーに帰りますよ。今はシューに家族水入らずを過ごしてもらってるんです」

「……そうか。そうしたら私一人になるのか」


 カヌレは感傷に耽った。

 これまで彼の周りには常に取り巻きがいて、独りになることはなかった。

 だが今年の夏季休暇は元生徒会メンバーたちには帰省を促し、カヌレ一人で学園に残ることを選んだ。

 初めて感じる孤独。しかしカヌレには覚えのある感覚でもあった。

 剣を握る手が震える。パティスリエに気づかれまいと、反対の手で抑え込む。


 選挙に負けて以来、カヌレはアンニュイな表情を見せることが多くなった。

 そんなカヌレの横顔をパティスリエは不快そうに睨みつける。


「休みの日まで剣の練習ですか。随分とまあ楽しそうですね」

「楽しそうに見えるか。……私にとって、剣は苦痛の象徴でしかない」

「苦痛なのに握るんですね、変態ですね」

「貴様に会長の座を譲ったからな。私にはもう(これ)しかないのだ」


 譲った……? 選挙で惨敗してわたしに席を奪われたの間違いでしょと思いつつ、パティスリエは何も言わなかった。

 ただ彼が振る剣の軌跡をぼけーっと眺めていた。


「貴様は『炎舞』を知っているか」

「はあ」

「剣を振るうたびに炎が立ち、見る者を圧倒する……。我がド・ボルドー家伝統の剣技だ」

「へえ」

「私がカヌレ・ド・ボルドーであるためには『炎舞』を極めなければならない。なんとしてでも……」

「あ、それならできますよー」


 カヌレは最初、パティスリエの言葉を聞き流した。しかしその腑抜けた声が何度も頭の中に反芻され、湧き上がる疑問符を抑えられなくなった。

 ぬか喜びさせるための嘘だと知りつつも、聞き返さざるを得なかった。


「……今、できると言ったな。それはどういう意味だ」

「わたしの力で、あなたができるようにできる、という意味です」

「貴様……。あまり私を揶揄うなよ? そんな都合のいい話、あってたまるか」

「あ、そうだ! 今からでもシューに謝罪するなら炎舞でもなんでもあげちゃいますよ。どうします?」


 カヌレは殺意を剣に込めた。

 自身の心に踏み入り、デリケートな部分を雑に撫で回すパティスリエの存在を許すわけにはいかなかった。

 斬る。斬り捨てる。誰になんと言われようと私の行いは正当であり、認められるものだ。カヌレは何度も心中で呟いた。


「…………本当、なのか」

「はい?」

「本当に……私でも、『炎舞』に辿り着けるのか」


 気持ちとは裏腹に、本心が口から漏れる。

 カヌレにとって炎舞を極めることが、この世の何よりも重要なことだった。

 たとえそれがパティスリエの虚言でも、嘘だと理解していても、信じたくて堪らなかった。


「できますけど……それより謝罪を」

「早く教えろ。でないと今ここで貴様を殺す」

「……はいはいわかりましたよー。なんか可哀想なので今回だけ特別ですよ」


 パティスリエはどこかに目配せをした。

 いつでもカヌレを殺せるよう待機している彼女の執事に、動かなくていいことを伝えた。

 そんな彼女の仕草も気に留めないほどに、カヌレは動揺していた。


「……私は欠かさず剣の修行に打ち込んだ。それでも辿り着けなかった『炎舞』を、どうやって身につけるというのだ」

「簡単ですよ。元会長、火属性魔法って使えます?」

「ああ。それがどうした」

「じゃあ、その火を剣に纏ってください」

「……貴様、ふざけるのも大概に」

「いいから早く」


 カヌレは言われるがまま、修練用の剣に火を灯した。

 刀身は揺らめき、熱を発している。


「はい、完成ー」

「……殺す」

「いやいや、待ってくださいよ。そもそもあなたの言う炎舞ってのは、火属性魔法を使ったスキルなんじゃないですか」

