10話 「ボートの行方」
律式の残滓が、ここで途絶えていた。
ヤマトは河口近くの浅瀬で足を止め、周囲の空気を読んだ。
帝都から南へ続く広大な河川の末端。泥と砂利が混じる荒涼とした土地。
遠くには山脈が連なり、その手前に鬱蒼とした森が広がっている。
そして——
「アイク」
ヤマトの声に、アイクが駆け寄った。
浅瀬に、小さなボートが突き刺さっていた。
船底を深く食い込ませ、完全に動けなくなっている。
船体の横には激しく擦った跡。船内は物が散乱している。
流れに揉まれながら、必死に操ったのだろう——。
その痕跡が、木材의傷一つひとつに刻まれていた。
「カレンの使っていたものに間違いないか?」
アイクが問う。
その視線は、無残に浅瀬に突き刺さった小舟に釘付けになっていた。
「ああ。船体の律式残滓の波長は、間違いなくカレンのものだ」
ヤマトはボートの船首に触れ、静かに律式のデータを解析した。
律式は、使用された後も「法則の書き換えの痕跡」として物質や空間に微細に残る。
これが律式残滓だ。異能者の律式は個人特有の波長を持つため、物体に触れたり能力を使用したりすると、指紋のように痕跡を残していく。
しかし、この残滓が追跡に利用できるのは、使用から極めて短時間、または直接接触した物体に限られる。
それ以上は、自然律に拡散し、観測不可能になる。
つまり、ボートを降りてからはスキルでの観測は不可能になる。
このボートはカレンが乗っていた証明に過ぎない。
ここからの追跡は、泥の上の足跡……物理的な痕跡に頼るしかない。
「……カレンのものだ正。間違いない」
その言葉が落ちた瞬間、アイクが膝をついた。
倒れたのではない。ただ、力が抜けた。
「ここまで——来たんだな」
声が、かすれていた。
あの夜、川に押し流した小さな舟。五歳の妹が一人でここまで辿り着いた。
誰も助けなかった。誰も守らなかった。
それでも——ここまで来た。
ヤマトは何も言わなかった。言葉が出なかった。
二人はしばらく、そのボートを見ていた。
足跡は川岸から続いていた。
小さな足跡。泥の上に、はっきりと残っている。
川から陸へ。陸から森へ。
その跡を辿りながら、アイクは無言で歩いた。
数百メートル先で、足跡が乱れた。
草が踏み荒らされ、小さな身体が倒れたような跡がある。
「ここで——力尽きたか」
アイクの声が、低くなった。
「待て」
ヤマトが腕を出した。アイクの前に立ち、地面を指差す。
「カレンの足跡はここで消えている。だが——別の痕跡がある」
カレンが倒れた跡を取り囲むように、草が深く踏みしめられていた。
大人の足跡だ。一人ではない。
少なくとも二人以上が、この場所に近づき——そして森の奥へ戻っていった。
「連れていかれた」
アイクが静かに言った。
怒りでも焦りでもない、静かな確認だった。
「ああ」
「この足跡の先は——」
ヤマトは森の奥を見据えた。
「かつて"宗教領セリフィア"と呼ばれた土地だ。龍を神と崇めた者たちの土地。彼らにとって龍痣は『律を壊すもの』ではなく——『神の印』だ」
「つまりカレンを保護した、と」
「保護か隔離か——今はわからない。だがこの森の奥に、集落がある可能性は高い」
アイクは立ち上がり、剣に手をかけた。
「行く」
「待て」
「カレンがそこにいるかもしれないんだぞ」
「だからこそ待て」
ヤマトの声が、静かに遮った。
怒鳴らなかった。だからこそ、重かった。
「情報がない。集落の規模も、戦力も、カレンの状態も、何もわからない。このまま突入すれば——カレンを危険に晒す可能性がある」
「だが、ここで立ち止まったら——」
「立ち止まるんじゃない」
ヤマトはアイクを真っ直ぐに見た。
「準備をする。この地域に詳しい者を探す。セリフィアの情報を集める。それが——カレンを確実に助ける道だ」
沈黙。
アイクは剣の柄を握ったまま、動かなかった。
ヤマトはわかっていた。アイクが怒っているのではないことを。
ただ、怖いのだ。
一日でも、一時間でも、カレンが危険な場所にいるかもしれないという事実が、怖くて仕方がない。
自分も——同じだった。
「アイク」
ヤマトは一歩、近づいた。
「俺もカレンに会いたい。今すぐ。それは同じだ」
「……なら——」
「だから、確実に助けに行く。無駄死にしたら——カレンを助けられない」
長い沈黙。
アイクの手が、剣の柄から離れた。
二人は並んで、森の入口を見た。
木々の向こうに、答えがある。だが今は——まだ届かない。
そこから、三日が過ぎた。
初日は情報を集めた。
周辺の村を回り、集落の噂を探した。
だが誰も話さなかった。
セリフィアという言葉を出した瞬間、村人の目が変わった。
恐れではなく——触れてはならないものを見る目だった。
扉を閉める者もいた。背を向ける者もいた。誰も、振り返らなかった。
二日目は森の周囲を歩いた。
入口を探した。別のルートがないか確かめた。
