37話「双子の見つけたもの」
旧セリフィア領は、地図の上では、今も帝国の版図の一部だった。
街道は通っている。小さな街もいくつか点在し、人も、普通に暮らしている。だが、その奥――かつて龍信仰の中心地だったという森一帯だけは、今も、誰も踏み込まない土地として、地図の余白のように扱われていた。
三人は、ここ数日、ほとんど眠らずに歩き続けていた。
グラヴィスが合流したのは、龍還との戦いがあった、あの森を出た、その日のうちだった。
「独断で動くつもりなら、好きにしろ」
木立の陰から、その男は、音もなく歩み出てきた。
黒いフード。感情の読めない声。
その姿を見た瞬間、ヤマトの心臓が、大きく跳ねた。
(――こいつ)
五年前、目の前で母の身体が崩れ落ちた光景が、一瞬で蘇る。同じ、圧倒的な気配。同じ、抑揚のない声。
隣で、アイクの気配が、明らかに変わった。剣の柄にかけた手が、白くなるほど強張っている。
ヤマトは、握った拳の中に、爪が食い込む感触を覚えながら、それでも、表情には出さなかった。出せば、頭が働かなくなる。今は、それだけは、避けなければならなかった。
(――今は、感情を、殺せ)
自分自身に、そう言い聞かせながら、ヤマトは、グラヴィスと向き合った。
「だが、カレンの捜索は、本来、俺が正式に請け負っている任務だ。……勝手に首を突っ込まれるのは、困る」
「なら――」
「俺の指揮下に入れ。それなら、文句はない」
(――グラヴィスが、直々に)
ヤマトは、内心で、僅かに引っかかりを覚えていた。
シアリー内部では、アイクとグラヴィスが同じ任務に就くことは、意図的に避けられてきたはずだった。序列一位と二位、立場上は重なる場面があってもおかしくないのに、二人が直接顔を合わせたという話を、ヤマトはほとんど聞いたことがなかった。
(それを、自分から崩してきた)
理由は、分からなかった。ただの職務上の都合とは、思えなかった。
グラヴィスの提案は、ほとんど命令に近かった。だが、ヤマトにとっても、悪い話ではなかった。組織の後ろ盾があれば、動ける範囲が、まるで違う。
(――今は、それを、優先する)
引っかかりを、ひとまず胸の奥にしまい込んだ。
アイクは、しばらく黙っていたが、やがて、短く頷いた。
それから、三人での捜索が始まった。
「――足跡が、途切れている」
ヤマトは、地面に膝をつき、湿った土を指でなぞった。
最初の手がかりは、シアリーの通報記録だった。ヤマトが立場を使って引き出した、ここ半年分の「龍痣の少女」に関する目撃通報。ほとんどは眉唾もの、あるいは誤報として処理されていた。
だが、直近の数週間分だけ、様子が違った。
通報の数が、急に増えていた。しかも、全て、この旧セリフィア領周辺の街や村に集中している。
「……これだけ通報が集まって、まだ捕まっていないということは」
ヤマトは、記録の日付を指でなぞりながら呟いた。
「よほど、逃げ足が速い。あるいは――」
「人を信じるのをやめたのか」
アイクが、低く言った。
グラヴィスは、何も言わなかった。ただ、二人の少し後ろで、報告書を捲るような目で、状況を見ていた。
三人は、通報のあった街や村を一つ一つ回り、目撃情報を直接拾い集めた。
親切そうな老女の家に転がり込んだ子供が、夜中に裸足で逃げ出した話。行商人の夫婦が、司法局に届け出た直後、姿を消していた話。教会の裏で食事を恵んでもらった子供が、二度と現れなかった話。
どれも、断片でしかない。だが、繋げていけば、一つの線になった。
「ここ数日で、目撃情報が一気に増えている。……追い詰められて、隠れ方が上手くなっている」
ヤマトは、静かに立ち上がった。
「隠れ方が上手くなっている、ってことは」
アイクの声が、掠れていた。
「それだけ、繰り返し危ない目に遭ってる、ってことだ」
アイクは、何も言わなかった。拳が、白くなるほど握られていた。
「この先の森だ。目撃情報の密度が、ここで途切れている」
ヤマトは、森の奥を見据えた。
「森に入ったなら、それ以上の目撃はない。……つまり」
「もう、誰にも見つかっていない」
アイクが、言葉を継いだ。
「あるいは、誰にも見つけてもらえていない」
三人は、無言で顔を見合わせた。
それ以上、言葉はいらなかった。
森の中は、静かだった。