「何……? そんなわけが……」


 そんなわけがないと、カヌレは思い込んでいた。

 剣の道を極めし者のみが辿り着ける究極の技、それこそが炎舞なのだと。

 しかし、カヌレは炎舞を披露し民衆から支持を得ていた家族のことを、何も知らなかった。

 彼らのスキルについて聞いたことがない。

 もし炎舞の正体がスキルなのであれば、魔法を使っていとも容易くできてしまうではないか。そんなはずがないと、カヌレは強く否定した。


「スキル名は……なんでもいいか。【ヒノカミカヌレ】!」

「なんだ……? 今、何をした」

「スキルにしました。これでいつでも剣に炎を纏えますよ」

「スキル、だと……? スキルなら既に【剣製】が……」


 軽く振るった剣に、火が灯る。

 剣の軌跡をなぞるように、灼熱の赤が空に描かれた。

 カヌレは目の前で起きた奇跡を信じられず、何度も何度も、一心不乱に剣を振るった。

 舞い踊る炎を目に焼きつけるたびに、彼の心に燻っていた火がメラメラと燃え上がった。


「ふっ……ふっふっふっ…………はは、は…………はっはっはっはっはっ……!!」

「え、何。こわ」

「『炎舞』だ……! 私はついに、辿り着いたのだ……! はっはっはっはっはー!!」

「あー、はい。ご満足いただけてよかったです。謝罪も感謝もできない人間と一緒にいたくないのでわたしは帰りますねー」




 そして、時は現在に戻り──ド・ボルドー邸屋敷。


「お帰りなさいませ、お坊ちゃん。旦那様がお待ちです」

「ああ、今行く」


 パティスリエからスキルたち(・・)を付与された後、カヌレは炎舞を極めたことを父に報告し、披露させてほしいと屋敷への帰還を請うた。

 父からの返事は、「了承」だけだった。

 それでもカヌレは喜んだ。

 初めて、父に認めてもらえたからだ。


 従者に連れられ、カヌレは裏庭に通された。

 そこは幼少期に剣の修行に勤しんだ思い出の場所であり、苦痛を刻まれた場所でもある。

 だが、カヌレは過去になど興味はなかった。

 大切なのは今だ。周囲から遅れてしまったが、カヌレは目指すべき場所に辿り着くことができた。

 彼の心は熱い闘志を燃やしている。


 裏庭には父の姿は見えず、辺りを見回すと父が屋敷の窓からカヌレを見下ろしていた。

 剣に打ち込む息子を、遠くから父が見守る。懐かしい構図がここに再現された。


「お父様! 見ていてください!」


 カヌレは剣を取り、炎舞を始めた。

 赤く艶めく鉄が、燃ゆる炎が、彼の意のままに踊る。

 カヌレは知らなかった。空気の爆ぜる音がこんなにもうるさいことを。

 熱が皮膚を焼く。ふいに焦げたにおいがした。


 最後に剣を天に掲げ、炎舞は終了する。

 息を切らしたカヌレが窓を見上げると、父は値踏みするように息子を睨めつけていた。


「いかが、だったでしょうか……?」

「……悪くない。その調子で励め」


 それだけ言うと、カヌレの父は去っていった。


 カヌレは湧き起こる感情に浸り、また一度剣を掲げた。

 ド・ボルドーの跡取りに代々受け継がれてきた伝統の剣技、炎舞。

 その技を習得し、ようやく家の名に恥じない存在となれたことに喜びを隠せなかった。

 これでようやく、カヌレ(・・・)を名乗ることができる。カヌレは再び剣を打ち上げた。




 翌日。カヌレは学園に戻ることにした。

 父親に認めてもらい浮かれきった気持ちを引き締める。

 父から言われた通り、これからも修練を欠かすことなく剣技を磨き続けなければド・ボルドーの名折れになってしまう。

 学園に帰ったら早速剣を振ろう。……そう決意した矢先だった。


「おや、誰かと思ったら我が弟か」

「兄、さん……」


 屋敷の玄関で、兄弟が鉢合わせする。

