33話「証拠なき審判」
翌日の放課後、ヤマトが図書館へ向かうと、いつもの書庫の扉に、見慣れない札が下がっていた。
「――『改修工事のため、当面の間閲覧禁止』」
ヤマトはその札を、しばらく無言で見つめた。
昨日までは、何の異常もなかった区画だ。改修工事の予定など、一度も聞いたことがない。
(……早いな)
ヤマトは踵を返した。焦りは見せなかったが、内心では、ドランの動きの速さに小さな驚きを覚えていた。
その足で職員用の掲示板を確認すると、そこにも同じ告知が貼り出されていた。日付は、今朝付け。決裁者の欄には、ドランの署名がある。
(証拠を、封じにきたか)
だが、ヤマトの表情に焦りはなかった。
(想定内だ。……あの帳簿の内容は、既に写しを取ってある)
ヤマトは静かに、廊下を歩き出した。
その頃、教頭室では、ドランが窓の外を眺めながら、静かに満足の息を漏らしていた。
(帳簿を封じ、審査で身動きを封じる。……小僧、これでお前の調べは、これ以上進まん)
風紀委員会の顧問という肩書きは、飾りではない。ドランはこの数日、必要な手続きを一つ一つ、丁寧に、そして急速に整えてきた。証拠の隠滅ではない。あくまで「規則に則った、正当な対応」の体裁を保ったまま、ヤマトの動きを縫うようにして塞いでいく。
(あの小僧の頭の良さは認める。だが、頭が良いというのは、時に厄介だ。……自分の知性を過信して、権限そのものの重さを見誤る)
教頭という肩書きは、ドランにとって長らく屈辱の証でしかなかった。だが今、その肩書きが、ようやく牙を剥き始めていた。
「……せいぜい、悔しがるがいい」
ドランは書類の束を、静かに引き出しへ収めた。
その日の夕方、ヤマトは生徒会室へ呼び出された。
部屋に入ると、会長エルフリーデの表情が、いつになく硬かった。
「ヤマト。……悪い話がある」
「聞きます」
「貴方について、教頭から正式な申し立てがあったわ。……『図書館の機密区画への不正な立ち入り、および無断での資料持ち出しの疑いがある』」
ヤマトは眉一つ動かさなかった。
「持ち出しは、していません」
「分かってる。でも、教頭はそう主張している。……そして、厄介なことに、その審査を取り仕切る風紀委員会には」
エルフリーデは、苦い顔で続けた。
「教頭自身が、顧問として名を連ねている」
「――なるほど」
ヤマトは静かに頷いた。
「疑いをかけた張本人が、裁く側にも影響力を持つ。……分かりやすいやり方だ」
「補佐業務どころか、下手をすれば退学処分もあり得る話よ」
エルフリーデの声に、初めて焦りが滲んだ。
「私の一存で握り潰せる話じゃない。……ゼラントス、貴方、本当に何か持ち出したりしていないでしょうね」
「していません」
ヤマトは即答した。
「ただ、記録を読んで、記憶しただけです」
エルフリーデは、その言葉の意味を理解して、小さく息を呑んだ。
「……貴方、まさか」
「一言一句とは言いませんが、必要な部分は」
ヤマトの声に、迷いはなかった。
「証拠は、紙の上にある必要はありません。俺の頭の中にある」
「……それを、審査でどう使うつもりなの」
「まだ、使いません」
ヤマトは静かに言った。
「審査の場では、教頭の言う通り『証拠がない』ことを認めます。むしろ、進んで頭を下げるつもりです」
エルフリーデが、意外そうに眉を上げた。
「――貴方らしくないわね」
「ここで争えば、教頭は俺を潰すことに全力を注ぎます。だが、俺が大人しく退けば、教頭は『勝った』と思って、油断する」
ヤマトの瞳に、静かな光が宿った。
「その隙に、記録の写しを、俺以外の誰かの手に渡す。……教頭が消そうとしているものが、既に彼の手の届かない場所にある、ということにする」
「誰の手に、渡すつもり?」
「まだ、決めていません」
ヤマトは正直に答えた。
「信頼できる相手を、慎重に選ぶ必要があります。……この学園の中で、教頭の目が届かない場所は、そう多くない」
エルフリーデはしばらくヤマトを見つめていたが、やがて、諦めたように小さく笑った。
「……貴方、本当に食えない子ね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてないわよ」