異様なほどに、静かだった。虫の声も、鳥の声も、何もない。
「――この静けさ」
アイクが、足を止めた。
「龍還に囲まれた、あの森と似てる」
「ああ」
ヤマトは短く頷いた。だが、今この場に、龍還の気配はない。ただ、森そのものが、何かを避けているような、そんな静けさだった。
三人は、急いだ。もはや、足跡を辿る必要はなかった。この静けさの中心に、答えがある。それだけが、確信としてあった。
木々の間隔が、不自然に開けた場所に出た。
最初に目に入ったのは、色だった。
濃い緑の下草の中に、そこだけ違う色が、沈んでいる。土でも、枯れ葉でもない。人の形をした、小さな染みだった。
アイクの足が、止まった。
「――カレン」
声にならない声だった。
次の瞬間には、駆け出していた。手にしていた剣が、乾いた音を立てて地面に落ちる。
小さな身体が、下草の中に、力なく沈んでいた。
薄汚れた衣服は、あちこち裂けている。剥き出しの素足は、無数の切り傷と乾いた泥にまみれ、頬は削げ落ち、唇は白く干からびていた。乱れた紅茶色の髪の隙間から、浮き出た鎖骨が覗いている。
五歳の頃の、丸みを帯びた頬の記憶が、目の前の光景に塗り替えられていく。
(――これが)
(あの日、川に流した妹なのか)
アイクは、その場に崩れ落ちるように膝をついた。震える手が、頬に触れる。冷たかった。命の熱は確かにそこにあるはずなのに、あまりにも、冷たく感じられた。
「カレン! カレン、返事をしろ!」
叫んだ声が、森に反響し、そして、すぐに静寂に呑まれた。
「――呼びかけても、無駄だ」
グラヴィスの声が、少し離れた場所から聞こえた。彼は、駆け寄りはしなかった。木立の際に立ち止まったまま、動かない少女と、その傍らに膝をつく二人を、静かに見下ろしていた。
「意識はない。命に別状はない」
「なぜ、分かる」
アイクの声に、余裕はなかった。
「見れば分かる」
グラヴィスは、感情のない声で答えた。それ以上、近づいてはこなかった。
「カレン、俺だ。分かるか、カレン」
呼びかけても、反応はなかった。閉じた瞼が、微かに震えるだけだった。
ヤマトも駆け寄り、脈を確かめた。速く、弱い。飢えと、疲労と、それ以上の何かが、幼い身体を限界まで追い詰めていた。
「……酷い」
ヤマトの声が、掠れた。
薄汚れた衣服は、あちこちが裂け、擦り切れていた。何かに引っかけ、切り裂かれた跡が、幾つも重なっている。
だが、その裂け目から覗く肌には、傷一つ、残っていなかった。
(……おかしい)
これだけ服が裂けているのに、下の肌は、ほとんど無傷に近い。ヤマトの中で、小さな違和感が引っかかった。だが、今は、それを考えている場合ではなかった。
服の裂け具合が語る消耗だけは、隠しようがなかった。
「今すぐ、連れて帰る」
アイクが、カレンを抱き上げようとした。
「待て」
ヤマトが、その腕を止めた。
「何のために待つ。もう、見つけたんだ」
「見つけただけだ。……この五年、カレンに何があったのか、俺たちはまだ何も知らない」
ヤマトは、静かに、だが強く言った。
「このまま連れて帰って、もし――カレンの中に、俺たちの知らない何かが起きていたら。応急処置すら、間違えるかもしれない」
アイクの表情が、歪んだ。それでも、反論はしなかった。
「……分かるのか。それが」
「分かる方法が、一つだけ思いつく」
ヤマトは、カレンの傍らに膝をついた。
「……試したことは、ない。上手くいく保証もない」
「言え」
アイクの声は、短く、急いていた。
「俺の《記憶階梯》だけじゃ、届かない。完全に意識を失った人間の、しかも深く抑え込まれた記憶は、律の波長が乱れて、観測すらできないはずだ。……理屈の上では」
ヤマトは、アイクを見上げた。
「だが、お前の《至高の法典》で、この空間の律を無理やり固定できれば――理論上は、読み取れるかもしれない」
「理論上、か」
アイクの声に、皮肉めいた響きが混じった。だが、迷いはなかった。
「他に、方法があるのか」
「――ない」
「なら、やる」
「待て」
ヤマトは、一度、アイクを制した。
「傷つける可能性は、ゼロだとは言い切れない。それでも、やるのか」
アイクは、カレンの顔を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……知らないまま、連れて帰る方が、よほど怖い」
