36話「誰も、わたしを見ない」
石の匂いがする部屋で、カレンは目を覚ます。
毎朝、同じ匂い。香木と、湿った土壁と、遠くから届く祈りの声。五年間、これが世界の全てだった。
窓のない部屋。分厚い布の向こうに、朝がある。
カレンは自分の手を見た。
昨日、水を汲む途中で転んで、指の先を切った。血が、少し出た。痛かった。
だが、今朝には、傷はもう塞がっていた。線一本、残っていない。
(また、こう)
最近、こういうことが増えていた。転んでも、すぐに治る。走っても、疲れが残らない。夜、眠らなくても、平気なことさえある。
すごいことのはずなのに、カレンはそれを、誰にも言わなかった。
言えば、里の空気が変わる。それを、この五年で、カレンは学んでいた。
部屋の外で、足音がした。カレンは、慌てて布団を直し、傷のない指を隠すように、拳を握った。
「――神の子様」
戸が開き、若い巫女が入ってくる。名前は、カレンも知らない。誰も、カレンに名乗らない。
「今日も、お加減はいかがでしょうか」
「……大丈夫」
「それは、良かったこと」
巫女は微笑んだ。だが、その目は、カレンと合わなかった。いつも、少し横を見て話す。まるで、カレンの顔ではなく、カレンの「向こう側」にある何かを見ているように。
食事が運ばれてくる。丁寧に、綺麗に並べられた食事。運ぶ手は、いつも小さく震えている。
(怖がられてる)
優しくされればされるほど、それを強く感じた。
人として見られているのではない。何か別のものとして、扱われている。
変化は、二ヶ月ほど前から、はっきりしていた。
里の長老――カレンを最初に「神の子」と呼んだ、あの老女の様子が、変わった。
以前は、カレンの額に触れて、静かに笑うだけだった。
今は、その手が、カレンの背中に触れることが増えた。
布をめくり、龍の形の痣を、じっと見つめる。
「――綺麗に、脈打っておられる」
長老は、そう呟いた。声には、隠しきれない熱があった。
「もう、間もなくでございますね」
「……何が」
「気にすることはございません。神の子様は、ただ、そのままで良いのです」
答えは、いつもそれだけだった。
夜、寝室の外で、囀くような話し声を、カレンは何度も聞いていた。
「――あれから五年、もう十になられた」
「古い言い伝えの通りなら……そろそろ、片鱗が顕れる頃合いのはず」
「言い伝えなど、当てになるものか。四百年も前の、しかも人の口を渡ってきた話だ」
「それでも――傷の治りも、脈打つ痣も、確かに近づいている。それだけは、この目で見た」
「もしや、四百年前のような、あの瞬間が訪れるのではないか」
「滅多なことを口にするな。……何百年、龍痣が顕れても、大半は何も起きなかった。分かっているだろう」
「分かっている。だが――今度こそ、悲願が叶うかもしれない。それだけのことだ」
言葉の意味は、カレンには半分もわからなかった。
だが、その声に混じる興奮――それだけは、はっきりと伝わってきた。
(喜んでる。……わたしが、何か変わることを)
その夜以来、里の人々の視線が、少し変わった気がした。
畏れではなく、期待。カレンという「人」ではなく、カレンの「中にあるもの」への期待。
石の祭壇に灯る青い光が、以前より、明るく見える夜が増えた。
決定的だったのは、ある夕方だった。
水汲みの帰り道、祭壇のある社の前を通りかかった時、カレンは、長老と、里の男たちの話し声を聞いた。
「――もし、ご自身の意思で顕現なさらぬなら」
「里としては、後押しをすべきだ」
「後押し、とは」
「……伝承には、幾つかの言い伝えが残っている。真偽のほどは、我らにも分からぬ。だが、悲願を叶える機会を、指をくわえて見送るわけにもいかぬ」
カレンの足が、止まった。
水の入った桶が、指先から滑り落ちそうになる。
(わたしを――)
(何か、されるの)
優しさの底に、初めて、はっきりとした「怖いもの」を見た
守られているのではない。育てられているのでもない。
このまま、大切に、丁寧に、何かをされる。それが、この五年間の、本当の意味だったのかもしれない。
カレンは、その場から、音を立てずに離れた。
その夜、カレンは、初めて里を出ることを決意した。
窓の格子は、いつからか、簡単に外れることに気づいていた。誰にも言わなかった、小さな発見。
夜の森は、暗かった。だが、思っていたより、身体が動いた。
木の根に足を取られても、転ばない。枝を跳び越える時、自分でも驚くほど、遠くまで跳べた。
(なんで――)
考える余裕は、なかった。ただ、走った。里の灯りが、後ろで小さくなっていく。
追手の声は、聞こえなかった。誰も、追ってこなかった。
それが、少しだけ、怖かった。
(逃げられると、思われてる。……それとも、逃げても、意味がないと思われてる?)
