第5話
満は背中がさわさわと動くのを感じた。
死に触れた時に感じる泡立つほどの感覚ではないが、背中を誰かが触っているかのような、奇妙な違和感だ。
ゆっくりと後ろを振り返るが、誰もいない。
誉と一緒にいると馬鹿に思われることは多いが、満も誉に探偵を勧めるほどにはミステリーが好きだ。基本的に刑事ドラマは常にチェックしているし、漫画も読む。
当然、ミステリー小説も嗜んでいた。
とはいえ、彼も一介の学生である。
お小遣いはそれほど多いわけではないし、この年頃はどうしても、ほしいものがお菓子を含む間食に偏ってしまう。少しでも節約したいのは道理だ。
黎明高等学校の図書館は充実している。
本を借りる生徒も、おそらく多い方なのではないだろうか。その多くは、漫画や雑誌コーナーなのだろうけれど、それでも本好きにはミステリーのみならず、小説コーナーの需要は高い。
借りる本を吟味していた満は、腕時計をちらりと見て、思わず背筋を伸ばした。
思っていた以上に時間がたっている。
面倒だから待っていると言った誉を教室に残してきたが、それから一時間だ。かなりご立腹になっている誉が想像できた満は、ヤバいなと口だけ動かした。
満が違和感を感じたのはその瞬間である。
借りようと思っていた本を片手に、満は周囲を見渡す。満がいた本棚の列には誰の姿も見えない。足音を立てないように、そっと移動した。
本棚、二列分。
静かに移動した先で人影を見つけた満は、咄嗟に本棚の影に身を隠した。
そこには男子生徒が立っていた。
手には一冊の本があり、満が隠れている方とは真逆を見つめている。男子生徒が見つめているのは、図書館の入口方向――あるいは、貸出カウンターが設置されている方向だった。
男子生徒の喉が動き、彼の唾を飲み込む音が聞こえてきそうなほどの緊張感が、離れている満にも伝わってくる。
男子生徒は、ズボンのポケットに手を入れた。
そこから取り出されたのは、小さなカッターである。ゆっくりと刃を出し、唇を舐めてからそのカッターを本に押し当てようとする。
そのまま刃を滑らせれば、本が破けてしまう。
「何してんの」
満は、静かな声で言った。
図書館に響く声ではないので、おそらくカウンターにいる図書委員や司書には聞こえていないだろう。けれど、緊張の糸を張りつめている男子生徒の耳には届く。
勢いよく顔をあげた男子生徒は、一瞬で顔を青ざめさせた。
その顔に、満は眉を寄せた。間違いようがなく、見覚えがある。
彼は同じクラスだった。
トランプで賭け事をしたりするほど仲がいいわけでもない――というよりも、彼はそういったことには参加しない生徒だった。
評価をするなら、『真面目な生徒』である。
チョークには触れず、教師の指示にも時々反抗する誉や、なんだかんだ騒ぐのが好きな満のようにふざけることはしない。
予習復習を欠かさず行い、テストではクラスで一番をとる。塾にも通い、規則は必ず守るような、絵に描いた優等生。
「山崎、何してんの」
動かない男性生徒――山崎に、満はもう一度、同じ言葉を繰り返す。
言っておきながら、これはないなと心の中で呟いた。
何してんの、と言ってはいるが、この状況で彼が何をしようとしていたのかなど、わかりきったことだろう。
少なくとも、本を借りるために何かをするというわけでもあるまい。
「こ、誇色……」
震える声で、山崎は満の名を呼んだ。
見つかってしまったことによる動揺が大きくて、名前を呼んだことに意味なんかないのだろう。真っ青な顔で、唇を震わせる山崎に、つい眉を寄せる。
「なんで、こんなことしてんの」
「あ、いや、その……」
「理由を説明してよ。まだ未遂なんだ、じゃないと俺も、なんとも言えないよ」
ギュッと引き結ばれた唇に、目はどこか泣きそうだ。
それもそうだろうなと、満は山崎の様子を観察する。
彼は今まで優等生でとおってきた。成績も優秀で、模範的な生活態度でよく教師に褒められているのを見たことがある。
聞いたところによると、すでに志望大学も決まっていて、このまま順調にいけば推薦をもらえるかもしれないとのことだ。
そんな状況でこんなことをしてしまえば、推薦の話は水の泡に消える。
何度も開き、閉じ、息を吐き出していた山崎は、震える唇を舐めた。
