4 好きと生きる
オスティ・ノワールは憂いた。明日10歳を迎える愛娘、ガストリエの容態を。
生まれながらに体が弱かったガストリエは体調が安定している方が珍しく、家族で食卓を囲んだのは片手で数えられるほど。
5歳で総白髪になり発狂しだした時は誰もが彼女の死を悟った。
この国の古い伝承によると白髪は天に近い存在とされ、白髪に染まるのは死の兆候のようなもの。黒髪家系のノワール家でガストリエの存在は儚くも美しかった。
そんな娘がいよいよ教会での儀式を受けられる年齢にまで育ってくれた。オスティにとってこれほど喜ばしいことはない。
しかし彼には気掛かりがあった。いや、気掛かりしかなかった。
教会で天授の儀を受けるには町まで出なければならない。ガストリエは無事に辿り着けるだろうか?
授かったスキルで魔力暴走し意識を失うものもいるらしい。娘のスキルは危険なものではないだろうか?
ともすれば杞憂と思われるだろうが、僅かなリスクもオスティは許さなかった。
オスティは娘のため、ガストリエの命を守るため、厳しい決断を下した。
妻スフレとともにガストリエの部屋を訪うオスティ。
ガストリエに外出禁止を言い渡し、恨みつらみ言われることなく納得してもらえたことにほっと胸を撫で下ろす。
書斎へと戻る最中、オスティとスフレの交わした会話はガストリエのことばかりだった。
「ガストリエはいい子に育ってくれたな」
「そうね。お姉ちゃんを厳しく躾けた反動でうんと甘やかしてしまったけれど、まさかここまで聞き分けのいい賢い子になるなんて」
「これで体が健康なら苦しい思いをさせずに済んだのにな……」
「ごめんなさい……。私がもっと体の強い子に産んであげられたらよかったのに……」
「いや、君のせいじゃない! スフレは母として立派にやってくれているよ」
「あなた……。取り乱してごめんなさい。ええ、そうよね……。これからもガストリエのことを見守っていきましょう」
オスティはガストリエのことを一番に想っていた。
生きてさえいてくれればいい。それだけが彼の願いだった。
しかし、その願いは彼の一方通行であることに気づかされる。
「ねえ聞いた? ガストリエ様、明日の儀式に出られないそうよ」
「えー! まさか、また体の具合が悪くなっちゃったんですか?」
「違う違う。旦那様が外出禁止を命じたらしいわ」
階下からメイドたちの立ち話が聞こえてきた。
噂の伝達が早すぎるのはともかく、近くにいる主人に気づかず話に花を咲かせるメイドたちにオスティは呆れの溜息をつく。
オスティが咳払いで注意しようと近づいたその時、気になる話が耳に入った。
「ガストリエ様、お可哀想に……。あれだけ楽しみにされていた天授の儀を受けられないなんて」
「旦那様も酷いですよねー。わたしがガストリエ様ならショックで三日三晩寝込んじゃいます」
「こーら、縁起でもないこと言わないの」
「うう、すみません〜……」
ガストリエは、誰よりも天授の儀を待ち望んでいた。オスティはそんな娘の思いを知って愕然とし、思わず壁に寄りかかる。目から鱗だった。
天授の儀とは祝福の女神からスキルを授かる習わし。オスティはその結果にばかり着目していた。しかし、儀式は本来通過儀礼であり、スキルとは10歳まで生きた証そのもの。
ガストリエを儀式に出さないということはつまり、娘が今まで生きてきたことを否定するようなものではないのか。
オスティは取り返しのつかないことをしてしまった自分を恥じ、可及的速やかに問題解決を図るべく、この屋敷で最も頼りになる者の名を呼んだ。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「おお、ダリオル……! 実はな──」
「お嬢様の件でしたら、誕生日プレゼントとは別に贈り物を用意する、というのはいかがでしょう。スキルの代わりとはならなくともご納得いただけるかと」
ダリオルにはまだ用件を伝えてないにも関わらず現状を把握しており、既に解決策まで提示してくれている。彼の有能さにオスティは舌を巻いた。
