復活編6-2<案ずるより死ぬが易し>
赤き死神が面の上からでも憤っているのが分かる。
意識だけ保ったまま数分全身を固定されていたのだから、当然といえば当然か。
赤羽は白い仮面を外し、止まった空気を薙ぎ払うように言った。
「こいつはたまげたなー。仕様がないから、全力で行かせてもらう」
動物的限界まで加速させた自身の五感と行動速度が置き去りにされた。
白いグローブは、ゴム手袋の内側に水を押し込んだように一度膨らみ、通常の形に戻る。
フードの奥の顔は白く、髪は素行の悪そうとレッテルを貼られかねない高校生のように奇抜な赤。
「紅くて赤い、翼は要らないか?」
まるでコマが飛んだように赤羽の一挙手一投足の速度が跳ね上がる。
気づけば赤羽の腕は振りかざされ、その手が握る血に飢える鎌は天から振り下ろされる。
途端、日が完全に沈み雲の無い冷えきった夜空に、赤い陣が浮かぶ。
その陣は人間の考えるような文字羅列の暗号化により効力を上げる魔法陣とは根本的に違う。
円形や角形の幾何学模様の単純な重ね合わせでしかない。
その模様を描く赤い光線の隙間から数え切れない程の切り出し小刀が垂直に落下してきた。
自由落下――初速のない等加速度直線運動。
空気抵抗は無視しないようではあるが。
雨粒よりも遅いナイフの一本や二本は両足が折れていようと躱すことができるだろう。
だが、その本数が雨粒と同数であれば話は別だ。
「八方を塞ぐまでもないとは……殺しのプロはやはり格が違いますね。しかし――」
上空の陣からただ落下させられるだけの無数のナイフの制空力は高い。
菊理に近接回避を強いられたとは言っても、赤羽の十八番は飽くまでも切断系だということか。
「――翼なら、間に合ってます」
私のセーラー服の背に二つの穴が空き、内側からメフィストの黒い翼が姿を現す。
肉体として役に立たない私の身体を強引に動かす。
側で星空でも眺めるかのように赤羽の陣を目掛けて手を翳す菊理を拾い上げ、屋上の隅まで移動する。
しかし、速度による回避はジリ貧になる。
この時、私は振り返ってナイフの雨が地上に落ちる時をこの目で確認しておくべきだったのだろう。
より低空に浮かぶ陣は直径十メートル程しかなく、切り出し小刀が接地するまで後僅か。
低空に陣が形成されているのも初弾落下までの時間短縮を考えたものであれば、陣自体が自動追尾式なのは容易く想定できる。
もういい。
私は私に還り菊理が天に翳して黒く染まりかけた手を止めた。
「えー死んじゃうよー」
「いや、岩隠れしなくていい、もう終わりだ」
空に浮かぶ陣が消失するのを確認して、私は既に限界を超えている肉体を気力で動かし、その場で菊理を覆うように立つ。
降り注ぐナイフをまともに躱すことなくステッキで弾こうとして、ここで漸く気づいた。
切り出し小刀それぞれが熱したように赤く光っていることに、陣を通過させる際に爆炎系を付加させたのだろう。
陣にばかり気を取られていて抜かった。
既に周りはクレーターを繋げたような足場のない有り様だった。
二つは同時に対処できない。
幾つかは高温のナイフの側面を弾くことで対処できたが、それも直ぐに諦めてステッキを投擲する。
舌打ち混じりに菊理を担ぎ上げて、急いでその場を――。
◇■◇
鞭打たれたように、僕の姿勢は前のめりに走りだした。
屋上へと向かう最後の階段を駆け抜けて鉄扉を白い大鎌――アクシオンで破壊する。
視界を覆い尽くすは火炎。
屋上は焦熱地獄と化していた。
不思議にも揺らぐことのない炎からは黎明の鴉羽衣の加護のお陰なのか熱を感じない。
手前に赤羽、赤羽を取り巻く炎の向こうに玄川と菊理が見て取れた。
菊理は血溜まりの中に倒れ、それを庇うように立つ玄川も全身を赤く染めている。
対峙する二人はまるで時間が止まったように動かない。
――雑念を捨てろ、全ての思考を邪念に注げ。
走りだして三歩程進んだ途端、水に飛び込み水面を強く叩いたり、ガラス製のドアを体当たりで突き破ったりするような痛みに近い妙な感覚が全身を覆った。
まるで水中で走るような抵抗に遮られ身体が重く感じる。
一瞬でも停止すればそこで時間停止に巻き込まれる。
――チャンスは一度切り、外せば死ぬ。
固まった炎の海の中、黎明の鴉羽衣が煤を撒き散らして火の粉を払う。
――赤羽に刃を突き立てることだけ考えろ!
