38話「別れた道」
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「その子供を、どうするつもりだ」
グラヴィスの問いが、森の静寂に、まだ残っていた。
ヤマトは、カレンの頬から、そっと手を離した。
「――司法局に、引き渡す」
声は、静かだった。だが、その静かさが、かえって重かった。
「――は?」
アイクの声が、掠れた。
「忘れたのか。カレンには、賞金がかかってる。生死問わず、即時断罪対象だ。引き渡せば、殺されるかもしれないんだぞ」
「忘れてない」
ヤマトは、静かに首を振った。
「だから、ただ引き渡すつもりはない。あの告示そのものを、覆す」
「――覆す? あれは、皇帝が公にした話だろう」
「正確には、宰相ヴェルクの名義だ。皇帝本人の勅令じゃない。……つまり、上申して撤回させる余地は、まだ残ってる」
ヤマトは、淡々と続けた。
「カレンの龍痣は、四百年前の一例目以来、二例目の可能性がある。殺してしまえば、二度と手に入らない情報だ。……"研究対象として、生かしておく価値がある"、それを上申する」
「それを、どうやって通す」
「一番強い札は、俺の立場じゃない」
ヤマトは、真っ直ぐに、アイクを見た。
「お前だ」
「――は?」
「序列一位。帝国が、今、一番手放したくない戦力。……お前がその気になれば、帝国側も、無下には扱えない」
アイクは、しばらく黙っていた。
「……それは、そうかもしれない」
意外にも、反発はなかった。ただ、静かに、頷いただけだった。
「俺の立場が、カレンの役に立つなら、使えばいい。それは、否定しない」
「保証はない、それでも――」
ヤマトは、一拍、置いた。
「正式な保護対象として、カレンを預ける。傷の手当てだけじゃない。……あの子の中にある不安定な力そのものを、管理できる体制に、置く」
「――管理、か」
アイクの声が、低くなった。
「里も、あいつを"管理"してた。優しくして、閉じ込めて、都合のいい時だけ大事にして。……お前が今言ってることは、それと何が違う」
その言葉に、ヤマトは、一瞬、言葉を詰まらせた。
「――違う」
「何が」
「今度は、俺たちが、そばにいる。里は、あいつを利用するために管理した。俺は、あいつを守るために、システムを使う。目的が違う」
「――システムを、使う?」
アイクの声に、乾いた笑いが混じった。
「ヤマト。忘れたのか。俺たちの親を殺したのは、その"システム"だ。皇帝の命令で、グラヴィスが送り込まれた。あれも、帝国の律文に則った、"正当な"処刑だった」
グラヴィスは、何も言わなかった。ただ、その沈黙が、肯定だった。
「お前は今、その同じ手に、カレンを差し出そうとしてる」
「分かってる」
ヤマトの声が、初めて、僅かに揺れた。
「分かった上で、言ってる」
「なら、なんで」
「システムは、一枚岩じゃないからだ」
ヤマトは、グラヴィスへ、一瞬、視線を向けた。
「五年前、グラヴィスは、お前を殺せた。だが、殺さなかった。……その判断も、同じ帝国の中にある意志だ。システムは、一枚の壁じゃない。誰かの手で、動かせる隙間がある。俺は、その動かし方を、この五年で学んできた」
「学んだつもりになってるだけかもしれない」
アイクの声が、低く、鋭くなった。
「五年前、俺は、あの場に立って、剣を握った。お前は、カレンを舟に乗せて、川に流した。……どっちも、正解なんてなかった。それは、分かってる」
一拍、置く。
「だが、今、お前がやろうとしていることは、あの夜と、同じだ。カレンを、俺たちの手から離して、"見えないどこか"に、また託そうとしている」
その言葉に、ヤマトの表情が、大きく歪んだ。
「――違う」
声が、震えた。
