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龍痣の少女と断罪の双子― IYK物語 ―  作者: ヤニコチンタール人
第二章【ヴァルメリア帝国司法養成院――リブラ編】
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37話「双子の見つけたもの」

 旧セリフィア領は、地図の上では、今も帝国の版図の一部だった。


 街道は通っている。小さな街もいくつか点在し、人も、普通に暮らしている。だが、その奥――かつて龍信仰の中心地だったという森一帯だけは、今も、誰も踏み込まない土地として、地図の余白のように扱われていた。


 三人は、ここ数日、ほとんど眠らずに歩き続けていた。

 グラヴィスが合流したのは、龍還との戦いがあった、あの森を出た、その日のうちだった。


「独断で動くつもりなら、好きにしろ」


 木立の陰から、その男は、音もなく歩み出てきた。


 黒いフード。感情の読めない声。


 その姿を見た瞬間、ヤマトの心臓が、大きく跳ねた。


(――こいつ)


 五年前、目の前で母の身体が崩れ落ちた光景が、一瞬で蘇る。同じ、圧倒的な気配。同じ、抑揚のない声。


 隣で、アイクの気配が、明らかに変わった。剣の柄にかけた手が、白くなるほど強張っている。


 ヤマトは、握った拳の中に、爪が食い込む感触を覚えながら、それでも、表情には出さなかった。出せば、頭が働かなくなる。今は、それだけは、避けなければならなかった。


(――今は、感情を、殺せ)


 自分自身に、そう言い聞かせながら、ヤマトは、グラヴィスと向き合った。


「だが、カレンの捜索は、本来、俺が正式に請け負っている任務だ。……勝手に首を突っ込まれるのは、困る」


「なら――」


「俺の指揮下に入れ。それなら、文句はない」


(――グラヴィスが、直々に)


 ヤマトは、内心で、僅かに引っかかりを覚えていた。


 シアリー内部では、アイクとグラヴィスが同じ任務に就くことは、意図的に避けられてきたはずだった。序列一位と二位、立場上は重なる場面があってもおかしくないのに、二人が直接顔を合わせたという話を、ヤマトはほとんど聞いたことがなかった。


(それを、自分から崩してきた)


 理由は、分からなかった。ただの職務上の都合とは、思えなかった。


 グラヴィスの提案は、ほとんど命令に近かった。だが、ヤマトにとっても、悪い話ではなかった。組織の後ろ盾があれば、動ける範囲が、まるで違う。


(――今は、それを、優先する)


 引っかかりを、ひとまず胸の奥にしまい込んだ。


 アイクは、しばらく黙っていたが、やがて、短く頷いた。

 それから、三人での捜索が始まった。


「――足跡が、途切れている」


 ヤマトは、地面に膝をつき、湿った土を指でなぞった。


 最初の手がかりは、シアリーの通報記録だった。ヤマトが立場を使って引き出した、ここ半年分の「龍痣の少女」に関する目撃通報。ほとんどは眉唾もの、あるいは誤報として処理されていた。


 だが、直近の数週間分だけ、様子が違った。

 通報の数が、急に増えていた。しかも、全て、この旧セリフィア領周辺の街や村に集中している。


「……これだけ通報が集まって、まだ捕まっていないということは」

 ヤマトは、記録の日付を指でなぞりながら呟いた。


「よほど、逃げ足が速い。あるいは――」


「人を信じるのをやめたのか」

 アイクが、低く言った。


 グラヴィスは、何も言わなかった。ただ、二人の少し後ろで、報告書を捲るような目で、状況を見ていた。


 三人は、通報のあった街や村を一つ一つ回り、目撃情報を直接拾い集めた。


 親切そうな老女の家に転がり込んだ子供が、夜中に裸足で逃げ出した話。行商人の夫婦が、司法局に届け出た直後、姿を消していた話。教会の裏で食事を恵んでもらった子供が、二度と現れなかった話。


