第2話
耳をつんざくような叫び声に、満の体は動いていた。
特に何も考えずに走り出してしまったが、隣を並走する誉も咄嗟に走り出してしまったのか苦い表情を浮かべていた。
これで通り魔だったら危険かもしれないと思うも、足が止まる感覚はない。
走り出して数十秒。
角を曲がった先に座り込んだ女性と、倒れている人影を見つけた二人は言葉を交わすこともなく駆け寄った。
そして近づいて、満は理解する。
それは男性生徒だった。
誉や満と同じ黒い学生服に身を包んだ、背の小さい青年。顔が見えないため誰かはわからないが、おそらく、先ほどまでは一緒の高校に通っていた。
投げ出された四肢は人形のように柔らかく折れ曲がり、糸の切れた人形という表現に妙な納得を覚えた。
潰れたトマトを連想させる、地面に広がる赤いものは紛れもなく彼の血だろう。
その面積は少しずつ広がっている。
「おい、満」
凛とした響きに、満は背筋を震わせた。
それと同時に、はっと荒く息が出る。
知らず呼吸が止まっていた満は、止っていた自分の血液が急に流れ出したかのような錯覚に目を瞬かせた。酸欠なのか、目の前がくらくらする。
中学時代、誉とともに事件に関わったことがある。
だがその時でも、血を流した人間を見たことがなかった。幸いなことに事故に遭遇したことも、親族の誰かが亡くなったこともない。
濃厚な血の臭いに、胸やけを起こした。
「まだ気を失うなよ。一応、彼の首に手を当てて脈を測れ」
「あ、ああ……」
冷静な声に、満はよく考えずに手を伸ばした。
ほっそりとした首だ。人差し指、中指、薬指の三本の指先を伸ばす。
しかし、満は途中で手を止めた。そして、目を強く閉じる。
相棒として動くならこれくらい知っておけと言われて、脈の測り方を教えてもらった。三本の指を、顎の近くにある窪みに押し当てる方法だ。素人なら、手首よりも首筋のほうが強く脈を感じる、らしい。
だがそれが事実かどうかは満にはわからなかった。
男子生徒の首は九十度傾いていた。
咄嗟に返事をして従ったが、これは手を当てる必要もない。
「何があったのか、話してもらえますか?」
静かに首を振った満を横目で見ながら、誉は女性の前にしゃがみ込んで尋ねた。
まだ震えている女性に申し訳なさはあるが、彼女に触れることもない。
目を地面に向けたまま、女性は震える唇を開いた。
微かな息の音が響く。声が出てこないのか、涙を浮かべた女性は自分の手をぎゅっと握った。
「こ、このビルを通り過ぎたあたりでドンッて音がして……振り返ったら、倒れてたから、慌てて近寄ったんだけど……」
「血が流れている様子に叫んでしまった?」
「え、ええ……」
何度も頷く女性に、誉は立ち上がる。
そして、ビルを見上げた。五階建てのビルは決して大きいとは言えないが、この周辺にはそれほど大きなビルは少ない。
そのビルに目を細めた誉は、何かに気付いたように駆け出した。
震える女性を励まそうと手を伸ばしかけていた満は、「ええ!?」と困惑しながらも後を追おうとして躓いてしまった。
それでも女性に断りを入れてから走り出したため、どうしても誉との間に距離が開いてしまっている。
誉は錆びついた非常階段へまっすぐ向かうと、鎖が張られている入口に足を一瞬だけ緩めたが、そのまま突っ切ってしまう。
鎖を飛び越えて階段を駆け上がっていく誉に、満は困惑した。
鎖に括り付けられた鉄板には立ち入り禁止の文字が、錆の影響で見えにくくはなっているものの視認できる。気付かなかったことにしよう、と満は目をそらした。
錆びついた階段を、カンカン音を鳴らしながら駆け上がっていく。
追いかけても縮まらない距離に、顔を歪めてから二段飛ばしに切り替える。もちろんその分、足にかかる負担は大きい。
口からは小さく罵声がこぼれた。
五階まで一気に駆け上がった満は、膝に手を当てて荒い息を吐いた。
運動部に入っていないとはいえ、体力にはそれなりの自信がある満だがさすがに階段を五階まで駆け上がるのはしんどい。
それでもすぐに顔をあげれば、憎々しげに扉を見つめていた誉が、扉を指さしていた。
「おい満、はやくこの扉を開けろ!」
