復活編4-3<不浄な悪魔の不条理>
怜悧は黎明の鴉羽衣の腕の裾越しに僕の手を取ると、相も変わらず裸足のままペタペタと玄関先まで進む。
言い付けを守ってゴシックワンピースを黎明の鴉羽衣の下に纏いつつ、石畳を踏み締めて飛び立つ。
その時、突然黒く巨大な翼が視界に飛び込んできた。
(怜悧、なにそれ?)
――なんだ? 何も可笑しくは無いだろう。死神にだって翼はある。本来ならばこの程度では使わぬが、霊智にひと目見せておきたかったのでな。
黎明の鴉羽衣の背中から一対の漆黒の翼を優雅に開いて、怜悧は天高く飛翔する。
(白峰は?)
――北西だな。
(それはメフィストにもバレちゃってるの?)
――マナの使用痕跡は向こう側も探知できるだろう。非天使が吾を吾と特定したように、マナには固有の幽波を含むために入念な準備をしない限りは逃れられない。吾が間に入ったと言えど対面からの逃走だからな、マナを開放しつつの逃走は仕方のないことだ。
(それじゃあ急がないと)
――そう思うのなら意識をしっかり持てよ、霊智。昨夜試してみて分かったが、吾が霊智の意識が追いつかないレベルの行動を取れば、その途端、霊智自身の疲労度が飛躍的に上昇する。これを繰り返せばあっという間に霊智の肉体は滅ぶぞ。
僕は怜悧のおかげで超人的な力を手に入れた。
その代わりに、怜悧のマナ開放上限は僕によって設けられてしまっている。
僕の身体が滅びれば怜悧は現界できなくなる。
怜悧が好き勝手に暴れることもできない。
紛れも無く僕が足を引っ張っているということか。
(僕のスタミナ次第で二人が救えるなら……頑張るよ)
――そうか。ならば、もう翼は止めておこう。さぁ耳を塞げ、眼を瞑れ。音速や光速を介する感覚器官など意識の断裂を招くだけだ。
怜悧に従い、全てを言われるがまま実行する。
怜悧の声だけが、僕の中で滔々と反響していく。
――行くぞ。事象地平線の外側へ!
突然襲ってくる吐き気は、高速移動に伴うGの圧迫感に因るものか、重力を断ち切った浮遊感から来るものか判らない。
そんなことは考えるだけ無駄だった。
ただ、霊化して五感を可能な限り鈍らせても身体は何かを感じ取ってしまうのだ。
怜悧の視点からは映像編集しただけのような至って単純ものしか感じ取れない。
――やはり連続移動術式よりも、断絶転移術式の方が、霊智への負担は少ないな、人間の身体は実に贅沢だな。
意思転移。怜悧と出会ってからこの移動手段を使うのはこれで何度目だろうか。
昨日も一度これを使っていたな。
『そこに行きたいと思ったから行った』。
能動的神格にのみ成せるなんとも傲慢な転移技。
瞬間転移とは、時間と空間を省いた移動手段であり、万が一にでもそれを完全な形で成せるのであれば、高速移動よりも身体への感覚的及び物理的干渉が少なくなるのは当然であろう。
本来、人間にはそんなことはできないのだが――。
ポケットに突っ込んである懐中時計が示す時刻が七時を回った頃、冬の澄んだ空を阻害する高いコンクリートの天井、それでも横から突き刺すような朝日の閃光が眩しく感じられる。
長い一本道とその両側に等間隔で聳える太いコンクリート製の柱。
――ここは……高架下?
そう見当をつけたところで、頭上を轟音が通り過ぎていく。
数十秒の地響きが過ぎ去り、静寂が訪れた瞬間、背後に気配を感じて振り向く。
「間に合ったか」
視界で数枚の白い羽根がひらりと舞う。
しかし、その羽根は障害物の後ろに消える。
焦点が合わず、その障害物が何なのか悟るのに時間が掛かる。
「――」
ゆっくりと視野が広がり、ぼやけたピントが合わさる。
「玄川さんは?」
珀楼の制服を覆う純白の翼。
白峰菊理、朝の元気は消え失せ瞳は陰っていた。
「――直に。でも」
その時、白峰を見つけた際に僕は不覚にも怜悧から身体を奪っていた。
(待て、霊智!!)
しかし、それに気づいた時には既に手遅れだった。
「白、み――」
痛み。
激痛。
胴を席巻する異物感。
誰かの腹部にナイフが刺さっていた。
それが自分の身体だと思いたくなかった。
しかし、素人の自己暗示なんか何の価値もなく、内から来る生理的な絶叫。
阿鼻叫喚。
「ちょっとだけ痛いけど我慢して下さい。全て弁証しますから」
(貴様……まさか――)
感覚だけに頼りきっていながら最強を誇ってきた怜悧が不意を突かれた。
そんなことは本来ありえない。
自らの意識不要の危機感知能力と本能のままに臨機応変に振るわれる対処法。
そのどちらも機能しなかった。
予想も経験もしなかった異常事態は、さしもの怜悧も驚愕を隠せず、そして間髪入れずに憤怒を覚える。
内側から僕を引き摺り出すという形で、あっさりとそれはなされてしまった。
(似非天使は神をも謀るのか?)
