第7話
軽やかな足音をたて、姿を現したのは女子生徒だった。
不安そうに眉尻を落としながら、上ってきた女子生徒の顔を見たことがあった満は、意外そうに両眉をあげた。
「あれ? 三重さん?」
「あ……誇色くん」
眉尻だけでなく目尻も下げて、女子生徒――三重あかねはホッと息をついた。
残りの数段を駆け上がり、三重は二人の前までやってくる。そっと眉を寄せた誉に、三重は苦笑して、一歩だけ離れる。
「どうしたの、次の授業の準備?」
「ううん、そうじゃなくて……誇色くんが、仁江くんのこと聞いてるって知って」
「ん? 何か知ってるの?」
聞き込みの最中、相手のそれと悟らせないようにわざわざ会話を誘導していた誉は、馬鹿正直に口を開いた満につい舌打ちをした。その音にハッとするが、すでに遅い。
しかしそんな二人に気にした様子もなく、顔を暗くさせた三重は小さく頷いた。
ショートボブの彼女は、頬に垂れてきた髪を、耳にひっかけた。その仕草があまりに女性的で――――つい、満は目で追ってしまう。同時に誉から鋭い視線が飛んできて、思いっきり天井まで視線を向けた満は生唾を飲んだ。
「あのね、私、一か月くらい前に部活で体調崩しちゃって、保健室に行くことがあったの」
「あー、えっと……三重は、テニス部だっけ?」
「うん。それで、テニスコートから保健室行くときにね、職員玄関から入るのが一番早くて……体調も悪いし、きっと先生も許してくれるって思ってたの」
「うん」
「そしたら、仁江くんの声が聞こえてきて……なんだか、誰かと言い争ってるみたいだったの」
「言い争う……」
小さく繰り返した満は、ゆっくりと誉を見た。
「相手は見たか?」
「ううん、声だけ……でも、その相手が『颯介!』って呼んでたから。それに、声も仁江くんだったし」
「会話の内容は?」
「詳しくは聞こえなかったの……でも、仁江くんが『嫌だ!』って叫んだのと、その相手が『ふざけるな!』って叫んだのはよく聞こえた……一番、声が大きかったし」
「なるほど……」
聞きたいことを聞き終えたのか、そこで誉は俯いた。腕を組み、一切動かなくなる。瞬きの回数まで減るのだから驚きだ。
困ったように見つめてくる三重に、満は苦笑する。
「ごめん、こうなったら動かないんだ」
「ううん、いいの。……こんな話が聞きたかった、ってことでいいのかな?」
「上出来だよ。今日一番の情報だ……でも、なんで直接話してない三重が、俺たちが調べてることとかわかったの? それに、わざわざ言いに来てくれたし」
そういうと、三重は沈痛な表情で顔をそらした。
「後悔してるの」
「後悔?」
頷いた三重は、太ももの前で手を組み、指先を絡ませた。何の意味も持たないその沈黙は、彼女の気持ちを代弁するような重さを感じる。
伏せられた目は、彼女が泣いているかのような錯覚すらもたらした。
「あの言い争いが、もし彼の負担だったのなら……それを見ていた私に、できたことがあったんじゃないかと思って」
「負担?」
「……私、彼が虐められてたんじゃないかって思って」
「虐めって……」
「仁江くん……というか、誇色くんもそうだけど、クラスメイトじゃないと思うよ……私は違うクラスだけど……でも、あのクラスで問題はなかったと思う。友達もそう言ってた……でも、クラスの外で虐めがあっても、不思議じゃないでしょう? 例えば……一年生の時、同じクラスだった、とか」
「まあ……その可能性はあるけど」
「私はその可能性が高いって思ってる……きっと、何か指示されたんだよ。お金とか、そういうの要求されて、仁江くんは『嫌だ』って反抗して、それで、相手が逆切れした」
「想像しすぎだよ」
「でも……そう考えたら、彼の負担に説明がつくじゃない」
「…………」
その言葉に、満は言葉を失った。
何か返事をしなければと思うが、口はもごもごと動くばかりで、明確な言葉として出てこない。その姿に、三重は俯く。
「私、一年生の時、仁江くんと同じクラスだったの。とても優しい人だってよくわかってる。だから、日ごろのストレスをためてても、放火なんて信じられない……だったら、きっと、彼が我慢の限界を迎えるようなことがあったって考えた方が自然だって思った。そしたら、一か月前のこと思い出したの。彼は優しくて、感情を荒立てない人だから、誰にも相談できなかったのよ……それで」
