第3話
「ただいま」
「おじゃましまーす」
黎明ビルでの事故――事件から三時間。
彼女が連絡していたため数分後にやってきたパトカーは一台で、中からは中年警察官が二人降りてきた。
警察官は遺体に触れ、小さく「こりゃ即死だな」と呟いた。
近くにいた満には聞こえたため、隣にいた誉の耳にもきっと届いていることだろう。
二人はその警察官に事情を聴かれることになった。
基本的に今回の満は誉の指示通りに動いていたので、説明のほとんどは彼がした。満はその説明に頷くだけだ。
悲鳴に駆け寄ったところまではうんうんと頷いていた警察官も、殺人かもしれないとビルの非常階段を駆け上ったあたりで顔色を曇らせた。
まあそうだろうなぁと他人事のように聞いていたが、落ち着いて考えればあそこまで正直に言う必要はなかったように感じる。
その後も話は続き、扉を開けたが誰も見えなかったので、自殺なのかもしれないと思い下まで降りてきた、ついでに言うと遺書はなかったとまで誉は言い終えた。
警察官からお説教を頂いたのは、当然のことだろう。
そのあとで「僕たちは女性の悲鳴を聞いてからすぐに駆けつけました。たぶん、一分もかかっていません。僕たちがビルに入ったことは謝りますが、決して犯人ではないと宣言しておきます。もし僕たちが犯人なら、悲鳴を聞いてから駆けつけるにしても、一分じゃ階段を駆け下り、正面入り口から外に出て女性のいる裏まで駆けつけるなんてできませんしね。怪しいなら女性にも聞いておいてください」と言い切った誉には本当に感心した。
その姿に、警察官ですらどこか呆れた表情だった。
とはいえ、満も何かの拍子に事情聴取はごめんなので、何も言わなかったのだが。
その後は遅れてやってきた他のパトカーに誉と満は分かれて乗り、それぞれ簡単な事情を聴かれたのだが、嘘は言っていないので話の食い違いなど起きるはずもない。都合の悪いことは「気が動転していてうろ覚え」でゴリ押しした。
誉がうまく説明するだろうという甘い考えも確かにあったが。
二人が解放されたのはそれから二時間後のことだ。
仕事で出張している満の両親に代わって、誉の母親が迎えに来た。
出張で両親がいない間は空野家でお世話になるというのが、満にとってはいつものことだ。もともと夕食をご馳走になる予定だったため、なんの支障もない。
二人は玄関で服を脱ぎ、籠に入っている服に着替える。
先に着替えて家の中に入った誉の母親である千秋は、料理を温めなおすわねーと二人に声をかけた。
ハンガーで満の分の制服は壁にかけられる。満の制服はそのまま洗濯機の中だ。最近は便利な世の中で、水なしで除菌をしてくれる洗濯機があるらしい。
そのまま洗面所で丁寧に手を洗った満は、アルコールとタオルで教科書のすべてを拭いている誉を置いてリビングへと向かう。
勝手知ったる家なので、特に案内を頼むこともない。
リビングにはいい匂いが漂っている。
今日はどうやらカレーらしい。思わぬ好物に、自分の運が上昇したように感じる。
「誉はどう?」
「もう少しで終わりそうですよ。今日は教科書の量、少ないですから」
「そう、じゃあ手伝ってもらえる?」
「はい」
難儀だよなぁと思いながら、満はキッチンに設置された箱から真新しいビニール手袋を取り出しはめた。こういなければ触れない。
空野誉はどうしようもない潔癖症だ。
汚れているものはもちろん、他人に触られることも良しとしない。彼が常に手袋をはめているのも、そうしないと何も触れないからだ。教科書も家から持ち出すたびに汚れると思うらしく、家に帰れば毎日アルコールで消毒しなければ気が済まない。
前までは手も十分以上は洗っていたのだが、最近は手荒れも酷いため、どうにか五分程度で終わらせるようにしているらしい。
生活を見ていると大変そうだが、何より難儀なのは家族だ。
基本的に外は汚いという意識を持っているため、外に出かけるたびに着替えなければならない。一度使ったタオルは洗わないと使えないので、洗濯物は増え続ける。
料理もこうして手袋とマスクをつけなければ、彼は食べることができない。外食もできないため、千秋は毎日料理を作らなければならない。
友人として強要される部分はあるが、それも長い付き合いで慣れてきた。