エルフリーデは机の上の書類を、静かに整えた。
「審査は、三日後。……ゼラントス、覚悟しておきなさい。あの教頭は、貴方を潰すためなら、規則の解釈をいくらでも捻じ曲げてくるはずよ」
「承知しています」
ヤマトは頭を下げ、生徒会室を後にした。
廊下を歩きながら、ヤマトの脳裏に、ふと兄の顔が浮かんだ。
(……アイクなら、こんな回りくどいこと、しないんだろうな)
剣を抜き、正面から叩き潰す。アイクの解決方法は、いつだって単純明快だった。
それに比べて、自分がやっていることは、紙と記録と手続きの海を、じりじりと泳ぐような戦いだ。
(遅い。……だが、これが俺のやり方だ)
窓の外、夕暮れの帝都に、封律塔の影が長く伸びていた。
同じ頃。
帝都の外れ、司法局が管理する小さな討伐拠点で、アイクは報告書に目を通していた。
文字の羅列は退屈だった。龍還と目される組織の断片的な目撃情報、学園周辺での不審な動き、まだ裏の取れていない噂。
どれも、必要な情報だと分かってはいる。だが、アイクの指は、苛立たしげに机を叩いていた。
「……なあ、フィン」
傍らに立つ補佐官――フィンという名の、アイクより幾つか年上の司法官に、アイクは声をかけた。この補佐官という立場は、個人にではなく序列一位という椅子に付随するものだ。フィン自身、少し前まではグラヴィスに仕えていた。序列が入れ替わったその日から、彼の主は変わった。
「セリフィア領周辺の、カレンの手がかりについての報告は、どうなっている」
「それについては……」
フィンは、言いにくそうに目を伏せた。彼はアイクに対して、他の職員よりも幾分、遠慮のない物言いをする。それが、アイクにとっては数少ない気の休まる相手だった。
「ゼラントス様は、捜索チームから外れておられます。……グラヴィス様と、ベアトリクス様が中心となって決めたことです」
「知ってるよ、それは」
アイクは短く息を吐いた。声には、努めて抑えた平静さが滲んでいた。
「妹の捜索に、身内を関わらせるべきじゃない。私情が判断を狂わせる。……あの二人の言い分は、間違ってない」
あの日、断律球の中でアイクの戦いを直接見ていたのは、あの二人だった。だからこそ、その判断には反論の隙がない。分かっていても、腹の底に溜まるものは消えなかった。
「では――」
「だが、それとこれとは別だ」
アイクは報告書を机に叩きつけるように置いた。
「俺は今、龍還とかいう連中の対応に駆り出されて、カレンの件には指一本触れさせてもらえない。……妹を捜すために序列一位まで登り詰めたってのに、肝心なところで蚊帳の外だ」
「捜索は、別の部隊が精鋭を集めて当たっています。ゼラントス様が思っている以上に――」
「分かってる」
アイクは、フィンの言葉を遮った。
「他の連中が無能だなんて、思っちゃいない。ただ……」
フィンは、それ以上言葉を続けなかった。この序列一位が、時折抱えるこの種の苛立ちに、どう向き合えばいいのか、彼自身もまだ答えを持っていなかった。
(……グラヴィス様なら、こういう時、何を仰ったのだろう)
その考えが浮かんで、フィンは自分でも意外に思った。もう仕えていない主のことを、こんな場面で思い出すとは。
ただ、黙って机の上の資料を整えることで、その場に留まった。
脳裏に、五歳の頃のカレンの顔が浮かぶ。蝋燭の火を見つめて笑っていた、あの夜の記憶。
(もし、あいつが今も、あの日みたいに――誰にも助けを求められずにいるなら)
「俺が、この目で見つけてやりたいだけだ。それの何が悪い」
アイクは拳を握りしめた。その拳の内側、爪が皮膚に食い込むほどの力を込めて、ようやく声の震えを抑えていた。
(……手がかりが本当に見つかった時、俺は大人しく報告書を待てるのか)
(――待てるわけがない)
(承認だろうと、任務だろうと、他の誰かの手柄だろうと構わない。カレンの居場所が分かった瞬間、俺は動く。誰にも止めさせない)
窓の外、遠く北の空を、アイクはしばらく見つめていた。
その視線の先に何があるのか、アイク自身にも、まだ分からなかった。