なるほど、贈り物か。女の子なのだから物をもらって喜ばないはずがないからな。オスティは自身の経験則から納得した。
しかし彼には、くまのぬいぐるみ以外でガストリエが欲しがる物なんて皆目見当もつかなかった。
「……ダリオル。今すぐガストリエの欲しがっている物を調べてくれ」
「御意。旦那様」
しばらくしてダリオルが舞い戻り、ガストリエは手鏡を欲していることが判明した。
すぐにノワール家の総力が動員され、宝飾店や意匠設計師、細工職人たちを集め一晩で拵えた豪華絢爛な手鏡。侯爵家だからこそできる金とコネと労力をすべて注ぎ込んだ特製の装飾品だ。
これでガストリエも喜んでくれるだろう。オスティの思惑通り、贈り物作戦は功を奏した。
手鏡を覗き込んだガストリエが歌った歓喜の歌。それはオスティの耳に刻み込まれ、もし彼に作曲の才があれば曲に仕立て、王に献上していたに違いないほど幸福に満ちていた。
この10年で一番の笑顔を見せるガストリエ。肌身離さず手鏡を持ち歩き、たまに何故か自分で自分を抱き締める姿が目撃された。
幸せそうな娘を見て、オスティは心から安堵した。儀式は受けられなかったが、ガストリエは笑顔を絶やさず生きていてくれる。それだけでいい。それだけが願いなのだから。
スフレ・ノワールは嘆いた。社交界に連れて行けなかったガストリエのことを。
10歳の誕生日を迎えて以来、ガストリエは「外に出たい」としきりに言うようになった。
精力的に体力作りに励んだおかげで、ガストリエがベッドの上で過ごす時間は減り、家族で食卓を囲む回数は増えてきた。
ガストリエが魔法練習中に二度も倒れたことで「ダリオルは何をしているんだ!」とオスティが怒りの魔法禁止令を下してからも、ガストリエはめげなかった。
ガストリエの頑張りはスフレにも見て取れた。以前ガストリエの部屋を覗くと、仰向けに寝ながら足を上げ、交互にくるくると宙を掻いていた。その意図はわからないがきっと体力作りの一環なのだろうとスフレは納得した。
そしてその日、スフレはとある公爵邸で行われる社交界に出かける予定だった。
久闊を叙する妹との近況報告を楽しみに身支度を整え、茶色の髪を編み込み煌びやかで上品なドレスを纏うスフレ。侍女を連れ廊下にヒールの心地よい音を響かせていると、ひょっこりと小さな大人ガストリエが現れた。
母の存在感溢れる衣装を前に、娘ガストリエは目を輝かせていた。
「わっ、ヴェルサイユ……!」
「あらガストリエ。今日は外に出て大丈夫なの?」
「はい、お母様。ガストリエは体力作りのために屋敷内をお散歩中です。寝てばかりだと飽きちゃいますので」
「そう、元気そうでなによりよ。母はこれから社交界に出かけてくるわ」
「社交界……」
ガストリエはスフレのことをじーっと見つめている。スフレにはこの目線に覚えがあった。スフレの妹だ。
幼い頃からスフレの妹が自分や周りの大人によくしていた妹特有の甘えるような目。それが今、娘から母に送られている。
きっとガストリエは母とともに社交界に行きたいのだろうとスフレは察した。しかしそれには問題がある。
まずガストリエの体調だ。最近はよく動き回っているものの、飽くまで屋敷内に限った話。遠出ともなれば長距離移動や環境の変化も相俟って病弱な身体には負担が大きい。
そしてもう一つ。ガストリエは礼儀作法を教わっていないのだ。貴族令嬢であれば、基本的な挨拶から立ち居振る舞い、貴族のいろはと、社交界に必要な知識教養は家庭教師から学ぶ。しかしベッドの上にいることが多かったガストリエはそれらの礼儀作法を身につけていなかった。
今の状態のまま連れて行っていいものかスフレが悩んでいると、先にガストリエの方が口を開いた。
「私は無教養だし体も弱いし、社交界にはまだ早いですよね。すみません、お母様。お急ぎのところ止めてしまって」
「……私もガストリエを連れて行ってあげたかったわ、本当よ? 残念だけれど……今日はごめんなさいね」
「いえ、私は屋敷でお留守番しております! いってらっしゃいませ」
満面の笑顔で見送られ、スフレは罪悪感を覚える。
ガストリエはよく「外に出たい」と言っていた。社交界にも出たくて堪らなかっただろう。