だがどこから入っても、同じ場所に戻ってきた。
森が、拒んでいるようだった。それとも——迷わされているのか。
どちらにせよ、結果は同じだった。
手がかりが、全て潰れていった。
三日目の夜、焚火の前でアイクが言った。
「入るぞ」
「待て」
「三日待った」
「情報がない」
アイクは焚火を見たまま、黙った。
否定しなかった。ただ——黙った。
ヤマトは続けた。
「入って、どうする。集落の規模もわからない。戦力もわからない。カレンの状態もわからない。今の俺たちの力で、確実に連れ出せる保証が——ない」
「保証なんていつもないだろ」
「ある方がいい」
沈黙。
焚火が爆ぜた。
赤い火の粉が夜に散り、すぐに消えた。
「……カレンは今、怖い思いをしているかもしれない」
アイクの声は静かだった。怒鳴らなかった。だからこそ、重かった。
「それでも——待てと言うのか」
ヤマトは少し間を置いた。
「嫌だ」
アイクが顔を上げた。
「俺も嫌だ」とヤマトは言った。
「一秒でも早く助けに行きたい。今すぐ森に入りたい。でも——」
言葉が詰まった。
計算はできる。合理的な答えは出ている。
でも今この瞬間、ヤマトは計算ではなく——ただ弟として話していた。
「確実に助けられない力で行って、失敗したら」
その先は言わなかった。言えなかった。
アイクは長い間、黙っていた。
焚火の光が、その横顔を照らしていた。炎が揺れるたびに、影が動いた。
ヤマトは待った。急かさなかった。
アイクが口を開いた。
「……わかった」
たった三文字だった。
だがその三文字の重さを、ヤマトは知っていた。
森に背を向けることを——アイクが自分で決めた。
それだけが、今夜唯一の救いだった。
「必ず戻る」とヤマトは言った。
「力をつけて、必ず」
「カレンに言ってやれ」とアイクは言った。
「俺が直接言う」
森は静かだった。
虫の声もない。風もない。ただ——その奥に、カレンがいる。
ボートが浅瀬に乗り上げた、数日前のことだった。
カレンには、名前がなかった。
自分が何者なのか、どこから来たのか、何から逃げていたのか——。
何も、覚えていなかった。
あるのはただ、逃げなければならないという本能と、炎と光の断片だけだった。
ボートが動かなくなったとき、カレンは水の中に足を踏み入れた。
冷たかった。泥が足首を沈めた。
それでも歩いた。歩かなければならないような気がした。
森の入口で、倒れた。
次に気づいたときには、天井があった。
土壁に囲まれた部屋だった。
部屋の中央に、深い青の石が置かれている。
香木の煙が漂っていた。
外から、祈りの声が聞こえていた。低く、単調な、終わらない声。
戸が開いた。
老女が入ってきた。巫女のような装束。痩せた身体。
だが目だけが、異様に強い光を持っていた。
その後ろに、複雑な紋様を顔に描いた村人たちが続き——。
カレンを見た瞬間、音もなく床に平伏した。
カレンは身を縮めた。
老女は静かに近づき、カレンの隣に座った。
その手がカレンの額に触れる。乾いた、古い手だった。
「恐れることはない、我が子よ」
声は穏やかだった。
だが穏やかさの奥に、カレンには理解できない何かがあった。
「ここは龍神の御懐。追っ手も、外界の手も、ここには届かぬ」
「……わたし、だれ?」
声が出た。自分の声なのに、他人の声のように聞こえた。
老女は目を閉じた。それから、深く頭を垂れた。
「そなたは——神の子だ」
村人たちが、一斉に額を床に押しつけた。
カレンは、その光景を見ていた。
怖かった。優しくされているのに、怖かった。
食事は丁寧に運ばれてきた。部屋は温かかった。
だが食事を運ぶ者の手は震え、決してカレンと目を合わせなかった。
神の子として扱われることは——人として見られないことだった。
カレンは部屋の中央の青い石を見つめた。
石は、静かに光を反射していた。
(おにいちゃん)
言葉は出なかった。誰のことを思い出しているのか、自分でもわからなかった。
ただ——誰かが来てくれるような気がした。
根拠はなかった。記憶もなかった。
でも、その感覚だけは——消えなかった。
翌朝、二人は森に背を向けた。
振り返らなかった。振り返れば——動けなくなる気がした。
アイクだけが、一度だけ立ち止まった。
森を見た。木々の向こうに、答えがある。カレンがいる。
今すぐ走り込みたい気持ちが、まだそこにあった。
それでも——踏み出した。
ヤマトはその背中を見ていた。
(あいつにとって、これが一番きつい選択だ)
力があるのに使わない。届くかもしれないのに、届かせない。
それがアイクにとってどれほど重いか——言葉にしなくても、わかった。
「行こう」
ヤマトは並んで歩き始めた。
森が、遠ざかっていく。
その距離が広がるたびに、胸が締め付けられた。
だが——前を向いた。
必ず戻る。力をつけて、必ず。
それだけが、今の二人にできる、精一杯の「守り方」だった。




