23 わたしは猫である
わたしは猫である。名前はまだない。
昔は何かを名乗っていた気がする。しかしついぞ思い出せない。
考えても仕方がないので、今日も町をぶらりと歩こう。
肉屋で一声鳴くと、お肉をもらえた。
あまり美味しくはなかった。
パン屋で一声鳴くと、パンをもらえた。
パサパサして喉が渇いた。
宿屋で一声鳴くと、お水をもらえた。
眠たくなってきた。
最近覚えた魔法を使い、ふわりと身体を浮かせる。石を積み上げた壁を蹴り上げてどこかの屋根に登った。
気持ちのいい朝は、気持ちよく眠るに相応しい。
黒毛で覆われた身体を丸め、揺蕩う尻尾を見つめていると意識が遠のいていく。
……わたしは生まれた時から魔法を知っていた。
人間の生活も知っていたし、町も、どこにどんな店があるのかも、全て知っていた。
わたしはかつて、誰かだった気がしてならない。
それが何者なのか、あるいは猫か、その他の動物なのかは判別がつかない。
しかしわたしには確固たる自信があった。
きっと崇高な使命を持ち、この世界に降り立ったのだと。
顔を叩かれる。何度も叩かれる。
強い力ではないが、不快に感じる程度の感触がある。
命を脅かすことはないが、悪意を感じるしつこさだ。
わたしはなんとかやり過ごせないかと、断固として動こうとしなかったが、いよいよ我慢の限界がきてしまった。
一体わたしの顔を叩く不届きものはどこのどいつなんだ。わたしは驚かすつもりで、カッと目を見開いた。
そこには、わたしの尻尾があった。
無意識に揺れ、何度もわたしの顔を打っている。
何事もなかったことに安心したが、おかげで目が冴えてしまった。
うんと身体を伸ばし、また人間の世界に降りていく。
ある日、降り立った窓の奥に一人の少年を見つけた。彼の名前は知らない。
誰も寝ていないベッドの横で、彼はただ、時間が流れていないかのように静かに佇んでいる。
わたしは不思議と興味を惹かれた。その少年を見に、窓の縁に足繁く通った。
彼はあまりに動かないので退屈だったが、幸いなことにわたしは猫で、暇を弄ぶのには慣れていた。人間ならそうはいかなかったはずだ。
いつ動くのだろう。ご飯は食べているのか。ちゃんと生きているのか。
興味が心配に変わってきた頃、いつも少年を覗いている窓が少し開いていた。
窓の隙間に猫の手を何度か潜り込ませると、窓は誘うようにゆっくりと開く。わたしはするりと身体を通した。
部屋に入ると、不思議な感覚に包まれる。
わたしはこの匂いを懐かしいと感じた。
少年はわたしに気づかず、ベッド脇で石像のふりをしている。
もしかするとわたしが見えていないのかもしれない。ベッドに飛び乗り少年の反応を見た。
少年は微動だにしないまま、どこでもないどこかを見つめていた。
まさか本当に死んでいるのでは。わたしは不安になり、一声鳴いた。
「…………誰だ、お前」
初めて聞く彼の声に、不思議と尻尾が踊った。
少年は虚ろな目でわたしを見下ろしていた。わたしも堪らず見返してみる。
視線がぶつかる。いつもなら喧嘩の合図だが、敵意は湧かなかった。
くりくりとした金色の髪が垂れている。彼の頭を撫でようと手を伸ばしたが、猫の手では届かない。
少年はわたしの手を握った。何をするのか待っていたが、彼は何かを思い出したかのように遠くを見ていた。
わたしはベッドに寝転がった。お腹を見せるのも、彼相手なら嫌な気分じゃなかった。
彼はわたしを撫で始めた。指先がわたしの毛並みを堪能している。
少年の冷たい手が、だんだんと温かくなっていった。
それから毎日、少年のもとを訪ねた。
少年は少しずつ色を、温度を取り戻しつつあった。
母親を失い、動けなくなっていた少年が、再び自分の足で歩き出そうとしてる。
わたしは傍にいるしかできないけど、ほんの少しでも力になりたかった。
わたしに与えられた崇高な使命が「彼を元気にすること」なら、喜んでこの身を捧げよう。
彼のために生まれてきたのだとしたら──こんな幸せなことはないのだから。
少年はまた、お店で働くようになった。以前の彼のことは知らないけど、誰よりも知ってる気がした。
わたしも変わらず、気の向くままに彼のもとに通った。
少年が落ち込み、塞ぎ込んだ時はわたしが傍にいよう。
些細なことだけど、それがわたしにできる最善だと信じて。
「そういや、お前の呼び名ってまだなかったな」
「にゃーん?」
「名前……。そうだ、プロフィトロールってのはどうだ? 『小さな贈り物』って意味だ、ぴったりだろ」
そう言ってとびっきりの笑顔を見せる彼のことを、ずっと見ていたくなった。
彼は、彼の母親がかけていた眼鏡を受け継いだ。とても似合ってる。最近は勉強を始め、学園を目指してる。
不思議な気分だ。少年が彼の母親に似ていくのがうれしかった。あるいはあえて似せてるのか。
なんにせよ、少年の成長を見守れるのがわたしの本望だ。これ以上何も望まないさ。
わたしは猫。名前はプロフィトロール。
……彼の小さな贈り物だ。
今宵も闇がやってくる。
夜はいい。夜は魔力が湧いてきて、元の姿に戻れる。なんでもできそうな気分だ。
この夜はどこに行こう? どこでもいいか。
月に照らされる空を、わたしは渡り歩く。
高所まで昇ると、遠くにぽつりと光る城が見えた。きっと学園だろう。
光から離れるように東西南北のどちらかへしばらく進むと、森の方に来ていた。
魔獣に見つかるかもしれないので静かに空を歩く。
風が木を揺らし、心地よい音を生み出す。耳を傾けてたら突然、森を震撼させる怒声が響いた。
「バカああああああああああああ!!!!!」
びっくりして空を蹴りつけ、地面も見えないくらい高い場所まで昇ってきてしまった。
降りられなくなったと思い一人震えてたが、階段のように一段ずつ下がっていけばいいことに気づいた。わたしって結構賢いかも。
高度を下げつつ町に戻る最中、先程の声が気になって振り返った。
誰もいないと思ってた森の中に人がいた。女の子かな、何をしてたんだろう? 一体どんな人なのかな?
わたしは未知にときめいた。昔から知らないことに飛び込むのが好きだった、気がする。
下から吹き付ける風が、希望の予兆を感じさせる。
彼女の産声をきっかけに、運命が拍動を始めた。
……そんな気がした。