 兄はちょうど屋敷に帰省したところで、家紋の入った制服を羽織っている。


「落ちこぼれの無能がよく帰ってこれたものだな。この家になんの用だ」

「兄さん! 俺も習得したんだ!」

「習得?」

「ああ! 見てくれ、俺も『炎舞』ができるように……」

「まだそこか」


 カヌレの兄は蔑むことすらしなかった。

 兄にとって弟は地べたを這いずる虫以下でしかなく、眼中になかった。


「ただでさえ救いようのない無能なくせに必死にもがいて見苦しいぞ」

「で、でも、俺も『炎舞』を……」

「ド・ボルドーなら皆、天授の儀で授かっている。お前が授からなかったのはこの家に相応しくないからだ」

「……やっぱり、『炎舞』はスキル、なのか」

「当然だ。そんな簡単なことにすら気づかない頭の弱さだから名無し(・・・)なんだよ、お前は」


 カヌレ(・・・)の名は、代々ド・ボルドーの跡取りにだけ受け継がれてきた。

 父の名はカヌレ・ド・ボルドー。

 兄の名もカヌレ・ド・ボルドー。

 そして、ド・ボルドーの末弟で眼鏡をかけマントを翻し学園の生徒会長の座にふんぞり返っていたら平民に奪われ地位も肩書きも何もかも無くしたこの男の名は……。


 …………ド・ボルドー。ただの、ド・ボルドー。

 彼は勝手にカヌレ(・・・)と名乗っていただけの、ただのド・ボルドーだった。


「名無し……。わ、私は…………何者……?」

「知らん。少なくともお前はこの家に不要な存在だ」

「け、けど! お父様は俺に修練に励むよう言った!」

「そうだな。肉壁となり父上を守る兵隊は一人でも多い方がいい」

「そん、な……。お父様は、私を……認めてくれたんだぁ!!」


 火を纏った剣で斬りかかった眼鏡の男。

 しかし兄であるカヌレに軽く一蹴され、玄関の絨毯の上を転がった。

 屋敷の使用人たちは醜態を晒す男に見向きもしない。


「……いや、待て。お前のそれは……スキルなのか?」

「ああ、そうだ……。兄さんたちと同じく、スキルで『炎舞』ができる……」

「お前のスキルは確かしょうもないものだったはずだ。何故、【炎舞】を?!」

「それは……」


 玄関に転がっていた男は逡巡した。

 言い淀む理由は誰かを庇うためではなく、自分の矜持のためだ。


 彼はパティスリエからスキルを授かった。理屈はわからないがとにかく授かった。

 だがそれを認めると、平民を見下していたはずの自分が平民のおかげで力を授かり、平民のおかげで人生で初めて父から認めてもらえたことになってしまう。

 男は言えなかった。平民から施しを受けたから生家に凱旋できたなんて、絶対に認めるわけにはいかなかった。


「弟よ、スキルクラフトは知っているか」

「スキルク……? なんだ、それは」

「知らないということは、勝手にスキルを付与されたわけだな。いつ【炎舞】を使えるようになった? その付近に接触してきた者が怪しいな」

「ま、待ってくれ! 話についていけない……」

「愚弟は何も考えなくていい。お前はこの国を救う救世主になれるんだ」


 先程までとは打って変わり、兄カヌレは初めて人間(・・)を見る目で弟に微笑みかけた。

 その微笑みに、弟の心はかき乱される。

 常に自分の上に立ち、見下してきた兄がわざわざしゃがみこみ、尻餅をついたまま立てないでいる不様な自分と目線を合わせ、話をしてくれている。

 兄は言った、「救世主になれる」と。名前も肩書きもない何者でもない弟には、これ以上ない甘美な言葉であった。


「これは教会の重要機密だ。女神が授けるはずのスキルを勝手にばら撒く国の仇敵がいる。お前に接触したということは学園内にいるのか……。そいつを捕まえれば私の地位は格段に上がる! 無能なお前でも私のために活躍できるんだ、光栄に思え!」

