32話「思惑」
生徒会の補佐業務への就任をドランに阻まれてから、三日が経った。
ヤマトは表向き、大人しく引き下がったように見えた。授業を受け、レオンハルトやミヅキと共に過ごし、ドランに反抗する素振りは一切見せなかった。
だが、放課後になると、ヤマトの姿は決まって図書館の最奥、書庫の奥の奥にあった。
司法生の身分証がなければ立ち入れない区画。埃を被った書架の間で、ヤマトは古い帳簿を一冊、また一冊と繰っていた。
「――やっぱりだ」
ヤマトは古い帳簿の束を前に、静かに呟いた。
養成院の施設利用申請書。実習記録簿。教員の勤務記録。どれも表向きは退屈な事務書類だが、ヤマトの目には、そこに書かれた記録の羅列が、別の意味を持って浮かび上がっていた。
(北校舎、第十三雑居房。……この施設が『実習会場』として正式に使われたのは、記録上、これで最後だ)
ヤマトが見つけたのは、五年以上前の日付だった。当時の学園長と教員数名が、素行不良の生徒数名を対象に「矯正実習」を行った、という短い記録。それ以降、あの施設の使用申請は、ただの一件も出ていない。
(あそこには、高難易度の律式装置が備え付けられている。本来なら、上級生の実技演習にも使えるはずの設備だ。……なのに、五年、誰も使っていないことになっている)
だが、実際にあの場所へ足を踏み入れた時のことを、ヤマトは覚えている。埃も、崩れた石畳も、外観こそ荒れていたが、通路の奥は――やけに磨り減っていた。
(誰も使っていないはずの場所を、誰かが定期的に、しかも長期間にわたって歩き続けている)
ヤマトはさらにページをめくった。
(教頭の外出記録……月に数回、深夜。行き先は「私用」としか記載がない)
一つ一つは、些細な違和感でしかない。だが、それが積み重なると、輪郭のようなものが見えてくる。
さらに数枚めくったところで、ヤマトの手が止まった。
(……これは)
三年前、施設の点検記録の欄に、一度だけ、走り書きのような一文があった。「北区画・立入制限、延長」。教頭権限による決裁という体裁が取られている。
だが、ヤマトの記憶にある限り、ドランが教頭に就任したのは、もっと最近――《断罪の十環》の座を追われた後のはずだ。
(三年前、まだドランは教頭ですらなかった。……なのに、教頭権限で決裁された記録が残っている)
時系列が、合わない。
(誰かが、まだ存在しない権限を、後から捏造して記録に埋め込んだ。……あるいは、当時の教頭の名を、そのまま流用したか)
ヤマトは背筋に、冷たいものを感じた。
(龍還は、ドランが今の立場に落ちるずっと前から、この学園に狙いを定めていたのかもしれない)
ヤマトは帳簿を静かに閉じた。
「――これは、思っていたより深い」
その夜、第十三雑居房。
ヤマトは調べた内容を、レオンハルトとミヅキに広げて見せた。
「……つまり、あの地下拠点は、少なくとも三年以上前から存在していた、ということか」
レオンハルトが、資料を睨みながら低く言った。
「ああ。しかも、それを隠すために、誰かが公式の記録そのものに手を加えている」
「ドラン一人の仕業には見えませんね」
ミヅキが、静かに紙面を指でなぞった。
「三年前は、まだ教頭ですらなかった方が、教頭権限で決裁している……。時期が合わないなら、なおさらです」
「俺も、そう思う」
ヤマトは頷いた。
「ドランは、龍還と繋がっているだけじゃない。……この学園そのものを、隠れ蓑として提供している。だが、その隠れ蓑を最初に見つけて目をつけたのは、ドランじゃない。龍還の方が先だ」
「組織の側が、ドランを利用している、と」
「今のところは、そう見える。……ただ」
ヤマトは、少し考えるように間を置いた。
「利用されているだけの側が、大人しく従うとは思えない。あの人は、あの人なりに、何かを計算しているはずだ」
ヤマトは資料を丁寧に重ねた。
「一つだけ確かなのは、俺たちが踏み込んだあの場所は、思っていたより大きな根を持っている、ということだ」
同じ夜。
学園の敷地の外、人気のない廃教会の地下。
ドランは、苛立ちを隠さずに、影の中に立つ人物へ詰め寄っていた。
「――どういうことだ。あの雑居房の地下に、貴様らの拠点があるとは聞いていないぞ」
「聞いていない、というのは正確ではないな」
影の中から返る声は、静かで、どこまでも落ち着いていた。