「あの夜は、他に手がなかった。今度は、違う。今度は、俺が、その"どこか"に、ちゃんと目を届かせられる」
「それの、どこに保証がある」
「保証なんて、ない」
ヤマトは、正直に、それを認めた。
「保証はない。それでも、お前一人の力で守り続けるより、確率は高いはずだ」
「確率、か」
アイクは、静かに、カレンの髪を撫でた。
「お前は、いつも、そうやって数字で考える。……それが、お前のやり方だってことは、分かってる。馬鹿にするつもりもない」
それから、真っ直ぐに、ヤマトを見た。
「だが、あいつに必要なのは、確率の高い選択肢じゃない。……誰か一人でいいから、"確率なんて関係なく、俺はお前のそばにいる"って、言い切ってくれる人間だ」
「目的なんて、あいつには関係ない」
アイクは、カレンを抱き上げた。折れそうなほど細い身体を、両腕で包み込む。
「檻の中で優しくされることに、意味なんかない。あいつに必要なのは、無条件に、一人の人間として、選ばれることだ。……それができるのは、システムじゃない。家族だけだ」
「気持ちは分かる」
ヤマトの声も、震え始めていた。
「だが、気持ちだけじゃ、守り切れない。お前一人が、一生あいつのそばにいられるのか。逃亡者として、帝国中に追われながら? 俺たちは、いつまで走り続けられる」
「走り続ける。何年でも」
「それが、答えになると思うのか」
二人の間に、痛いほどの沈黙が落ちた。
「――そこまでだ」
グラヴィスが、初めて、口を挟んだ。
「見ていて、飽きた。……埒が明かない」
その声に、二人の視線が、同時にグラヴィスへ向いた。
「ヤマト」
グラヴィスは、感情のない目を、真っ直ぐにヤマトへ向けた。
「お前の言い分は、理屈としては、悪くない。だが、理屈だけで、アイクを止められると思っているなら、それは思い上がりだ」
「――何が、言いたい」
「証明しろ、と言っている」
グラヴィスは、静かに続けた。
「口先だけの正しさに、何の価値もない。……お前が、本当に自分の判断を信じているなら、剣を抜け。俺と一緒に、アイクを止めてみせろ」
「――俺に、アイクと戦えと」
ヤマトの声が、僅かに掠れた。
「これは、俺の正式な任務でもある。抵抗するなら、俺は一人でも止める。……だが、二人がかりの方が、可能性は上がる」
グラヴィスは、僅かに、目を細めた。
「それとも――口で言うことと、実際にやることは、別か?」
その挑発めいた言葉に、ヤマトは、拳を握った。
(――ここで退けば)
(俺の言葉は、ただの理屈で終わる)
「……分かった」
ヤマトは、静かに、剣を抜いた。手が、微かに震えていた。それでも、鞘から抜く動きに、迷いはなかった。
「アイク。悪いが、本気で、止めさせてもらう」
「――邪魔をするな」
アイクの瞳に、静かに、黄金の光が宿り始めた。だが、その輝きは、龍還との戦闘で見せたものより、ずっと荒々しかった。制御を、自ら手放そうとしているようだった。
「渡す気は、ない」
グラヴィスは、僅かに、腰を落とした。
数ヶ月前、この男に、正面から、打ちのめされた記憶が、身体のどこかに、まだ焼き付いている。全力のアイクに、一人で挑めば、勝ち目がないことは、誰よりもグラヴィス自身が知っていた。
(――だが、ここは、断律球内じゃない)
グラヴィスは、冷静に、周囲を一瞥した。
断律球のように外界と隔離された環境ではなく、この森には、何もない。序列一位と二位が、正面から本気でぶつかり合えば、この一帯そのものが、消し飛ぶ。それは、カレンを巻き込むことを意味した。
(――向こうも、それは分かっているはずだ)
だからこそ、この戦いは、殺し合いにはならない。なれない。アイクは、カレンを庇いながら、なお出力を抑えることを、強いられている。グラヴィス自身も、同じだった。
(――だからこそ、ヤマトが必要だった)