「私が……兄上のために……?」

「そうだ! まさかお前みたいな愚弟が日の目を見る日が来るとはな。さあ、心当たりはないか?」


 救世主と呼ばれたその男は、パティスリエの顔を思い浮かべた。

 彼女は男にスキルを授けた。あり得ない奇跡を目の前で起こした。

 思えば仮面をつけていたのも素性を隠す必要があったからに他ならない。すべてが繋がった。

 パティスリエは国の敵で、滅ぼすべき人間である。

 ここでパティスリエの名前を出すだけで、男は救世主になれる。


「……言えない」


 男はド・ボルドーの家名に恥じぬ人間になりたかった。

 剣術を磨き炎舞に拘ったのも、父に認められ、兄に認められるため。カヌレ(・・・)の名を継いで次期当主となりたかったからだ。

 しかし、それ以上に、平民からスキルを授けられたという現実を事実として許容するわけにはいかなかった。


 男にとって平民とは地べたを這いずる虫ケラ以下の唾棄すべき存在。

 そんな平民から施しを与えられたと認めたら、男の矜持が廃れてしまう。

 男は徹底的な差別主義者だった。根っこの価値観が貴族優先の排他主義で熟成されてしまっている彼には耐え難いものだった。

 飽くまでも、このスキルは自力で手にしたものだと主張しなければならなかった。


「言えば、私は死んだも同じ……!」

「そうかそうか。ならば死ねっ!!」


 兄カヌレが剣を掲げると、巨大な炎柱が立ち昇る。

 つい先日剣に火を纏わせることを覚えた弟とは比べものにもならない火力。

 炎の鉄剣が振り下ろされる。

 愚弟はただ、目を閉じ、諦めることしかできなかった。


「ぐわっ、ぐあああああっ!?」


 全身が燃え上がり踊り狂ったのは、兄の方だった。

 弟は何が起こったのかわからぬまま、断末魔を叫ぶ兄らしき火だるまをただ見ていた。


「何をっ……! 何をしたぁー!?」


 弟は、自身を覆う薄膜が張られていることに気づく。

 それは魔法障壁だった。まさか自分が展開したのかと疑う。

 しかし、弟は咄嗟に障壁を張れるほど鋭敏ではなかったし、第一開くのに時間を要する障壁を一瞬で展開するなんて荒技、まず不可能だ。

 その時、彼の脳裡をよぎったのは、美しき変人の姿だった──。




「あー、はい。ご満足いただけてよかったです。謝罪も感謝もできない人間と一緒にいたくないのでわたしは帰りますねー」


 パティスリエからスキル【ヒノカミカヌレ】を授かった、その後。

 彼女は何かを思い出し、徐ろに振り返った。


「そうそう。わたしからスキルをもらった人は危険な目に遭うかも知れないので、おまけにもう一個あげときます」

「……なんだ、まだ何かする気か」

「あなたの命なんてどーでもいいですけど……みんなにやってることなので平等にやらせてもらいます。はい、魔法障壁出してください」

「何故私が貴様から施しなど……」

「いいから早く」


 元生徒会長は、言われた通り魔法障壁を展開していく。

 十数秒かけ、彼の周囲を包み込む障壁が完成した。


「じゃ、いきますよー」

「お、おい! 貴様、何をする気だ!?」

「これは、あなたを守るスキル……【自動防御(まもるんです)】──!」




 ──兄に殺されそうになった弟を守ったのは、パティスリエから授かったスキル【自動防御(まもるんです)】だった。

 全身大火傷の兄の周りには使用人たちが集まり、次期当主の無事を願いなんとか治療しようと躍起になっている。

 その様子を眺めることしかできない弟は、傷一つない自身の身体に打ちひしがれた。

 使用人たちは、兄は、父は、この屋敷にいる皆が、兄弟どちらかが死ぬなら弟が死ぬべきだと思っていた。