そんな気持ちを押し込め母を送り出してくれる健気な娘に、スフレは心を痛めた。
公爵邸に向かう馬車の中、蹄音に混じって何度もガストリエの愛らしい声が反響した。
何故娘は病弱なのか。何故娘は普通の人生を生きられなかったのか。
ガストリエのつらい心中を察し、なんとか報いたいと思ったスフレは、お付きのメイド長に命じた。
「帰ったら、ガストリエに社交界の礼儀を教えてあげてちょうだい」
スフレが屋敷に帰ってくると、ちょうど帰宅したばかりのオスティがいた。
二人揃って屋敷に入ると、玄関で構えていたダリオルが迎え、既に夕餉の支度が整っていることを告げた。
二人はダリオルの有能さを語らい合い、自室に戻る前にガストリエの部屋を覗きに行くことにした。
その途中、廊下で立ち話をするメイドたちの姿があった。ひそひそ声とは思えないほど遠くまで届く四方山話にオスティとスフレは肩をすくめた。
「……そういえば最近、ガストリエ様の様子が変じゃありません?」
「変って言うなら10歳になってからおかしいところは多々あるけど、それもかわいいものでしょ」
「んー、そうなんですけどー……。わたし、怖いんです」
「怖いって、何が?」
「……お嬢様が元気になったのはいいことなんですよ。けど、それがなんだか、生き急いでるみたいに見えて……」
「だから不謹慎なことを──。でも確かに……。元気が有り余ってるだけかと思っていたけど、ちょっと変かも」
「楽しみにしてた儀式も魔法も禁止されたのに、やけに素直に受け入れていらしっしゃって……。ガストリエ様は小さな大人じゃなくまだ子どもなんですよ。本心を隠して嘘で笑って、つらいに決まってます!
……怖いんです。明日になったら、ガストリエ様は何も言わずいなくなってるような気がして」
「それは考えすぎ……とは思うけど、一応オスティ様に禁止令の緩和について進言しておきましょうか」
「そうですねー。それがいいです! 魔法が使えるようになったらガストリエ様も喜びますよ!」
血の気が失せたオスティ。彼が隣を見ると、スフレもまた口に手を添え青冷めていた。
考えるより先に走り出した二人。スフレは自分が走り難いヒールを履いていることを思い出し、その場に脱ぎ捨てた。
オスティもスフレも、ガストリエは強くて賢い子だとばかり思い込んでいた。しかしその思い込みは、ガストリエの忍耐と優しさの上に成り立つ幻想であることに二人は気づかされた。
ガストリエのつらさを真に理解してあげることもできず、これまでたくさんの無理や我慢を強いてきた。
もっと傍にいてあげればよかった。もっと我儘を言わせてあげればよかった……。
いつもより長く感じる廊下。足を踏み込むたび、腕を振るたび、息を吐くたび、二人に後悔が込み上げてくる。
まだ間に合うのなら、今までのことを謝ろう。これからはいくらでも好きなことをさせてやろう。もちろんガストリエの体調と相談しながらだが。
そんなことを考え、二人はガストリエの部屋のドアを開け放った。
いつもガストリエが寝ているベッドはもぬけの殻で、室内は不自然なほど静謐に満ちている。
開かれた窓からこぼれる風が長いカーテンを揺らし、部屋に差し込む夕陽が長い影を伸ばしていた。
狭い窓の桟に小さな足を乗せ、立ち上がった少女──ガストリエ・ノワール。
逆光に照らされたシルエットは影に染められ、その表情を窺い知ることはできなかった。
「が……ガストリエ!!」
「いやあ! 早まらないで!」
二人の絶叫も虚しく、小さな少女は夕闇へと飲み込まれるように、窓の外へと一歩踏み出した。
オスティとスフレは訳もわからず遮二無二にガストリエのもとへ駆け寄り、必死に娘の手を掴もうとする。
しかしガストリエは、二歩、三歩と、さらに遠ざかっていく。
…………二歩、三歩……?
明らかに窓の外に足があるのに、落ちていない……?
それどころか、まだまだ歩いていけそうだ……。
一体どうなっているんだ……!?
そんな両親の困惑など気にも止めず、娘のガストリエはその場でくるりと翻り、笑顔を弾けさせた。
「お父様、お母様。見てください! これが私のスキルです!!