風が、止まった。
次の瞬間、グラヴィスの姿が消えた。
アイクは、カレンを片腕で庇いながら、もう片方の腕で、グラヴィスの一撃を受け止めた。衝撃波が、周囲の木々を軋ませる。
ヤマトも、遅れず、地を蹴った。
二対一の戦いが、始まった。
グラヴィスの一撃一撃は、重く、正確だった。アイクは、それを片腕だけで捌きながら、カレンを守り続けている。本来の彼の速度からすれば、あり得ないほどの制限だった。
グラヴィスの拳が、アイクの腕――カレンを抱える、その腕そのものを、正確に狙った。
「――っ、待て!」ヤマトは、思わず声を上げた。
「カレンごと、潰す気か!」
「潰れても構わん」
グラヴィスの声に、迷いはなかった。
「生死は問わない。……最初から、そういう対象だ」
その一言に、ヤマトの背筋が、冷えた。
(――そうだ。こいつにとっては)
(カレンは、救出対象でも、保護対象でもない。ただの、断罪対象でしかない)
ヤマトは、咄嗟に、剣の軌道を変えた。アイクではなく、グラヴィスの拳を、横から弾く。
「――ヤマト?」
グラヴィスの声に、初めて、僅かな苛立ちが滲んだ。
「カレンに、当てるな。それが、条件だ」
「条件を出す立場か、お前が」
「出す。……お前一人じゃ、勝てないと分かってて、俺を呼んだんだろう」
グラヴィスは、答えなかった。それが、肯定だった。
「なら、俺のやり方に、多少は合わせろ」
ヤマトは、剣を構え直しながら、続けた。
「アイクを止めるのが目的で、カレンを殺すのが目的じゃない。……そこを、履き違えるな」
グラヴィスは、しばらく無言だった。それから、感情のない声で、短く言った。
「――好きにしろ」
攻撃の軌道が、僅かに変わった。カレンを庇うアイクの腕を、直接狙う攻撃は、止んだ。それでも、容赦は、微塵もなかった。
グラヴィスは、一瞬、後方へ跳んだ。距離を取り、両手を、大きく広げる。
「――なら、これはどうだ」
地面が、唸った。
グラヴィスを中心にした広範囲の空間が、見えない力に握り潰されるように、内側へ歪んでいく。木々が、根元から引きずり込まれ、土が、渦を巻きながら陥没していく。重力そのものを操る、彼本来のスキルだった。
「――来る!」
ヤマトが叫んだ。
「重力の牢獄――《重力の牢獄》!」
その攻撃範囲は、あまりにも広かった。アイクだけを狙ったものではない。カレンごと、この一帯全てを、押し潰すつもりだった。
アイクの瞳が、鋭く細まる。
全力で対抗すれば、周囲一帯の重力場ごと無効化できる。だが、この環境下でどれだけの影響が出るかわからない状況である。
(――絞る)
アイクは、出力を、限界まで絞り込んだ。広範囲を覆う代わりに、自分と、腕の中のカレンを包む、周囲のある程度の範囲だけに、力を集中させる。
――《至高の法典》――
「《星幽零式》」
その一点だけ、律が、完全に凪いだ。
周囲一帯が、次々と陥没していく中、アイクとカレンの立つ場所だけが、まるで最初から重力の埒外にあったかのように、微動だにしなかった。
地面が沈み、木々がなぎ倒されて消えていく中央に、二人分の足場だけが、ぽつんと、島のように取り残される。
「……そこまでの精度で、絞れるのか」
グラヴィスの声が、初めて、僅かにトーンを変えた。驚きに近い響きだった。
「褒めてる場合か」ヤマトは、崩れゆく地面を飛び越えながら、叫んだ。
「――話が、違うだろう!」
着地するなり、ヤマトは、グラヴィスへ、鋭く声を飛ばした。
「カレンに当てるな、それが条件だったはずだ。今のは、範囲攻撃だ。当たれば、アイクだけじゃない、カレンも――」
「当てるつもりはなかった」
グラヴィスは、感情のない声で答えた。
「アイクなら、避けると踏んだ。事実、避けた」
「賭けにしては、質が悪すぎる」
ヤマトの声に、隠しきれない怒りが滲んだ。