 弟も理解していた。兄を負傷させてまでのうのうと生き残ってはいけないと、わかっていた。


 しかし、そんなことよりも彼を苛んだのは、またもスキルのことだった。

 彼は兄に殺されるはずだった。だが【自動防御(まもるんです)】によって生かされた。

 よりにもよって、そのスキルを与えたのは、またも彼が見下してきた虫ケラ同然の存在、平民。

 弟は、平民に命を救われた。それは耐え難い屈辱で、彼の矜持や自尊心を破壊するには十分過ぎるものだった。


 現実を受け止められなかった。過呼吸で脳に酸素が回らず、視界が眩み、吐き気がする。

 そんな彼はパティスリエの幻覚を見た。

 幻覚は、侮蔑の表情のままにんまりとほくそ笑んだ。


『あらあら、元会長。平民であるわたしに選挙で負け、生徒会長の座を奪われるなんて忸怩たる想いですねぇ』

「や、やめろ……」

『挙句、わたしに命まで救われてしまうなんて。あは、これから一生わたしを恩人と崇め、生きていることを実感するたびわたしに感謝しなくちゃいけないわけだ』

「やめて、くれ…………」

『まったく────ざまあないですねぇ、名無し(・・・)さん!』

「やめろおおおおおおおおおお!!!」




 その後、男は学園に返された。

 かつて学園に入学した時と同様、誰からも期待されることなく送り出されたのだった。


 彼が兄に重症を負わせた件は一旦保留となり、すぐに裁かれることはなかった。

 後継問題で、兄カヌレが継げないとなると消去法として致し方なく、弟がカヌレ・ド・ボルドーを継ぐことになる。

 そのため、兄の容態が安定し家督を継ぐその日まで、弟は宙ぶらりんに生かされることが決定した。

 まだ(・・)死ぬことは許されない。

 彼は毎日パティスリエに踏みつけられ罵られる悪夢を見ながら、平民に救われた屈辱を直視して生き続けなければならない。


 次期当主候補のカヌレは学園にパティスリエが残っていないことを入念に、執拗に確認し、深く安堵した。

 そして、完全なる孤独に身を置いた。

 蝉の鳴き声が耳に残り、無限に反響していくようだった。


 カヌレは修練場に向かった。

 剣を持つのは恐ろしかったが、彼にはやはり、(これ)しかなかった。

 振るうたび、炎が空気を揺らす。

 蜃気楼にパティスリエの影が見え、斬れば斬るほど増殖していく。

 やがてカヌレは、陽炎に抗うのをやめた。

 平民から与えられた力が今のすべてだ。振り払うことなどできない。

 彼はパティスリエに完膚なきまでに敗北させられたのだ。


「カヌレ様! そ、その炎は……!?」


 修練場の入り口に、四人の貴族が並んでいた。


「ムース! フィナンシェ! ショコラ! そしてイル! 何故ここに……」

「カヌレ様が心配で戻ってきました〜!」

「そうしたら、たまたま四人一緒になったんです」

「帰省中もずっと貴方様のことだけを考えておりました!」

「お久しゅうございます、カヌレ様」


 この四人は元より、カヌレの家の事情を知っていた。

 把握した上で彼のことをカヌレ(・・・)と呼び、会長になる前から慕い続けてきた。

 カヌレは気づいた。彼ら彼女らは、肩書きや名前ではなく、自分自身を見てくれていたのだと。

 会長を降り、不様な姿を晒してもなおついてきてくれる。

 カヌレはぐっと涙を堪え、改めて向き直った。


「……久しぶりだな! さあ、このカヌレ・ド・ボルドーに、貴殿らの帰省の話でも聞かせてくれ!」


 この日、学園は蝉の声も掻き消すほどの賑わいを見せた。

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