「お、親とか先生とかに『優等生』って言われ続けて、俺も、そういう生徒でいなきゃって思ってはいるんだ……でも、そういう期待とか、重くて……俺だって遊びたいし、勉強さぼりたい時もあるけど、いい子でいなきゃって思ってて、それで、最近、疲れちゃって……」
「……つまり、ストレス発散ってこと?」
少しだけ冷たい声になってしまったが、山崎は震えながらもしっかりと頷いた。
満は長い息を吐いた。
「山崎、前からこんなことしてんの?」
「し、してない!」
口調が強くなった山崎に、慌てて人差し指を唇に押し当て、手をゆっくり上下させた。
ハッと気付いたようで、山崎も口を噤む。こんな大きな声を上げれば、入口まで聞こえてしまうかもしれない。
満は前髪を掻き上げた。
どんな理由であれ、犯罪行為は犯罪行為だ。こんな場所でなければ器物損壊として捕らえられるだろう。
しかし、山崎の苦悩だとかストレスの重さというものを考慮する必要もある。
親や教師とは言っていたが、満を含めた周囲の生徒も、山崎を『優等生』『いい子』と評価して遊びに誘わなかったこともある。それは虐めというよりも「どうせ山崎は俺たちの遊びには参加しないだろう」という一種の卑下なのだけれど、そんなものは山崎には関係ない。
事実、彼が一部の成績優秀者通しでしか会話をしていないとしても、その会話の糸を切ったのは、どちらかと言えば満たちだ。
そうなると、少しだけ申し訳ない気持ちが湧き上がってくるもので、問答無用で教師に突き出すというのも憚られる。
満が山崎を『優等生』と称したように、彼は日ごろから真面目だった。その姿は見ているし、よく知っている。
加えて、口調を荒げてまで否定した様子は全くの嘘とは思えなかった。
今回が初犯なら、見逃してもいいのかもしれない。
「山崎、今回は、まだ本を傷つけていないよな」
急にそう言った満に、顔をあげ困ったように眉を顰めていた山崎は、言わんとしていることを理解したのか、その眉がすっと上に持ち上げられる。
わかりやすいその姿に苦笑して、もっとはっきり言おうと口を開いて――
「何をしているんだ、お前」
呆れたように現れた誉に、満はぽかんと口を開けたまま動きを止めた。
そういえば、そもそも彼を一時間も待たせてしまっていることに慌てていたのに、そんなことをすっかり忘れて山崎と対面したことを思い出し、思わず顔を手で覆う。
ご立腹ではないようだが、この場面に彼が出くわしたのは痛い。
満にはもうどうしようもなかった。
「状況から見るに、山崎がカッターで本を切ろうとしていた。そこに出くわした満が止めた、という感じか」
「……その通り」
「だったら司書に報告しなくてはな」
「ま、待ってよ!」
もう諦めてしまった満だが、山崎は抗議の声を上げた。
「俺は確かに、そういうことしようと思ってたけど……でも、誇色に言われてやめたんだ。まだ本だって傷つけてない。今回くらい、許してくれよ」
「ふん、くだらない。こういう小さいことを放置するといけないんだ。割れ窓理論は知らないのか」
「誉、普通は知らないと思うよ」
割れ窓理論を持ち出してきた誉に、満は苦笑する。山崎は何のことだと言わんばかりに目をうろつかせていた。
割れ窓理論とは、小さなことが大きな犯罪に繋がるということを提唱したものだ。すなわち、町の中で建物の窓が割れているのを放置しておけば、小さなことは見逃されるような杜撰な町だと思われて、他の犯罪行為が増加する、というもの。
綺麗な場所は綺麗に使おうと思うのが人間の心理だ。汚いまま掃除がろくにされていない場所では、『自分一人が汚しても』と思う気持ちが芽生える。
正直、山崎の普段の行為を踏まえたうえで満は見逃したし、目撃者は誰もいない。
ここで追い詰める必要性というものを特に見出していないが、誉は山崎にまっすぐ視線を向けた。
「憂さ晴らしか何だか知らないが、器物損壊だぞ、これは」
「さっきも言ったけど、まだやってない! 誇色に言われて、さすがにダメだと思ったよ……今回、一回くらい見逃してくれても」
「一度目じゃないだろう、お前」
不遜な態度で言い切った誉に、満は目を見開く。
そして、慌てて山崎を見ると、山崎も目を丸くしていた。
「な、何を根拠に……」
「うちには優秀な情報屋がいてな。お前が文房具屋やコンビニ、果てには本屋で万引きしていると教えてくれたんだよ」