「――分かった」
ヤマトは、静かに頷いた。
「お前が、カレンを中心にした空間の律を、お前の法で固定してみてくれ。俺は、その中に残っている記憶の残滓を、読めるかどうか試す」
二人は、カレンを挟むように、向かい合って膝をついた。
「――アイク。傷つけるつもりはない。だが、絶対に安全だとも、言えない」
「分かってる」
アイクの瞳が、静かに、黄金の光を宿し始めた。だが、その輝きは、龍還との戦闘で見せたものとは、明らかに質が違っていた。荒々しい力ではなく、繊細に制御された、極めて小さな出力。
――《至高の法典》――
声には出さなかった。ただ、意志だけで、周囲の空間が、静かに書き換えられていく。
カレンを中心とした半径数メートル。そこだけ、世界の律が、アイクの法によって上書きされた。空気の密度が、微かに変わる。風もないのに、木の葉が一枚、音もなく落ちた。
(――固定された、のか)
半信半疑のまま、ヤマトは、それを肌で感じ取った。
この空間の中でだけ、時間の流れが、わずかに緩んでいる。乱れ拡散していたはずのカレンの記憶の律式残滓が、輪郭を持ち始めていた。
(理屈通りに、いくとは――)
驚きを飲み込みながら、ヤマトは、静かに目を閉じた。
――《記憶階梯》――
脳裏に、赤い数字が瞬く。だが、今読み取ろうとしているのは、確率でも、計算結果でもない。
誰かの、記憶そのものだった。
流れ込んでくる。
土壁の部屋。香木の匂い。誰とも目を合わせない、優しい手。五年分の、静かな孤独が、幾重にも重なっていく。自由はなかった。それでも、飢えることはなく、痛めつけられることもなかった。
――そして、つい最近。
里を抜け出した、暗い夜。裸足で駆ける、獣道。
背中に触れた、ある人の手の震え。
(――お金)
優しかった人たちの顔が、次々と浮かんでは、笑みの形を変えていく。忙しなく動く目。逸れていく視線。
「――そう、間違いない。……いくらになるかしら」
その一言が、何度も、何度も、繰り返される。
風呂に、二度と入らなかった。誰の前でも、着替えなかった。眠るときは、常に背中を壁につけていた。
(誰も、信じられない)
(誰も、わたしを見ない)
ヤマトの意識の奥で、その言葉だけが、静かに、鈍く、響き続けていた。
最後に見えたのは、木々の隙間から差し込む、細い月の光。それを見つめる、涸れきった瞳。
そこで、映像は途切れた。
ヤマトは、目を開けた。
自分の頬が、濡れていることに、少し遅れて気づいた。
「――ヤマト」
アイクの声が、掠れていた。彼も、同じものを見ていた。
「あいつ……」
言葉が、続かなかった。
拳を握るアイクの手から、血が滲んでいた。爪が、皮膚に食い込むほどの力だった。
ヤマトは、震える手で、カレンの頬にそっと触れた。
(――五年間、自由もなく、ずっと生きてきたのか)
(それでも、なんとか、日々を耐えていたはずだったのに――ここ最近、これほどまでに追い詰められていたのか)
(誰も、助けなかった。誰も、守らなかった)
(それでも――ここまで、生きてきた)
ヤマトの中で、何かが、静かに、だが確実に、形を変えていくのを感じた。
それが、優しさなのか、怒りなのか、あるいは、もっと別の、名前のつかない何かなのか。
ヤマト自身にも、まだ、分からなかった。
その時だった。
「――今、そう名乗ったな。《記憶階梯》とやらか」
低く、感情のない声が、背後から響いた。
「随分と、面倒そうな技を使う」
感情のない声だった。だが、その視線だけは、地面に横たわるカレンから、動かなかった。
「グラヴィス」
アイクが、低く唸るように、その名を呼んだ。
五年前、目の前でこの男に両親を奪われた記憶が、まだ、完全には消えていない。
グラヴィスは、その視線を、正面から受け止めた。表情は、変わらなかった。
「感傷に浸る時間は、与えてやりたいが」
グラヴィスは、静かに続けた。
「お前たちに、聞いておきたいことがある」
その目が、ヤマトへと向いた。
「その子供を、どうするつもりだ」
問いは、単純だった。だが、その単純さの奥に、避けられない何かが、既に横たわっていた。
ヤマトは、カレンの頬に触れたまま、まだ、答えを持っていなかった。