もうなにがなんだかわからなかった。
視界は固定され、自分の足が動いているのか止まっているのかも解らない。
意識が洗練されていくのに従って下段に構えたアクシオンの輝きが増し、身体が加速していく。
だがシンプルでいい。
無駄な思考は削ぎ落とされていく。
倫理観や道徳観、人間としての尊厳は全て捨てた。
苦悩の枷も躊躇の箍も無い。ただ本能に任せて復讐する。
――僕は赤羽を殺す!
たったの十数メートルの距離を踏み込む体感時間は同じ一瞬を数億回繰り返すような不思議な感覚だった。
残り五メートルで周囲の炎が揺らいでいる事に気づいたが、構わず突進した。
「――紅くて赤い、翼は要らないか?」
赤羽が玄川に向かって何か言っている。
早すぎて上手く聞き取れない。
赤羽が鎌を振り上げ、振り下ろす。
その動作すら眼で追うことは叶わなかった。
不意打上等。
落ちて欠ける仮面を更に上から踏み砕き、容赦なく最後の一歩を踏み込み、
――ッ!
振り上げるタイミングも解らず、アクシオンをそのまま逆袈裟に振り抜いた。
◆□◆
僕が結界に入ってからの事。
無音の結界内で空気が焼ける音を頼りに、僕は校舎に向かって走った。
日頃の運動不足と自分の華奢な身体を呪おうとしたが、思ったよりも身体は軽かった。
結界内だからか空が暗くなっても廊下の蛍光灯が電気が通ることはない。
その代わりにはならないが、右手に握る白い大鎌は全身淡く発光し、軌跡に残像のようの燐光が残る。
アドレナリンのお陰か怜悧に託された二つの神機のお陰かは解らないが、なんだか郷愁にも似た感覚が全身を充たしている。
昨日までの虚無感を塗り潰す内側から急き立てるような何かを感じる。
立入禁止のプラカードが下がったプラスチック製のチェーンを踏みつけて階段を駆け上がる。
十二階建て校舎の最後の踊り場を折り返した時、屋上の鉄扉の前にぼんやりとした人影が見えた。
「――怜悧ッ!?」
僕の言い付けを守っているのかなんなのか、こんな時にも律儀にゴシックワンピースを着ていた。
彼女の唯一の衣服である黎明の鴉羽衣を僕が羽織ってしまっている以上何も言えないのだが。
(祓魔と天子はとっくにお払い箱かと思っていたらこの有り様だ。泳がされ、捉えられ、引き剥がされ、救われ、吾に似つかわしい惨めさだ。霊智、どうせ全て聞いたのであろう?)
――聞いたよ。
(恐らく、祓魔が霊智に話したことは全て真実だ。霊智が光照死星に眼を付けられたのも、花原咲夜の死も全て私が招いたものなのだ)
そう言って、怜悧は幽霊が階段を滑り降りるように一瞬で僕との距離を詰めた。
(今更弁明はしない。復讐ならばそのアクシオンで吾を討て。へし折っても吾は死ぬが、そいつはこの先、きっと霊智の役立ってくれるはずだ。そしていつの日か――)
アクシオンと言うのはこの白い収穫機のことだろう。
馬鹿でかい改造ペンライトを持っている気分だ。
――死にたきゃ勝手に死んでくれ。でも僕は君を殺したりはしない。
例えそれが咲夜だろうと僕は自殺志願者を止めたりなんかしない。
でも、そもそも僕が怜悧を殺す理由がよくわからない。
だって怜悧は、
「ずっと僕を守ってくれていたじゃないか」
玄川の話を全て信じるとしても、怜悧が僕に望んだものが解らなかった。
それでも、これだけは解る。
僕の前に立ち塞がる怜悧を見れば解る。
怜悧はただ只管に、三年前の僕に対して罪の意識を背負い贖罪しているのだろう。
誰にも気づかれない罪滅ぼしを続けてきたんだ。
僕に見せる怜悧の表層は全て三年前の僕の意思通りに、無知な僕を維持するためのものであり、僕に態々取り憑いてまで、僕の命を救い上げて素性や狙いの分からない玄川や菊理から、僕を守ろうとしてくれた。
そして、こうして自らの命でことを収めたいのは、僕が赤羽と対峙して咲夜の後を追うというのを避けるためだろう。
――時間が無いんだ。玄川が君を助け出したのだろう? それなのに、君は今彼処で僕のために時間を稼いでくれている玄川を捨て置けとい言うつもりなの?
