9話 「アイクVSガンザイ(B級)」
赤鋼の採石場は、剥き出しの岩肌が四方を囲み、空は切り取られたように狭い。
到着時には夕方になっており少し薄暗い。
本来なら、アイクはもっと早くここに到着しているはずだった。
だが、彼は採石場の中央に立ち、少しだけ困ったように眉を下げていた。
(……知らない場所に一人で行くのが、これほど難しいなんて思わなかった)
生まれてからこの方、移動の際はいつもヤマトが先導してくれていた。
ヤマトの背中についていけば、迷うことなく最短距離で目的地に着いた。
一人で地図を読み、初めての道を歩く。そんな当たり前のことが、アイクにとっては未知の試練だった。
(ヤマトの後ろについていけば正確に着けたし、あいつの判断に任せておけば楽だったんだけどな……)
そんなことを考えながら、アイクは静かに息を吸い込んだ。
ガンザイ。討伐級(B級)の律違犯者。
律式を岩石に注入し、全身を硬質化させる異能者。
これまでに幾度も討伐隊を退けてきた実力者だ。
だがアイクにとって、ガンザイは「倒せるかどうか」の問題ではない。
(最低限の出力で、正確に仕留める。それだけだ)
アイクは自分に言い聞かせた。
圧倒的な星幽容量を持つ自分が、全力を出せば話は早い。
だが、それでは何も変わらない。
あの序列一位グラヴィス・レーンに届くためには、力ではなく——精度も必要だ。
縛りをかける。出力を、必要最低限に。
それがこの戦いの、唯一のルールだった。
最初の攻撃は、上から来た。
ゴオオオッ。
崖上から、律式を圧縮した岩塊が砲弾のように降り注ぐ。
アイクは反射的に跳躍した。
岩塊が着弾し、地面が大穴になって煙を上げる。
崖の陰から、声が響いた。
「小僧……一人か?」
姿が見えない。だが気配はわかる。
採石場の奥、岩の影を移動しながら、こちらを測っている。
「討伐隊が来ると思っていたが——たった一人の子供を寄越したか。舐められたもんだ」
アイクは答えなかった。
律式を指先に集める。青白い光が収束していく。
(精度を保て。出力は最低限。裁定に必要なギリギリの線を——)
――《裂空》を放った。
刃は岩塊を切り裂き、崖へと殺到する。
ガンザイが姿を現した。
身長三メートル近い巨漢。
律式を皮膚下に凝縮させ、全身をダイヤモンドのような硬さで覆っている。
アイクの刃を、その腕で受け止めた。
キン。
刃はガンザイの皮膚を貫いた。裁定は成立した。
だが——アイクは舌打ちをした。
(出力が高すぎた。律結合を断ち切るだけでいいのに、余計な星幽容量を使った)
ガンザイの肩が裂けていた。血が滲む。
だが傷は浅い。精度が足りていない。
(また力に頼った。これでは——)
ガンザイは傷を庇いながら、目を細めた。
その目に、初めて——警戒の色が混じった。
「……お前、今の刃を、意図的に絞ったか?」
アイクは答えなかった。
「普通じゃない」とガンザイは呟いた。独り言のように。
「あの星幽容量で——絞ろうとしている? 馬鹿げてる。全部出せばいいだろう」
地面が隆起した。
岩が意志を持ったように盛り上がり、アイクを囲むドームを形成しようとする。
アイクは律式を刃に注いだ。
多すぎた。
刃が拡散する。裁定が散る。
岩は切り裂いたが、律結合には届かなかった。
無駄に採石場の岩壁を抉っただけの一撃になった。
(違う。精度が足りない。力ではなく——一点だ)
父の言葉が、よみがえった。
「アイク。真の剣とは、力ではない。揺らぎのない心だ。静かな湖面に落ちる一滴のように、一点を見極めて世界を変える刃だ。力を込めすぎれば、その一滴はただの濁りになる」
アイクは片膝をついた。
律式を鎮める。呼吸を整える。
その光景を、ガンザイは岩陰から見ていた。
ガンザイの視点では、この戦いは奇妙だった。
目の前の少年は——明らかにおかしい。
先ほどの刃の一撃。あの瞬間、ガンザイは本能的に理解した。
あれは「絞った」一撃だ。全力ではない。
なのに、あの威力だった。
(全力を出されたら——どうなる?)