 どれも、断片でしかない。だが、繋げていけば、一つの線になった。


「ここ数日で、目撃情報が一気に増えている。……追い詰められて、隠れ方が上手くなっている」


 ヤマトは、静かに立ち上がった。


「隠れ方が上手くなっている、ってことは」

 アイクの声が、掠れていた。


「それだけ、繰り返し危ない目に遭ってる、ってことだ」


 アイクは、何も言わなかった。拳が、白くなるほど握られていた。


「この先の森だ。目撃情報の密度が、ここで途切れている」

 ヤマトは、森の奥を見据えた。


「森に入ったなら、それ以上の目撃はない。……つまり」


「もう、誰にも見つかっていない」


 アイクが、言葉を継いだ。


「あるいは、誰にも見つけてもらえていない」

 三人は、無言で顔を見合わせた。


 それ以上、言葉はいらなかった。




 森の中は、静かだった。


 異様なほどに、静かだった。虫の声も、鳥の声も、何もない。


「――この静けさ」


 アイクが、足を止めた。


「龍還に囲まれた、あの森と似てる」


「ああ」


 ヤマトは短く頷いた。だが、今この場に、龍還の気配はない。ただ、森そのものが、何かを避けているような、そんな静けさだった。


 三人は、急いだ。もはや、足跡を辿る必要はなかった。この静けさの中心に、答えがある。それだけが、確信としてあった。


 木々の間隔が、不自然に開けた場所に出た。


 最初に目に入ったのは、色だった。


 濃い緑の下草の中に、そこだけ違う色が、沈んでいる。土でも、枯れ葉でもない。人の形をした、小さな染みだった。


 アイクの足が、止まった。


「――カレン」

 声にならない声だった。


 次の瞬間には、駆け出していた。手にしていた剣が、乾いた音を立てて地面に落ちる。


 小さな身体が、下草の中に、力なく沈んでいた。


 薄汚れた衣服は、あちこち裂けている。剥き出しの素足は、無数の切り傷と乾いた泥にまみれ、頬は削げ落ち、唇は白く干からびていた。乱れた紅茶色の髪の隙間から、浮き出た鎖骨が覗いている。


 五歳の頃の、丸みを帯びた頬の記憶が、目の前の光景に塗り替えられていく。


(――これが)


(あの日、川に流した妹なのか)


 アイクは、その場に崩れ落ちるように膝をついた。震える手が、頬に触れる。冷たかった。命の熱は確かにそこにあるはずなのに、あまりにも、冷たく感じられた。


「カレン! カレン、返事をしろ!」


 叫んだ声が、森に反響し、そして、すぐに静寂に呑まれた。


「――呼びかけても、無駄だ」


 グラヴィスの声が、少し離れた場所から聞こえた。彼は、駆け寄りはしなかった。木立の際に立ち止まったまま、動かない少女と、その傍らに膝をつく二人を、静かに見下ろしていた。


「意識はない。命に別状はない」


「なぜ、分かる」


 アイクの声に、余裕はなかった。


「見れば分かる」

 グラヴィスは、感情のない声で答えた。それ以上、近づいてはこなかった。


「カレン、俺だ。分かるか、カレン」

 呼びかけても、反応はなかった。閉じた瞼が、微かに震えるだけだった。


 ヤマトも駆け寄り、脈を確かめた。速く、弱い。飢えと、疲労と、それ以上の何かが、幼い身体を限界まで追い詰めていた。


「……酷い」

 ヤマトの声が、掠れた。


 薄汚れた衣服は、あちこちが裂け、擦り切れていた。何かに引っかけ、切り裂かれた跡が、幾つも重なっている。


 だが、その裂け目から覗く肌には、傷一つ、残っていなかった。


(……おかしい)


 これだけ服が裂けているのに、下の肌は、ほとんど無傷に近い。ヤマトの中で、小さな違和感が引っかかった。だが、今は、それを考えている場合ではなかった。


 服の裂け具合が語る消耗だけは、隠しようがなかった。


「今すぐ、連れて帰る」

 アイクが、カレンを抱き上げようとした。


「待て」

 ヤマトが、その腕を止めた。


「何のために待つ。もう、見つけたんだ」


「見つけただけだ。……この五年、カレンに何があったのか、俺たちはまだ何も知らない」

 ヤマトは、静かに、だが強く言った。


「このまま連れて帰って、もし――カレンの中に、俺たちの知らない何かが起きていたら。応急処置すら、間違えるかもしれない」

 アイクの表情が、歪んだ。それでも、反論はしなかった。


「……分かるのか。それが」


「分かる方法が、一つだけ思いつく」


 ヤマトは、カレンの傍らに膝をついた。

「……試したことは、ない。上手くいく保証もない」


「言え」


 アイクの声は、短く、急いていた。


「俺の《記憶(メモリ)階梯(アセンド)》だけじゃ、届かない。完全に意識を失った人間の、しかも深く抑え込まれた記憶は、律の波長が乱れて、観測すらできないはずだ。……理屈の上では」