「三重、気持ちはわかるけど、自分を責めすぎだよ」
「でも……」
「仁江が本当に、虐めを原因に放火したかはわからないし、そもそもその言い争いが虐めって保証はないよ。俺たちも、調べてみるからさ」
説得を試みるが、それでも三重の表情は晴れない。
身動きのない誉に代わってなんとか宥めると、三重は静かに階段を降りて行った。最後に、「もし何かわかったら教えてね」と、しっかり目を見据えて告げてから。
静かな空間に、授業開始五分前の鐘が鳴る。そろそろクラスに戻らなければならない。
その鐘の余韻がまだ残っている中で、満は呟いた。
「三重は、仁江のことが好きなのかな」
それは、妙に確信を持った呟きだった。
そもそも、彼女の言葉はちぐはぐだ。虐めの犯人を一年生の時にクラスメイトだったのかもしれないと言っておきながら、その相手はわからないという。そのくせ、仁江のことは声でわかったというのだ。
名前を呼んだとは言っていたが、『そうすけ』という名前は別に珍しくもない。同じ学年でも三人いることを満は知っている。
一年生ということは、それこそ約二か月前までは聞いていたクラスメイトの声だ。それなのに、仁江の声だけは判別できて、相手の声はできないとはどうなのだろう。
加えて、彼女は自分を責めすぎている。
クラスメイトの異常に気付けなかったと自分を責める満も他人のことは言えないが、彼女はそれ以上に自分を責めている。
彼女の考えは一理あったが、そのどれもが想像の範囲内だ。そして自分を責め、自分の想像に泣きそうになる。まるで、親族や親友の異常に気付けなかった人間のように。
満はそこまで考えて、仕方のないことだなと頭を振った。それを今ここで考えたところで意味はないだろう。今は、彼女がもたらした情報を吟味する時だ。
そして、誉に視線を移し、じっとこちらを見つめる誉に、ぎょっと目を見開いた。
「え、えっと、どうした?」
「いや、それくらいは気付けるんだなと」
「ちょっと俺を馬鹿にしすぎてないか!?」
「まあ冗談だ」
「冗談にしては真剣だったぞ、お前」
「それより、だ」
あえて言葉を区切った誉は、そこで息をついた。
「やめるなら今のうちだぞ」
「はあ? なんでここでやめるんだよ。情報を手に入れたばっかりなのに」
「これ以上調べたとして、出てくるのは噂通りの憂さ晴らしか……あるいは、彼女の言うとおり、虐めが関係している可能性が高い」
「……ああ」
「仮に、虐めが関係していて、先の彼女が悲しむ結果になるとする……しかし、それを暴いてどうするんだ。あえて隠してやった方が、幸せなこともあるだろう」
「……でも、虐めは見過ごせないだろう」
「それでも暴くということだな」
「そもそも、誉だってそういうセコイことは嫌いだろう」
「そうは言ってもな……」
小さく、「僕にも気遣いの心はある」と続いたが、満はむっと眉を寄せた。
先ほどから調査をやめさせようとする誉に不満はあるが、それでも、あえてやめさせようとするには何かしらあるのではないだろうかと思えてくる。
だが、どんな結果にしろ、真実を彼女に伝えてあげることこそが重要なのではないだろうかとも思うのだ。
しかし、誉に言及しようとしたところで、誉は動きを止めた。
「や」
「……花形」
階段の手すり越しに覗く花形に、満は呆れたように首を落とした。
やあやあと体に触れてこようとする花形に、誉は嫌そうに体を捩じって避けている。潔癖症のことを承知している花形は、本気ではないようですぐに追いかけるのを止めた。
にやにやと楽しそうな表情に、誉は舌打ちをする。先ほどよりも強い舌打ちだ。
「何の用だ、自称情報屋」
「自称とは酷いなぁ、二人のために頑張って『仁江颯介』について聞き込みしてあげたのにさぁ……クラスメイトは聞き込み終わってるだろうけど、他の人はまだでしょう?」
背中で手を組み、下から見上げるようにする花形に、誉は苦々しく頬を引きつらせた。