「お前は、聞かなかった。……我々がどこで何をしているか、細部まで知りたがるのは、お前らしくない態度だ」
「危険だと言っているんだ! あの雑居房は、私が管轄する学園の敷地内だぞ。万が一、生徒に見つかれば――」
「見つかった」
その一言に、ドランは言葉を失った。
「先日、貴様が送り込んだ三人組が、我々の拠点に踏み込んだ。幸い、大事には至らなかったが……ドラン、お前の配下の管理が甘い証拠だ」
ドランの拳が、震えた。
「……なぜ、あんな学校施設に、拠点を作った」
「理由は単純だ」
影の声には、微塵の動揺もなかった。
「学園ほど、疑われにくい場所はない。生徒と教員が行き交い、日々の記録が煩雑になり、誰も細部まで目を通さない。そして――」
一拍、間が置かれた。
「お前が管理している場所であること自体が、都合が良かった。お前が『問題ない』と言えば、誰もそれ以上調べない。……そして、学園長が長期の出張で不在の今こそ、最も動きやすい時期だ。この好機を逃す理由がどこにある?」
「……」
「不満か?」
「不満なのは、俺に知らせずに事を進めたことだ。俺は、貴様らと対等な立場で組んだつもりでいる」
影が、僅かに笑ったような気配がした。
「対等、か。……いいだろう、ドラン。今後は、事前に伝えるようにしよう。それで、気は済むか」
その言い方には、譲歩というより、あやすような響きがあった。ドランはそれに気づいていたが、何も言い返さなかった。
「……あの三人組は、どうする」
ドランが問うと、影は少し考えるように沈黙した。
「今はまだ、放っておけ。……ただし、ドラン。次に踏み込んでくるようなことがあれば、お前の管理不行き届きということになる。分かっているな」
「分かっている」
ドランは低く答えた。その声には、隠しきれない屈辱が滲んでいた。
ドランは踵を返しかけて、ふと足を止めた。
「……一つ、聞いておきたい。学園長の出張先は、貴様らが噛んでいるのか」
影の気配が、一瞬だけ、変わった気がした。
「……なぜ、そう思う」
「都合が良すぎる。学園長がちょうどこの時期に、誰にも行き先を告げずに姿を消す。それが、貴様らの動きと無関係だとは、俺には思えない」
「……お前にしては、鋭いな」
影は静かに答えたが、それ以上のことは何も語らなかった。
「答えないのか」
「今は、な。……お前が知る必要のあることは、必要な時に伝える。それだけだ」
その突き放すような物言いに、ドランは奥歯を噛んだ。
影が闇に溶けて消えた後も、ドランはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……小僧。お前のせいで、俺がどれだけ肩身の狭い思いをしていると思っている」
呟きは、誰にも届くことなく、廃教会の暗闇に消えていった。
翌朝、ドランは学園長室で、机の上に積まれた書類の一枚に目を留めた。
図書館の閲覧記録。過去一週間、深夜まで最奥の書庫に籠っていた生徒の名前が、そこにあった。
「――ヤマト・ゼラントス」
ドランの口角が、静かに歪んだ。
「……何を、嗅ぎ回っている」
ドランは記録の紙を握りしめた。ヤマトが調べていた棚の分類番号を見て、その手が止まる。
施設利用申請。実習記録簿。……立入制限の記録。
「……まさか」
その分類の並びに、ドランは覚えがあった。だが、記憶を辿っても、自分がそこに手を加えた覚えはない。
(俺じゃない。……ということは、あの場所は、俺が組む前から、既に奴らのものだったということか)
背筋に、冷たいものが走った。自分は、龍還にとって、最初から「後から加わった駒」に過ぎなかったのかもしれない。
「あの小僧、どこまで辿り着いている」
ドランの声に、苛立ちが色濃く滲んだ。
だが、その苛立ちは、すぐに別の熱へとすり替わっていった。
(……いい。それならそれでいい)
ドランは静かに、書類を机に戻した。
(駒だろうと、道具だろうと構わん。奴らの力があれば、俺はあの小僧を、そしてあの化け物を、地獄に叩き落とせる。……使われているのは、俺だけじゃない。俺も、奴らの力を使ってやっているだけだ)
誇りあるジャッジランカーの座から、この腐った学園に叩き落とされた日から、ドランの中で燻り続けている炎があった。それは焦りでも、怯えでもない。
ただ、奪われたものを取り返すための、静かで執拗な渇望だった。
その笑みは、もはや慇懃なものではなかった。ただ、暗く、静かに歪んでいた。