しかし家族として彼と付き合っていくのは、それはまた別の大変さがあるのだろう。
それを笑って「あの子やばいよねぇ」と言える千秋の心の広さは推し量れない。
黙々と食器を並べ、三つのカレーをテーブルへと運ぶ。
そこに、少しだけ猫背になった誉がやってきた。潔癖症で彼自身が行ってることだが、それでもアルコールで教科書をすべて拭き、手を洗い続ける行為はかなり疲れるのだろう。
何も言わないまま席についた誉に続いて、千秋と満も席に座る。
「いただきます」
「……いただきます」
「はい、どうぞ召し上がれ。……そういえば、また放火があったらしいわよ」
スプーンを手に取り、一口目を入れるまえに千秋は話し始める。
この人は黙って食事をすることはないのだろうか。これは飽きる暇もないんだろうなぁと、いつも千秋の様子を困ったように話す誉に納得する。
しかしその内容に、満のスプーンも止まっていた。
「放火?」
「ええ、五時半くらいに」
満は誉を見た。
彼も同じことを考えたのか、小さく頷く。
「近くのごみ捨て場だったらしいわ。怖いわよねー。ここ十日間でもう三件目よ? はやく警察も犯人を捕まえてくれないかしら。そもそもこんな小さな町で起こる事件らしい規模だけど、やっぱり火は怖いし……そういえば――」
止まらない千秋の話しを半分ほど聞き流しながら、満はカレーをむさぼる。
頭の中は、放火のことでいっぱいだった。
◆◇◆◆
「どう思う?」
部屋に入り、そう切り出した満に誉は何も言わない。
勉強机の椅子に腰かけ、勘が混むように顎に手を当てた。満はいつもの通り、座椅子に座る。ベッドに座ると烈火のごとく怒る誉に、自分で買ってきて置いている座椅子だ。
考え込んでいた誉は、長い息を吐いた。
「さっきの飛び降りに関しては、もはや僕たちの範疇ではないだろうね。事件にしろ、事故にしろさ」
「じゃあ、放火は? そっちも警察の仕事か」
「警察の仕事か、と言われたらそうだとしか言えないよ。僕ができることは『推理』だけだと前に言っただろう」
そういいながらも何か考えているのか、誉は満を見ない。
再び長い息を吐いて、肘掛けに右ひじを置き、頭をその手に傾ける。左手は机に置かれ、その人差し指がトントンと微かな音を立てた。
「僕はプロではないから、地理的プロファイリングなんてものはできない。だから犯人の住居とか次の犯行場所とかもわからないけれど、新聞や周囲の人の話しから読み取れることはある」
「どんな?」
「犯行の時間帯はすべて五時半から六時ごろ。夜中の犯行はないし、そして逆に昼間の犯行もなかった。このことから考えられるのは、犯人が学生や社会人を含む、ある程度、一日のタイムスケジュールが決まっている可能性が高いということだ」
「あー、えっと」
「まだある。深夜の犯行がない理由は、犯人が一人暮らしではないからじゃないだろうか。もし家族や同棲者がいる場合、深夜に家を抜け出したりすればバレてしまうからな。これらのことを考えると、家族や恋人と同居している可能性が高いんだ。だから、学生だって対象になる」
「なるほどな……じゃあ、あの犯行時間から考えると学生の可能性の方が高いんじゃないか?」
「僕もそう考えるけど……社会人でも、犯行日は早番だった可能性も否定はできない」
うめき声をあげる満に、誉は目を閉じた。
彼自身、口にしては見たがその線は低いと考えているのだ。
そもそも社会人とは言ったが、働いていない人間も中には入っている。ニートやフリーターと呼ばれる存在も、家族と同居していれば候補者だ。夜中に犯行に及ばない理由もそれで説明できる。
だがそう考えてしまえば、この推理すべてが無駄だと言えるだろう。
「いや、でも……それを言うなら、犯人像ってかなり広くないか……」
誉の考えに至ったようで、満も面倒くさそうに口に出す。
「まあね。証拠というか、そもそも情報自体が少ないんだからこれ以上は無理だよ。専門的に学べば別だろうけど……聞きかじった程度の知識じゃね」
「それ言ったらダメだろ……」
「言ってるだろう、僕ができるのは『推理』だけだって。犯人探しは警察の仕事だ」
むくれたように頬を膨らませた誉に、満は目を瞬かせた。
これはまずい。不機嫌になった誉ほど、立ち直らせるのが面倒な生き物はないと思うほどに面倒なのだ。