最初に見せるならやっぱりお父様とお母様がよかったので、ナイスタイミングでした!」
ガストリエの言葉は彼女の両親の耳には入ってこなかった。
二人はあまりのことに困惑し、あり得ない事象に混乱していた。
二人にはそれがスキルなのかどうか判別がつかず、ガストリエ本人も確証はなかった。
だが、今こうしてガストリエが宙に浮いているということだけは確かな事実だった。
「屋敷内は魔法禁止なので、一応外に出て使っています。……あっ、そういえばお父様から魔法禁止令が出てたっけ……でもスキルだからセーフ?」
「…………よ、よくわからないが……とにかく、ガストリエは無事なんだな?」
「え? それはもちろん!」
「……何がなんだかさっぱりだけれど、危ないから戻ってきなさい!」
「ご心配なく、お母様。こう見えて両手両足で支えているので安定しますし、それに──」
突然、風が音を立ててガストリエを攫った。
ガストリエはバランスを崩し、氷上にいるかのごとくきれいに足を滑らせ、そのまま為す術もなく地へと吸い込まれていく。
二階からの落下。この高さでもガストリエの身体なら怪我では済まない。窓から見下ろす両親は届くはずもないのに必死に手を伸ばしていた。
一方ガストリエは冷静だった。落ちていく彼女は、この世界で最も信頼の置けるその名を叫んだ。
「──ダリオル!」
「全く……世話の焼けるお嬢様ですね」
どこからか現れ、そしてガストリエを華麗にお姫様抱っこで受け止めたダリオル。
神出鬼没な完璧執事なら必ず助けてくれると、ガストリエは確信していた。その期待に応えたダリオルは、顔に貼り付けた微笑の裏に、複雑な感情が入り混じっていた。
しばらくすると、使用人たちをぞろぞろ従えたオスティとスフレが一目散にガストリエのもとへやってくる。
「あ……。ごめんなさい、お母様。私のせいで外行きの服を汚しちゃって。足も泥だらけで……」
「いいのよ……! いいの……! そんなことより……!」
「ガストリエ……! 何事もなくてよかった……!」
「お父様……お母様……」
ガストリエは自身の行動を振り返る。
彼女がスキルを手に入れたことなぞつゆ知らずの両親が、窓から飛び出す自分を見てどう思ったかなんて想像に難くない。
ガストリエは心配をかけたことを謝るも、それを上回る謝罪を両親から浴びせられ面食らってしまった。
「ごめんな、ガストリエ……ごめん! 許してくれ……!」
「え、え……? どうしてお父様が謝るの……?」
「これからは我儘に生きるんだ! 魔法も好きなだけ使っていい! あ、でも倒れないように気をつけるんだぞ!」
「あ、えーっと……魔法は実はこっそり使ってました……てへへ……」
「そうなのね! 全然いいのよ! 魔法なんて親に隠れていくらでも使いなさい!」
「ええ……? 何これ、お父様もお母様も怖いんですけど……?!」
ガストリエの両親は号泣し、少し離れて見守るメイド達もよくわからぬまま泣いている。ガストリエはこの混沌とした状況を飲み込めずに狼狽えていた。
そんな中、相も変わらず微笑を浮かべる執事のダリオルが献策する。
「お取り込み中のところ申し訳ありませんが、旦那様。これからお嬢様は我儘に生きていい、ということであれば、何か今すぐにでもお願いを聞いてみてはいかがでしょう」
「おお、それもそうだな! よし、ガストリエ。何か叶えて欲しいことはあるか?」
「んー……。それじゃあ、社交界に参加したい!」
「あら、奇遇ね! 私もそろそろガストリエを社交界に出してもいいと思っていたところなのよ」
「ほんとに!? やった! これでガストリエちゃんにかわいいドレスを着せられる……!」
「おお、ガストリエの社交界デビューか……! それは楽しみだな!」
「その前に礼儀作法をしっかり学ばないといけないわね」
ガストリエはダリオルを見やった。
今この状況、ダリオルの提案一つで自分に都合よく話が展開しているように思えてならなかったからだ。
この執事にはなんでもお見通しなのだろうか。ダリオルの考えは読めないけれど。
そんな疑心がガストリエの胸中に渦巻いた。
「さあ、ご夕飯の時間です」
ダリオルはいつもと変わらぬ微笑を浮かべている。