彼女を自称とは言っているものの、情報屋として認めている二人は彼女の実力を知っている。二人が苦労してクラスメイトに聞き込みをしている間に、彼女はその倍以上に聞き込みをしているのだ。
そして、こうしてわざわざ二人の前に姿を現したということは、花形が二人にとって有益な情報を手に入れたということに他ならない。
満はそもそも彼女との実力差を認めているため苦笑するだけで済むが、実際に情報を収集していた誉はもう一度だけ舌打ちをした。どうやら悔しいらしい。
にっしっしーとわざとらしく笑った花形は、そこで声を潜めた。
「さっきの会話聞いちゃったんだけどさー」
「さっきって……三重の話か」
「そそ……悪いとは思ったんだけどねぇ。でもその分、かなり良い情報をお伝えできると思うなぁ」
語尾を伸ばし、誉にちらちらと視線を投げる花形に、やはり誉は顔を歪める。
そして、目を閉じ数秒。
目を開いた時にはすべてをリセットしたように、冷静に彼女を見据える。
「それで?」
「ありゃ、相変わらず立ち直り早いなぁ」
「いいから、早くしろ」
「急かさないでよぉ。急がなくても、仁江颯介が誰と言い争ってたのかなんて、教えてあげられるよー?」
その言葉に、満は息を飲んだ。
三重の話を聞いてから花形が情報を集めた、というわけではないだろう。それにしては、三重がいなくなってから花形が現れるまで短すぎる。
だとすれば、彼女が集めていた情報と、それを実際に見聞きした三重の情報が、ちょうど繋がったということである。
誉は、目線で先を促した。
歯形はゆっくりと背中で組んでいた手を解き、右手の人差し指を唇に押し当てる。そして、わざとらしく顰められた声で囁いた。
「これは、仁江颯介と同じ中学校に通ってた女の子から聞いた話」
ひっそりと紡がれる言葉に、自然と、満は身を乗り出していた。
「仁江颯介は、親友ともいえる友達がいたんだって。よく一緒に行動して、お昼ご飯も机をくっつけて食べてたくらい。同じ作家が好きで、よく小説の話しをしていたそうなの……話を聞いたその女の子も本好きで、たまに会話に混ざってたらしけど、彼らはとっても仲が良くて、趣味も本当に一緒で、あまりに仲がいいから話に入りにくかったって言ってたわ」
「それで?」
「焦らないでよぉ……その親友と仁江颯介は、同じ高校に進学したの。もちろん、この黎明高等学校ね。彼らは違うクラスになってしまったけれど、それでも本好きの彼らは一緒に好きな作家の話しでもしてるんだろうなって、その子は思ってたんだって……でも聞いたところ、仁江颯介とその親友は、とっても仲良しだったのに、最近はあまり会話もしていない……というか、言ってしまえば、仲が悪かったんだって」
「……」
「で、その仁江颯介の『親友』……誰だと思う?」
そう訪ねてくる花形に、誉はそっと目を閉じた。
それを見て、花形は満へと視線を向ける。彼女がそう訪ねてくるということは、おそらく満が知っている生徒なのだろう。だが、今日クラスメイトに聞き込みをしたときには、そういった話は出ていない。
まして、仲がいいにしろ悪いにしろ、同じクラスなら不自然な態度に気付いてもおかしくない。
首を横に振った満に、花形は笑みを深めた。
口の端がにゅっと伸び、弧を描く。
「『親友』の名前は奏楽智……つい先日、ビルから落ちたあの子だよ」
ひゅっ、と満の喉が鳴った。
「そして」
冷え込んだ声に、満は呼吸を止める。
方法を忘れてしまったかのように、閉じない瞼をそのままに、満は錆びたブリキのようにぎこちない首を回して誉を見た。
「かつて親友同士だった仁江颯介と奏楽智、その二人が、さきほどの彼女が口にしていた『言い争い』の当事者なんだな」
満は、ゆっくりと目を閉じた。乾いた瞳に、じんわりと涙が滲んでくる。
「誉……」
「……なんだ」
「気付いてたのか、このこと」
「……」
「調べるのやめようって言ってたの、このせいか?」
「僕はエスパーじゃない。聞いていない情報をここまで正確に予想するのは無理だ」
満は目を開いた。
そこには相変わらず、表情を変えない誉が直立不動でいる。
「だが、可能性の一つとして考えていた」
その言葉に、満は再び目を閉じた。
今はまだ、誉も花形も直視したくなかった。