「は、はぁ、それくらい自分で」
「いいから早くしろ!」
よたよたしながらも扉に近づく満に、誉は急かすように口調を荒げた。
珍しいと思うが、それよりもここまで誉が急かす以上何かあるのだろうと、満は取っ手に手をかけた。
鍵が閉まっているだろうと考えていた扉はすんなりと、建物の内側に向かって開いていく。
が、開ききるよりも先に誉が蹴りつけ、扉は勢いよく壁に当たり派手な音を立てた。
扉の先は長い廊下だった。
左右にはいくつかの扉があるが、そのすべての扉の前には荷物が積み上げられている。
大きく舌打ちをした誉は、身を翻した。
慌てて満も扉から手を放す。
誉は下を見下ろしていた。
その隣に並び同じように下を見下ろせば、ちょうどその先に、崩れた人がいる。女性が聞いたという物音からしても、ここから落ちたことは明白だった。
「この非常階段から落ちたとみて間違いはないな」
「五階から飛び降りたのか?」
「さあな、それはわからない。四階なのか、三階なのか……ただ人の心理として、五階まであるビルまで来たのなら、三階や四階じゃなくてより確率の高い五階まで来るだろうな。まして扉の鍵もかかっていなかったんだ」
「なるほど……でも、五階であそこまで……」
「人間、ここからなら確実に死ぬ、という高さの幅は意外と広い。今回の場合、頭から落ちているからな。七階から落ちても生き残った人間もいるくらいだ」
それはそれで化け物のようだと、下を見下ろす満は生唾を飲み込んだ。
思っている以上に地上からの距離は遠く感じる。五階ですらここまで高いのに、七階ならもっと高いのだ。それで平気というのも、また変な話だろう。
と、あまりの高さに戦いていた満はふと顔をあげた。
「っていうか、なんでビルに走ったんだ? 自殺……と俺は思うんだけど、もしかして、犯人の影でも見たか?」
「いや、残念ながらな。だがこの非常階段、柵が高いだろう。だいたい……僕のへそと胸の間くらいだ。……仮に、彼が自殺したのだとしよう。僕ならきっと、一度柵を跨いで、足から飛び降りるね……だがあの遺体……どうだった?」
「どうだったって……」
「首が曲がっていただろう。たぶん、頭から落ちたんだ。お前、この高さで、頭から飛び降りれる自信はあるか?」
「無理だな」
「そうだろう。死を覚悟していても、恐怖心はある場合が多い。刑事ドラマでは高いところから人が落ちる場合、人が回転するだろう。でもあれは間違いだ。人は『落ちた姿のまま落ちていく』のが普通なんだよ」
「つまり、足から落ちたのなら足で着地、頭から落ちたら頭から着地ってことか」
「ああ。そして頭から落ちている場合……足を持ち上げられ、誰かから落とされたという可能性が高くなってくる」
自殺から殺人へ。
頭の切り替えが追い付かない満は、痛み出した頭を押さえた。
状況から見れば自殺の可能性が高いが、しかし彼の推理は的を射ている。
小難しいことはわからないが、殺人事件に関わるとはとんでもない厄日だ。トランプで配られたカードの弱さといい。どうも今日はついていないらしい。
「ま、可能性の話さ。追いかけてきたが、五階まで駆け上がるのに時間がかかっている。逃げる時間は十分にあった。廊下に犯人の影もない。もう逃げた犯人を今から追いかけて建物の中を散策するのは少しリスクがありすぎる」
肩をすくめた誉は、用は済んだと非常階段を降り始めた。
下まで降りると、携帯電話を片手に女性は立ち上がっていた。
二人に気付き、半泣きの表情で走り寄ってくる。
「警察に電話を?」
「え、ええ……もう、亡くなっているのよね?」
「首が折れていますしね」
端的に言い放った誉に、女性は引きつった表情で頷いた。
もっと言いようがあるだろう、と思いながらも満はビルに視線を向ける。
黎明ビル。
高校と同じ――というよりも、そもそも町の名前からとってきたのであろうこのビルは、一年前からテナントが入っていない廃墟ビルだ。
近々取り壊される予定だと聞いたことがある。
まさかこのビルで飛び降り自殺――否、誉が言うには殺人が行われたとはなんとも不運だ。
この先に待ち受けているであろう事情聴取に、満の心は重たくなった。