(むぅう。元はと言えば私を禁縛したのはあっちだぞ)
――その玄川が怜悧を開放した。
今更怜悧がなんと言おうとも僕の意見は覆らないと判断してのことだ。
そうだ、僕は赤羽を殺しに来たんだ。
でも、僕は怜悧に我儘を一つ聞いてもらいたい。
――今ここで怜悧が僕に立ち塞がるってことは、僕一人じゃ赤羽を殺せないってことでしょ?
(しかし、吾が殺せば霊智は吾との幽契を果たさなくてはならなくなるぞ)
――それがどうしたのさ?
僕は赤羽を殺した後、のうのうと余生を過ごす気なんか更々無い。
その過程で記憶を取り戻すことが必要になるというのなら、その時はまたその時に考えればいい。
(死ぬ気か?)
――僕が僕として取れる最善の選択肢は一人で赤羽を討つことだよ。
死ぬのは楽だ。
いじめや何かを苦に自殺する者は嘸かし葛藤しただろう。
その手で長い年月費やした『人生』というRPGのコントローラーを放り投げたに等しい。
それでも死を選ぶんだ。
もうその瞬間からその世界から足を洗って、天国やら地獄やらにいけるのかも知れない。
でも天国も地獄もあるかなんか解らない。
誰も解るわけがないから、断言する奴の気が知れない。
そんなのは玄川が僕に話してくれた僕が僕自身に施した記憶操作と同じように、可能性の世界で、絶対の否定が出来ないことを良いことになんとでも言える妄想の世界。
そんな妄想の世界に足を踏み込む勇気は立派なものだと僕は思う。
『自殺だけはしちゃいけない』とか、『残された人の気持ちを考えろ』とか、聖人気取りで得意気に話す先生にこそ自殺する側の気持ちなんかわからないだろう。
僕らの視野はとても狭く、世界は狭い。
どうしようもなくいっつあすもーるわーるどだ。
生きたくても生きられない人達のことを引き合いに出されてもそんなの知らない。
そんなことを理由にして生き存えている方がどうかしている。
自分で括って縛ったバンジージャンプを飛ぶ勇気は有るか?
それを優に超える勇気がある者が望むのが自らの死なんだ。
だから自殺志願者の死への渇望を逃げだと罵る輩の気も知れない。
言っている側はたかが、『人生』というタイトルのゲームが得意だっただけだ。
努力が足りないだの自分に甘いだの言ったって、全ては神に割り振られた才能という名のパラメータの差異に過ぎない。
だから僕はあの日、神を呪って死んだのだ。
確かに、赤羽なんていう小物は僕の殺しの最優先目標ではあるが、最大目標ではない。
咲夜が抗いたかったものはその先に在る――。
怜悧と三年前の僕が言っていたという『天外』の意味。
今ならなんとなくわかる気がする。
そこに鎮座する奴をぶっ殺すのが、あの日、怜悧に願った僕の呪いだ。
そういうわけだから、そもそも怜悧の手を借りて赤羽を殺したところで僕の呪いは成就したことにはならない。
だからと言って僕はここで降りる気も無い。
これは私怨だ。
それでも死神儀礼に引っかかるというなら怜悧は降りてくれても構わない。
寧ろここで僕のために死ぬくらいなら、ルールの一つや二つ破って生きてた方がよっぽどマシだろう。
――咲夜が日頃から神様がどうこうとか言うから、僕も見倣って自殺なんて大層なものを引合いに出してみたけれど、自らの意志で負け戦に行くことは勇気じゃなくて、無謀だからね。玄川には悪いけど、怜悧の力を借りられるなら借りるに越したことは無いのさ。
だからこそ、僕にやれるとこまでやらせてよ。
何度も放り投げたゲームだから、どうせまた止めたくなるかもしれない。
前のセーブデータを引っ張り出したくなる日が来るかもしれない。
それでも、僕は何度も何度も放り投げた『人生』だからこそ、潰したい敵がいるんだ。
「――だから、僕の我儘を一つ聞いてくれ」
(……解った)
怜悧はその先を聞こうとはしなかった。ただ、俯いていた。
(ならば走れ。状況把握に時間を割けば勝機を逃すぞ)
不本意ながらというのが表情で見て取れたが、一瞬振り返った僕の背を怜悧は強く押した。
(メフィストの時間停止には純粋な明光系だけが干渉できる)
――え?
(いいから走れ、時間がない)
怜悧の語気を押し殺したような声が僕の脳を芯から叩いた。
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