谷を抜け、更に森を抜けると、街道に出た。
カレンは、初めて、里の外の世界を見た。
月明かりの下、遠くに小さな灯りが見える。人の住む場所だ。
カレンは、その灯りに向かって歩いた。他に、行く場所を知らなかった。
行き倒れる寸前で、最初にカレンを見つけたのは、街道沿いに一軒だけ建つ、掘っ立て小屋の老女だった。
「まあ……こんな時間に、こんな小さな子が」
老女は驚いた様子で、カレンを家の中へ招き入れた。温かいスープと、乾いた布。何もかもが、久しぶりだった。
(優しい人、なのかな)
少しだけ、安心した。何日ぶりかの、安心だった。
その夜、老女はカレンを風呂に入れてくれた。桶に湯を汲み、丁寧に、髪まで洗ってくれる。その手が、カレンの背中に触れた瞬間、止まった。
「……あら」
声の調子が、変わった。
カレンは、背中を見られたことに気づいて、慌てて身を捩った。だが、もう遅かった。
老女は、湯桶の陰から、じっとカレンの背中を見つめていた。その顔に浮かんだのは、驚きではなかった。
口の端が、微かに、上がっていた。
(――お金)
なぜか、その言葉が、頭に浮かんだ。理由はわからない。だが、その笑みの形が、何かを物語っていた。
「ちょっと、待っていてね。すぐ――」
老女が、そう言って、風呂場を出ていく。足音が、いつもより速い。
カレンは、動けなかった。
戸の隙間から、老女の声が漏れてきた。誰かに、話しかけている声だった。
「――そう、間違いない。この目で見たわ。……ええ、カレン・ゼラントスとか言う子で、間違いないはず。……いくらになるかしら」
その名前が、他人の口から出た瞬間、説明のつかない痛みが、胸の奥を刺した。
(なんで――こんなに、痛いんだろう)
考える余裕は、なかった。カレンは、濡れた身体のまま、裸足で外へ飛び出した。
夜の道を、ただ、走った。
(信じたのに)
(また――)
それから、似たようなことが、何度あったか、カレンは覚えていない。
子供を心配してくれた行商人の夫婦。教会の裏口で食事をくれた神父。親切そうな顔をした、村の女。
誰もが、最初は優しかった。だが、カレンの背中を見た瞬間――あるいは、見られたと気づいた瞬間――優しさの裏にある、別の顔が覗いた。
小さく笑う口元。忙しなく動く目。誰かに知らせようと、逸れていく視線。
カレンは、その変化を、何度も見た。見るたびに、少しずつ、見分けられるようになっていった。
(今の人は――駄目だ)
(あの人の、目の動き方は――)
人の優しさの裏にある「何か」を読み取ることだけが、いつのまにか、カレンの生き延びる術になっていた。
風呂には、二度と入らなかった。誰かの前で、着替えもしなかった。眠るときも、常に背中を壁につけ、膝を抱えるようにした。
それでも、追いつかれることはあった。逃げることは、いつも、突然だった。
振り返れば、あの人たちの顔には、決まって同じものが浮かんでいた。恐れではなく、期待。里で見た、あの目と同じだった。
(また、同じだ)
(結局、みんな――)
その繰り返しの中で、カレンは、少しずつ、何かを失っていった。
(誰も、信じられない)
膝から、力が抜けた。カレンは、その場に座り込んだ。
(なんで。なんで、わたしが)
理由が、わからなかった。何をしたわけでもない。何かを選んだわけでもない。ただ、この痣を持って生まれた。それだけで、優しさに見えたものが、いつも同じ場所に辿り着く。
(お母さんも、お父さんもいない。……他にも、誰か――)
その言葉が浮かんだ瞬間、鼻の奥が熱くなった。
顔も、名前も、声も、何一つ思い出せない。誰のことを考えているのか、カレン自身にもわからなかった。
ただ、温かい何かに触れていた「感触」だけが、消えずに残っている。誰かの体温を、覚えているような。
それ以上は、何もわからなかった。わからないことが、また、悲しかった。
カレンは、立ち上がった。もう、村にも、人の灯りにも、近づけない。誰かに見られれば、それで終わりだ。
街道を避け、また森へ入った。行く先は、決めていなかった。ただ、動かなければ、と思った。
それから、どれほど歩いたのか、カレンにはわからなかった。
一日か、二日か。時間の感覚が、少しずつ崩れていった。
水は、川があれば飲んだ。食べ物は、何もなかった。木の実を探したが、食べられるものかどうかも、わからなかった。
夜になると、寒さが体力を奪った。昼になると、日差しが体力を奪った。
里にいた頃は、傷がすぐに治った。この力があれば、大丈夫だと思っていた。
だが、飢えと疲労は、傷とは違う種類のものだった。治らない。積み重なっていく。
(誰か……)
その願いも、すぐに打ち消した。
(誰かに、頼ったら)
(また、同じことになる)
言葉にするのが、怖かった。だから、誰とも会わないように、人の気配がすれば、隠れた。
森は、静かだった。虫の声も、鳥の声も、次第に聞こえなくなっていった。それが、自分の耳の異常なのか、本当に森が静かなのか、もう判断できなかった。
(誰かが、もう、わたしのこと忘れてるのかな)
(それとも、わたしを見て――嫌になったかな)
考えれば考えるほど、悪い想像だけが浮かんだ。
(誰も来ない)
(誰も、来ない)
足が、もう、思うように動かなくなっていた。木の根に引っかかり、カレンは倒れた
立ち上がろうとしたが、力が入らなかった。
視界が、白く霞んでいく。
頭上を覆う、鬱蒼とした木々の隙間から、細い月の光が落ちていた。だが、それに心を動かされる余裕は、もう残っていなかった。
(誰も、来ない)
(誰も、わたしを見ない。……最初から、そうだった)
里も。この世界も。血の繋がった誰かも。
(――なんで、生まれてきたんだろう)
恨む相手さえ、はっきりとは分からなかった。ただ、この世界そのものが、憎かった。
その感情だけを最後に、カレンの意識は、完全に闇の中へ落ちていった。