考えたくなかった。
少年は今、膝をついている。疲れているように見える。
だがその星幽容量の総量は、感知するだけで肌が粟立つ。
討伐隊を何度も退けてきたガンザイが、生まれて初めて感じる類の圧力だった。
「——なぜ本気を出さない」
思わず、声に出していた。
アイクが顔を上げた。
「本気を出す必要がない」
「……何?」
「お前を倒すのに、全力は要らない。俺が練習しているのは——精度だ」
沈黙。
ガンザイの中で、何かが音を立てて崩れた。
(練習——今、この俺との戦いを、練習と言ったか)
アイクは立ち上がり、深く息を吐いた。
腹の底から絞り出すように。
指先に全意識を集める。律式が収束する。
拡散ではなく——一点へ。
青白い光が、絶対零度の線へと変わっていく。
(父さんの言う「揺らぎのない心」は——この精度のことだ)
「――《至高の法典》――は、破壊じゃない」
アイクは静かに言った。
「裁定だ」
刃が、放たれた。
今度は違った。
音がなかった。光もなかった。
ただ——空間に、一本の線が引かれた。
ガンザイの全身を覆う律結合の、核心部分だけを。
原子の層一枚分の誤差で、断ち切った。
「な——っ」
ガンザイの硬化能力が、音もなく消えた。
岩の皮膚が、砂のように崩れ落ちた。
「まさか——結合の核を……どうやって……」
ガンザイの硬化能力が砂のように崩れ落ち、巨漢が膝をつく。
アイクは答えなかった。
ようやく掴んだ「一点」の感覚。それを失わないうちに、本来の律動を解放する。 縛り(ルール)は、もう必要ない。
――《裂空》
今度は出力を絞らずに、放った。
ドォオオオオン。
凄まじい轟音が採石場に反響する。
崖の一部が文字通り消失し、巨大な岩壁が滝のように崩落した。
採石場全体が地震のような揺れに襲われる。
精度を掴んだ後の、本来の出力だった。
「……アイク!」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り向くと、採石場の入口にヤマトが立っていた。
だが、その姿は悲惨だった。
服は各所が裂け、腕からは血が流れている。
顔にも打撲の痕があり、立っているのがやっとという様子だ。
「ヤマト……? その怪我、どうしたんだ」
「……カガミって野郎を、なんとか縛り上げてきたところだ。それより、なんだよこれ……」
ヤマトは、絶句していた。
自分が命がけで戦っている間に、この採石場で何が起きたのか。
目の前には、地形が作り変えられた地獄のような破壊の痕跡が広がっている。
ヤマトの視線は、粉々になったガンザイの岩の外殻と、崩落した崖を交互に動いた。
(……待て。あいつ、これだけの破壊を引き起こしておきながら、星幽容量をほとんど使い切ってないのか?)
ヤマトは自分の傷の痛みさえ一瞬忘れた。
自分が知略と前世の知識を総動員して、ようやく「一人の異能者」を仕留めたというのに。
アイクは、この広大な採石場そのものを「相手」にしていたかのような傷跡を残している。
(これで——出力を絞る練習をしてたってのか)
アイクが「下手だった」ときに抉った岩壁の傷跡。
そして、精度を掴んだ「後」に崖を消失させた一撃。
その差を理解したとき、ヤマトの背中に冷たいものが走った。
「ヤマトこそ、大丈夫か? 今、治癒の律式を……」
歩み寄ろうとするアイクを、ヤマトは手で制した。
「……いや、いい。自分でできる。それよりアイク、お前……少しは手加減って言葉を覚えた方がいいぞ」
「手加減なら、ずっとしてたんだけどな。全然うまくいかなくて」
アイクは疲れた顔で、申し訳なさそうに笑った。
「……だろうな」
ヤマトは深く溜息をつき、空を見上げた。
(あいつは——最初から次元が違う場所にいる。俺が必死に計算して届く場所を、あいつは一歩で踏み越えていくんだ)
誇らしさと、割り切れない焦燥。
だが、そんな感情も、隣で無邪気に自分の心配をする兄の顔を見れば、自然と解けていった。
「帰ろう。ボロボロだ」
「ああ、そうだな」
二人は肩を貸し合うようにして、赤く染まった採石場を後にした。