 ヤマトは、アイクを見上げた。


「だが、お前の《至高(スプリーム)の法典(・コード)》で、この空間の律を無理やり固定できれば――理論上は、読み取れるかもしれない」


「理論上、か」

 アイクの声に、皮肉めいた響きが混じった。だが、迷いはなかった。


「他に、方法があるのか」


「――ない」


「なら、やる」


「待て」


 ヤマトは、一度、アイクを制した。


「傷つける可能性は、ゼロだとは言い切れない。それでも、やるのか」


 アイクは、カレンの顔を見つめたまま、しばらく黙っていた。


「……知らないまま、連れて帰る方が、よほど怖い」


「――分かった」

 ヤマトは、静かに頷いた。


「お前が、カレンを中心にした空間の律を、お前の法で固定してみてくれ。俺は、その中に残っている記憶の残滓を、読めるかどうか試す」


 二人は、カレンを挟むように、向かい合って膝をついた。


「――アイク。傷つけるつもりはない。だが、絶対に安全だとも、言えない」


「分かってる」


 アイクの瞳が、静かに、黄金の光を宿し始めた。だが、その輝きは、龍還との戦闘で見せたものとは、明らかに質が違っていた。荒々しい力ではなく、繊細に制御された、極めて小さな出力。



 ――《至高(スプリーム)の法典(・コード)》――



 声には出さなかった。ただ、意志だけで、周囲の空間が、静かに書き換えられていく。


 カレンを中心とした半径数メートル。そこだけ、世界の律が、アイクの法によって上書きされた。空気の密度が、微かに変わる。風もないのに、木の葉が一枚、音もなく落ちた。


(――固定された、のか)


 半信半疑のまま、ヤマトは、それを肌で感じ取った。


 この空間の中でだけ、時間の流れが、わずかに緩んでいる。乱れ拡散していたはずのカレンの記憶の律式残滓が、輪郭を持ち始めていた。


(理屈通りに、いくとは――)


 驚きを飲み込みながら、ヤマトは、静かに目を閉じた。



 ――《記憶(メモリ)階梯(アセンド)》――



 脳裏に、赤い数字が瞬く。だが、今読み取ろうとしているのは、確率でも、計算結果でもない。

 誰かの、記憶そのものだった。

 流れ込んでくる。


 土壁の部屋。香木の匂い。誰とも目を合わせない、優しい手。五年分の、静かな孤独が、幾重にも重なっていく。自由はなかった。それでも、飢えることはなく、痛めつけられることもなかった。


 ――そして、つい最近。


 里を抜け出した、暗い夜。裸足で駆ける、獣道。


 背中に触れた、ある人の手の震え。


(――お金)


 優しかった人たちの顔が、次々と浮かんでは、笑みの形を変えていく。忙しなく動く目。逸れていく視線。


「――そう、間違いない。……いくらになるかしら」


 その一言が、何度も、何度も、繰り返される。


 風呂に、二度と入らなかった。誰の前でも、着替えなかった。眠るときは、常に背中を壁につけていた。


(誰も、信じられない)


(誰も、わたしを見ない)


 ヤマトの意識の奥で、その言葉だけが、静かに、鈍く、響き続けていた。


 最後に見えたのは、木々の隙間から差し込む、細い月の光。それを見つめる、涸れきった瞳。


 そこで、映像は途切れた。

 ヤマトは、目を開けた。

 自分の頬が、濡れていることに、少し遅れて気づいた。


「――ヤマト」


 アイクの声が、掠れていた。彼も、同じものを見ていた。


「あいつ……」

 言葉が、続かなかった。


 拳を握るアイクの手から、血が滲んでいた。爪が、皮膚に食い込むほどの力だった。

 ヤマトは、震える手で、カレンの頬にそっと触れた。


(――五年間、自由もなく、ずっと生きてきたのか)


(それでも、なんとか、日々を耐えていたはずだったのに――ここ最近、これほどまでに追い詰められていたのか)


(誰も、助けなかった。誰も、守らなかった)


(それでも――ここまで、生きてきた)


 ヤマトの中で、何かが、静かに、だが確実に、形を変えていくのを感じた。

 それが、優しさなのか、怒りなのか、あるいは、もっと別の、名前のつかない何かなのか。

 ヤマト自身にも、まだ、分からなかった。

 その時だった。


「――今、そう名乗ったな。《記憶階梯》とやらか」

 低く、感情のない声が、背後から響いた。


「随分と、面倒そうな技を使う」


 感情のない声だった。だが、その視線だけは、地面に横たわるカレンから、動かなかった。


「グラヴィス」

 アイクが、低く唸るように、その名を呼んだ。


 五年前、目の前でこの男に両親を奪われた記憶が、まだ、完全には消えていない。


 グラヴィスは、その視線を、正面から受け止めた。表情は、変わらなかった。


「感傷に浸る時間は、与えてやりたいが」

 グラヴィスは、静かに続けた。


「お前たちに、聞いておきたいことがある」

 その目が、ヤマトへと向いた。


「その子供を、どうするつもりだ」

 問いは、単純だった。だが、その単純さの奥に、避けられない何かが、既に横たわっていた。


 ヤマトは、カレンの頬に触れたまま、まだ、答えを持っていなかった。


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