「だから、証拠なんてないだろ!」
「だったら今すぐ、お前の親に電話してみるか。部屋の中を探せば、少しは出てくるだろう。封の切られていない商品が。それが盗品の一覧と一致すれば、逃げられないぞ」
山崎の喉仏が上下する。
「そうとう鬱憤が溜まっているらしいな。それはわかるが、流石に庇えない。大人しく怒られてくるといい。幸いなことに、世の中は子供にやさしい。万引きしても商品とお金を持って店を回れば多くの場合が許してくれるし、ここでの器物損壊は未遂だ。よかったよな、子供にやさしい世界で」
ねえ、先生。
そう最後に付け足した誉に、今度こそ山崎は顔を蒼白にした。
本棚の影から、国語科教師が姿を現した。少し悲しそうで、しかしすぐに目を吊り上げると山崎に近づく。
女性で、小柄で、簡単に武力では勝てるだろうが、それでも教師というだけで逃げられない状況はできている。そのまま山崎はよたよたと、罪人のように教師に手をひかれていく。
本棚を曲がる瞬間、山崎は誉を睨みつけた。
「おい、誉、ああいうことしたら恨まれるぞ」
山崎の視線を受け嫌悪感を滲み出した満に、誉は鼻から息を出した。その姿は不遜としか言いようがない。
だが、大学推薦までかかっていた彼からすれば、教師まで呼びつけてわざと話しを聞かせた誉を恨んでも不思議ではない。特にこのままいけば彼の推薦はないだろう。一般受験で入れるだけの頭はあるけれど、そういう問題ではないのだ。
「興味がない」
ばっさりと切って捨てた誉に、満は肩を落とす。
きっと恨まれて何かが起きれば、潔癖症の彼に代わって満が動くことになるのだ。
「それよりいつまで僕を待たせるんだ。借りる本が決まっているなら、はやく借りてこい」
そこでようやく、誉はここに来た理由を思い出したのか不機嫌そうに言い放った。
鼻に皺が寄っている。
下手なことをいうわけにはいかないなと、満はすごすごと貸出カウンターへ向かった。
本を借りるのは難しくない。
図書カードに記載されている一人ひとり違うバーコードを提示すれば、あとは機械が読み取ってくれる。図書委員は返却期日が書かれた紙と一緒に、生徒手帳と本を渡してくれるのだ。
時間は一分もかからない。
扉の前で待っていた誉に手を合わせ、早くしろと怒られながら扉を開けてやる。
中に入ってくるときは、どうやら先ほどの国語教師がいたのでついでに一緒に入れてもらったらしい。
潔癖症にもほどがある。誉にとっては扉は大きく立ちはだかる壁なのだろう。
いったん教室まで戻り鞄をとってから学校を出る。
時刻は六時を過ぎている。空はうっすらと茜色に染まっており、家に帰るころには日が落ちているだろう。
うっすらと響いている部活生の掛け声を聞きながら、校門を出ようとしていた二人は、走ってきた女子生徒と鉢合わせした。
「あれ、花形?」
息を切らしながら頭を下げて謝っている姿に、満は小さく呟く。彼女がつけているシュシュが少しだけ乱れていた。
顔をあげた花形は、「うわあっ」とわざとらしく声を上げると慌てて前髪を撫で付けた。走ったせいで乱れた前髪は、撫で付けた程度では少し大人しくなった程度だ。
その前髪を直してやりながら、満は首を傾げる。
「どうしたの、花形。そんなに走って……忘れ物でもした?」
「ううん! でも、二人に知らせなきゃって思って」
「何をだ?」
「放火魔が捕まったの!」
大人しく前髪を直されながら、花形は嬉々とした表情でそう語った。
それなら走ってこなくとも、おそらく千秋が同じように嬉々とした表情で語ってくれる程度のことだろう。千秋のことを知っている花形なら、わざわざ走ってくることはしないはずだ。
その違和感に誉も同じことを考えたのか、腕を組む。
「へぇ、誰だったんだい?」
「それが驚きなのよ」
「驚き?」
「ええ」
前髪を直し、少しだけ身を引いた満に小さくお礼を言って、花形の唇は弧を描いた。
吊り上った唇と目は少しだけ猫を思わせる。
人差し指を唇に押し当てて、僅かに顎を引いた。悪戯っ子の笑みだ。
「犯人はうちの生徒、しかもあなた達と同じクラスにいる仁江颯介よ」
2015年最後の更新になります。
新年が明けましたら更新を再開いたします。
それでは、ここまで読んでいたらき、まことにありがとうございます。
2015年も大変お世話になりました。