何故だ。どうして僕はこんな簡単な可能性を考慮できなかったんだ。
こんな時期に二人も同時に転校して来たというのに……そんな単純な共通性が頭からすっぽりと抜けていた。
二人同時だったからこそ、その危険性を疑うのも馬鹿馬鹿しかったのか。
「クロちゃんは善い死神かもしれない、刈谷くんにとって必要な想像かもしれない……でも、偽天使という先導者としてじゃない。 勿論天使としてでもなく、ただ同じ人として、私は破滅の道を進もうとする霊智くんを止めない訳にはいかない」
通勤、通学のラッシュが始まっている時間だが辺りに人通りは無く、日常的物音ひとつしなくなった高架下では、霊智の幽かな呻きを白峰の押し殺した声が塗り潰していく。
アスファルトで擦れる顔面の皮膚など気に留めず、這い蹲る自分の首を強引に捻る。
そうして霞む視界にどうにか白峰を捉える。
「どうしてかって? なんでなんだろうね。んー。それは私の口から言うべきことじゃないかな」
僕の瞳から質問を察した白峰は、僕ではなくその後ろを見ていた。
「神格操影師は身を滅ぼすと教えませんでしたか?」
この声、この口調。視界に入らずとも、背後から聞こえたその声は先ほど聞いたばかりの声だった。
身体が重く、首はもう全然回らない。それでも眼球を回転させてその姿をどうにか捉える。
「天落格ですらこのように人の手で完全に御することが適わないというのに」
背後で、無表情のまま銀細工が装飾された小洒落たステッキを握る黒の少女。
(ぬかったな霊智。コイツら……契っている)
「私が刈谷くんを見つけたとき、玄川さんが私にこう囁いたの。『刈谷霊智の救済に助力する。代わりに死神の魂を寄越せ』って」
そう言う白峰は、伏した瞳を僕に向けることはない。
僕の望まぬことを遂行していることに多少なりとも罪の意識を感じているようだった。
「安心して下さい。赤羽はこの手で殺します」
対して、なんの感情も滲ませることの無い玄川は、その言葉に乗せて、黒のステッキの先端を身動きの取れなくなった僕の心臓に突きつける。
(霊智、何をしている。死にたいのか?)
僕はさっきからずっと怜悧の現界を意識的に拒んでいた。
二人の狙いが怜悧で、尚且つ僕を救う気があるのなら、ここで怜悧を出さなければいいだけの話だ。
(ダメだ霊智! それじゃ駄目なんだ! 奴らそこまで全て織り込み済みだ!)
どうやらそれはなんの対処にもなっていないらしい。
怜悧が僕の策に気づいて放った言葉は確かに僕の耳に届いた。
だが、僕も怜悧も二人共少し遅かった。
それに重ねるようにして玄川が冷たい声で言い放った。
「主君の帰還を待ちぼうけていたのは君だけじゃない!」
玄川のステッキが僕の胸に突き刺さる。
痛みは感じない。
痛みの許容量を既に超えているのかとも思ったが、それは違った。
このステッキは僕を刺しているのではない――。
肋骨を躱して心臓にステッキの先端が届く。
怜悧ッ――!
僕にだけ聞こえていた、他の誰にも聞こえないはずの声が消えた。
「俺様ノ友人ヲ余リ虐メナイデクレナイカ?」
その時代わりに聞こえた声に聞き覚えなんて無かった。
でも今僕の視界に映るそれには見覚えがあった。
――なんで今、ここに、アイツが居るんだ。
動かなくなった身体に力にならない力を込める。
突然脳内に響く声。
怜悧と出会った時と同じ感覚。
だが、それは怜悧の声ではない。
そう視覚が補足する。
遠くに捉えた幽かな影。
赤い。
紅い。
鮮血滴る刃。
無数に番い立ち並ぶコンクリート柱に支えられた高架に反響する男の声。
赤羽。
僕は貧血で既に使いものにならない眼を凝らし、その姿を睨む。
「殺……す」
憎悪をそのまま口にしても、神は殺せない。
解っていても声が出た。
解っていても地面に爪を立てた。
あの日と同じく一瞬で距離を詰めたアイツは玄川に向かって鎌を薙ぐ。
玄川はそれを受け止める事もせず、あっさりと飛び退いて躱した。
「黒死舞踏ハ頂イテイクヨ」
僕と赤羽との間を遮るものは何も無くなった。
赤羽の白いグローブに学ランの胸座を掴まれそのまま軽々と持ち上げられる。
高架橋の裏に垂直に立つ玄川も隣で口を手で塞いで音のない悲鳴を上げる白峰も止めはしなかった。
ゆっくりと振りかぶり、一瞬で振り抜かれた刃は僕をすり抜け、いつか見た青い炎――怜悧の魂だけを奪い取った――。