「これ以上、同じ真似を続けるなら――今すぐ、退くことも、考えるべきだ。この状況で戦い続ける方が、カレンにとって、余程危険だ」
「今更、退けるとでも」
グラヴィスは、短く返した。
「退くかどうかは、俺たちが決めることじゃない」
その視線の先で、アイクが、カレンを抱いたまま、静かに二人を見ていた。だが、退く気配は、微塵もなかった。
押し問答をしている余裕は、それ以上なかった。グラヴィスが、既に、次の間合いへ踏み込んでいる。
ヤマトも、剣を構え直した。グラヴィスの猛攻に晒され続けるアイクの防御に、僅かな隙間が生まれていた。だが、剣を振るう寸前、迷いが、コンマ数秒、動きを鈍らせた。
アイクは、その隙を、突かなかった。
むしろ、僅かに、身を引いた。
(――躱した? 俺の攻撃を、殺す気で受けようとしたのに)
ヤマトの剣先は、空を切った。だが、それは、アイクが避けたからではなかった。踏み込みの、最後の一歩を、アイク自身が、緩めたからだった。
「――なんで」
ヤマトの声が、掠れた。
「本気で来い、ヤマト」
アイクの声は、荒かった。だが、その瞳の奥に、隠しきれない、痛みのようなものがあった。
「お前を、傷つけたくない。……それだけだ」
その一瞬の躱躱が、戦況を決めた。
グラヴィスの拳が、アイクの脇腹に沈んだ。
「――っ」
アイクの身体が、僅かに泳ぐ。それでも、カレンだけは、決して離さなかった。
その代わり、体勢が崩れた一瞬、ヤマトの剣が、初めて、アイクの肩を掠めた。浅い傷。だが、確かに、血が滲んだ。
二人の動きが、止まった。
ヤマトは、自分の手を、信じられないものを見るように見つめていた。
(――俺が、アイクを、斬った)
「――アイク」
「悪いな」
アイクは、傷を気にする素振りも見せなかった。ただ、静かに、二人を見た。
流れる血を、拭いもしなかった。
(――そうか)
(このまま続ければ、次は、掠り傷じゃ済まない)
(ヤマトが、俺を、本気で傷つける日が来る。……それだけは、駄目だ)
「これで、十分だ」
「何が――」
言い終わる前に、アイクの姿が、掻き消えた。
グラヴィスが、反応する。だが、コンマ数秒、遅かった。
アイクは、既に、森の外れまで跳んでいた。カレンを片腕にしっかりと抱いたまま。
「――待て!」
ヤマトが叫んだ。
アイクは、振り返った。木々の向こう、遠く、その表情は、もう見えなかった。だが、声だけは、はっきりと届いた。
「ヤマト。……お前の言うことは、間違ってない。分かってる」
声には、もう、怒りはなかった。ただ、深い疲れと、それでも揺るがない何かが、滲んでいた。
「それでも、俺は、俺のやり方で行く。カレンを、独りにはさせない」
「アイク――」
「必ず、また会う。……その時までに、俺なりの答えを、用意しておく」
その言葉を最後に、アイクの姿は、木々の向こうへ消えていった。
ヤマトは、剣を握ったまま、動けなかった。
自分の手のひらに残る、アイクを斬った感触が、消えなかった。
グラヴィスが、静かに近づいてきた。
「追わないのか」
「……追っても」
ヤマトの声は、掠れていた。
「今のアイクに、追いつけるとは思えない」
グラヴィスは、しばらく黙っていた。それから、感情のない声で、静かに言った。
「二人がかりで、止められなかった。……序列一位を、二人で追い詰めることすら、できなかった」
その言葉には、皮肉でも、蔑みでもない、ただの事実の重さがあった。
「これが、今の帝国の、実力だ」
ヤマトは、何も答えられなかった。
森は、再び、静かになっていた。
カレンのいない、ただの森に戻っていた。
だが、ヤマトの中には、この日の出来事が、消えない棘のように、残り続けることになる。
双子の道は、ここで、確かに分かたれた。




