記憶
朝。
直人は教室のドアを開けた。
「おはよう」
いつも通りの声。
いつも通りの教室。
いつも通りのクラスメイト。
なのに。
何かがおかしい。
直人は教室を見渡した。
そして、気づく。
昨日まであったはずの机がない。
昨日まで、そこに誰かが座っていた。
直人は立ち止まった。
「……消えたんだ」
昨日のことを思い出す。
目の前で消えた。
確かに、そこにいた。
確かに、話をした。
確かに、一緒に笑った。
なのに。
今は、その痕跡すらない。
直人は教室を見渡した。
みんな普通に話している。
笑っている。
まるで――
最初から、誰もいなかったかのように。
「なあ」
直人は近くのクラスメイトに声をかけた。
「昨日のこと……覚えてる?」
「昨日?」
「……いや」
直人は言葉を止めた。
「なんでもない」
そのとき。
「……昨日?」
別の場所から声がした。
直人が振り返る。
「昨日、何かあったの?」
直人は答えられなかった。
すると、その人は少し考えてから言った。
「なんか……」
「誰かがいなくなったような気がする」
直人の目が見開かれる。
「……え?」
「分からない」
その人は自分の頭を押さえた。
「でも、ずっと何か引っかかってるんだ」
直人は、その言葉を聞いて動けなくなった。
もしかしたら。
もしかしたら、この人は――
まだ何かを覚えている。
「……誰かって、誰だ?」
「それが……」
その人は目を閉じた。
「思い出せない」
直人は拳を握った。
そして、ゆっくりと言った。
「……神谷蓮」
その名前を口にした瞬間。
教室の空気が変わった。
「……神谷?」
誰かが呟いた。
直人は顔を上げる。
「知ってるのか?」
「いや……」
その人は首を振った。
「でも、聞いたことがあるような……」
「俺は覚えてる」
突然、別の声がした。
直人が振り返る。
「俺も」
「私も……」
少しずつ。
声が増えていく。
直人は信じられないように周りを見る。
最初は、十六人。
蓮を覚えている人がいた。
「……よかった」
直人は呟いた。
「俺だけじゃなかった」
その日の昼休み。
十六人は教室に集まった。
直人は机を囲むみんなを見る。
「俺たち、本当に蓮を覚えてるのか?」
「どういう意味?」
「記憶が正しいか、確かめたい」
直人は言った。
「蓮と何をしたか、一人ずつ話そう」
最初の一人が口を開く。
「俺は……蓮とよく一緒に帰った」
「くだらない話ばっかしてたけど」
「楽しかった」
次の一人。
「私は、体育のとき助けてもらった」
「ボールが飛んできたとき、蓮が前に出てくれた」
「……あいつ、優しかったよ」
また一人。
「昼休み、よく弁当のおかず取られた」
「勝手に食うなって言ったら」
「『じゃあ明日、一個多く持ってこいよ』って」
その人は笑った。
「……明日なんて」
笑顔が消える。
「来ないくせに」
教室が静かになった。
直人は何も言えなかった。
また一人が話す。
「雨の日、私が傘を忘れたとき」
「蓮が『入る?』って言ってくれた」
「……それだけなんだけど」
「嬉しかった」
誰も笑わなかった。
ただ、みんな蓮の話を聞いていた。
次の人。
「テスト前、数学教えてもらった」
「でも、あいつも間違っててさ」
「二人で先生に怒られた」
「……馬鹿だったな」
少しだけ笑い声が聞こえた。
それからも。
蓮との思い出が、一つずつ語られていった。
ゲームで負けて、本気で悔しがっていたこと。
放課後、くだらないことで喧嘩したこと。
誰かが落ち込んでいると、何も言わず隣に座っていたこと。
十六人。
十六個の思い出。
十六人が知っている。
それぞれ違う、神谷蓮。
直人は思った。
蓮は――
自分だけの友達じゃなかった。
みんなの中に、蓮はいた。
「……あれ?」
一人が突然、口を開いた。
「どうした?」
「いや……」
その人は眉をひそめる。
「蓮って……どんな声だったっけ?」
直人の表情が変わった。
「……え?」
「顔は覚えてる」
「でも……声が思い出せない」
直人は黙った。
嫌な予感がした。
そして、その予感は当たった。
一人。
また一人。
「神谷って……誰だっけ?」
「お前、覚えてるだろ!」
「……ごめん」
「本当に、思い出せない」
直人は叫んだ。
「昨日まで一緒にいたんだぞ!」
「昨日まで――」
その人は困ったような顔をした。
「昨日って……何があったっけ?」
直人は言葉を失った。
記憶が消えている。
少しずつ。
名前が。
声が。
思い出が。
そして――
存在そのものが。
直人はスマホを取り出した。
蓮との写真を探す。
「……これ」
写真を開く。
直人が写っている。
その隣には――
誰もいない。
「……え?」
直人は何度も画面を見た。
昨日まで。
確かにそこにいた。
肩を組んでいた。
二人で笑っていた。
それなのに。
今は、直人一人。
「……なんでだよ」
別の写真を開く。
また一人。
次の写真。
また一人。
動画を再生する。
聞こえてくるのは、直人の声だけ。
蓮の声はない。
「やめろよ……」
直人はスマホを握りしめた。
「俺の記憶まで消すなよ……」
その日の放課後。
直人は一人で学校を歩いていた。
廊下。
階段。
体育館。
全部、思い出がある場所だった。
ここで一緒に笑った。
ここで喧嘩した。
ここでくだらない話をした。
でも。
思い出そうとすると――
何かが欠けている。
「……蓮」
直人は立ち止まった。
「お前の声……」
思い出せない。
直人は目を閉じた。
必死に思い出そうとする。
すると。
『当たり前だろ』
聞こえた。
直人は目を開ける。
「……蓮?」
誰もいない。
直人はゆっくりと歩き出した。
そして、教室に戻った。
蓮がいたはずの場所。
そこに座る。
誰もいない空間に向かって、話しかける。
「なあ、蓮」
「明日も学校来るよな?」
返事はない。
でも。
直人の頭の中には、あの言葉が残っている。
『当たり前だろ』
直人は少し笑った。
「……来なかったじゃん」
涙が落ちた。
その日の夜。
蓮を覚えている人たちが集まった。
でも。
十六人はいなかった。
一人。
また一人。
記憶が消えていった。
最後に残ったのは――
七人。
直人は、目の前にいる六人を見る。
「……俺たちだけか」
誰も答えない。
直人は、ゆっくりと口を開いた。
「蓮は、ここにいた」
「絶対にいた」
直人は涙を拭う。
「俺たちが覚えてる限り……」
少し間を置いて。
「蓮は、消えたことにならないよな」
一人が頷いた。
「うん」
そして、七人全員が顔を見合わせる。
「絶対に忘れない」
その瞬間。
全員のスマホが鳴った。
――ピロン。
直人が画面を見る。
【記憶保持者:7名】
【記憶消失者:25名】
直人は息を呑んだ。
その下に、もう一つ。
【次のゲームまで――】
【00:00:00】
「……ゲーム?」
誰も答えなかった。
教室の中に、機械音声が響く。
『記憶保持者7名を確認しました』
直人のスマホに、最後の文字が表示される。
【次のゲームを開始します】