「ほ、誉、なんかほかに話はないか?」
「……話?」
「ほら、言ってただろう、放火魔の特徴とか。なんか、そういうの」
怪訝そうに見てくる誉に、腕を振り回しながらなんとか疑問を絞り出した。
思考がそちらにそれらのか、誉の視線が宙を彷徨う。
「……うーん、放火は再犯率が高い、とか?」
「へぇ」
思った以上に興味をひかれ、つい本音で声が漏れる。
「なんというか、放火は一種の性癖だよ。火が好きでたまらないっていう人間がいるんだ。放火犯の中には、火事現場に集まる人間を見るのが好きな類もいるけど……今回の放火規模じゃ、この線は薄いかもね。目立ちたがり屋、って言ったけどさ」
「じゃあ、今回の犯人は目立ちたがり屋じゃない、ってことか?」
「どうだろうね。普段目立たない人間が、目立ちたくて放火をする……けれど普段から目立たない犯人は、大きな火を起こす勇気もなくて、結局は小さな規模の放火になる。とも考えられる。火が好きで小さな規模でも構わないともとれる」
「……つまり?」
「わからない、ってこと」
言い切った誉は椅子の背もたれに体重をかけて目を瞑った。
こうなると下手なことで話しかけても無視されることが多いことを知っている満は、先ほどまでの会話を頭の中で整理する。
犯行時間は夕方、人通りが多い場所で行われる。規模はごくごく小さなものだ。煙で周囲の人間が気付いてすぐに鎮火されるため、ボヤ騒ぎ程度だ。
その時間帯から、おそらくは生活時間が決まっている人間――つまり学生や社会人と言えるだろう。
普通に考えれば、闇に身を隠しやすい深夜ではなく夕方に行っているのは、愚策としか言えない。ならば、その時間帯にしか動けない状況だと考えるのが妥当だろう。そこから導かれるのは、家族や恋人と同居している可能性だ。同居人にバレてしまえば、芋づる式に犯行までバレる可能性がある。
だがそれだけでは弱い。
的を絞って探すにしても、この町だけでも学生や働いている人間というだけでは人が多すぎる。誰かと同居しているというヒントも、黎明がベッドタウンであることもあって絞りきれない。どころか、一人暮らしの人間を探す方が大変だ。
この情報では、犯人の絞り込むができたとは到底言えないだろう。
腕を組み天井を仰いだ満は、コンコンと響いたノック音に体を揺らした。
扉を開けると、千秋がお盆にポテトチップスの袋と、袋に包まれたコップ、それにペットボトルのコーラを乗せて立っていた。
「これ、よかったら食べてちょうだい」
「すみません、ありがとうございます。これ食べたら帰りますんで」
「そう、あまり遅くなるようだったら泊まっていきなさいね?」
「いえ、うちの親も明日には帰ってきますから」
時刻は九時を指しており、そろそろお暇しなければならないはずだった。
とはいえ、お菓子を用意してもらったので、せっかくならば食べてから帰りたい。
「誉、とりあえず食べよう」
「ん」
気のない返事だが、意識がこちらに戻ってきたのか、のろのろと椅子から立ち上がる。
小さなテーブルにお盆を置き、満はコップの一つを袋から取り出した。本当ならば全部開けて用意したいところだが、誉と食べるときはその限りではない。
誉はアルコールティッシュと、プラスチックのケースを持ってテーブルの前に座った。
そして、アルコールティッシュでまずはコーラのペットボトルを拭き始めた。袋からコップを取り出し、念入りに拭いたコーラを注ぐ。なみなみと注いだコーラは、満の前に置かれた。
続いて、新しいアルコールティッシュを取り出して、コーラ同様にポテトチップスの袋を吹き出す。念入りに拭いた後、これまたアルコールで拭いた鋏で封を切った。
綺麗に開いたポテトチップスの袋は、テーブルの中央に置かれる。
そこまで準備を整えた誉は、小さなプラスチックのケースを開けた。
中には、緑色の小さな箸が入っている。それまではめていた手袋を脱ぎ捨てて、誉はその箸を使ってポテトチップスを食べ始めた。
「……相変わらずの潔癖症だなぁ」
徹底したその様子に、満は小さく呟いた。
それでも、同じ一つの袋からポテトチップスを食べることを許しているあたり、まあまあ自分は彼の中では許容範囲なのだろうと思う。
それだけで十分とは言わないが、これくらいは我慢しようと満は思ってしまうのだ。




