3話 「賞金令発令」
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律が、世界を流れている。
目には見えない。触れることもできない。だが確かにそこにある——川の底を流れる暗流のように、あらゆる存在の根底を貫いている力の奔流。
人がスキルを振るう。律式を行使する。世界に干渉する。その全ての行為は、律の流れの上に成り立っている。律とは、世界を支える見えない土台だ。
ヴァルメリア帝国がこの大陸に君臨して千年。その支配を可能にしたのは、軍の力だけではない。律そのものを読み取り、記録し、管理する仕組みを作り上げたことだ。誰が、どんな力を使い、何をしたか——それを「律文」として刻み込み、善悪の基準とすることで、帝国は秩序を維持してきた。
律文に名が刻まれた者は、帝国の民として認められる。守られる。助けられる。
律文から消えた者は——帝国にとって、最初から「いない」のと同じだ。
その夜。
帝都ヴァルメリアの律文管理局では、一人の書記官が羊皮紙に筆を走らせていた。震える手で。命じられた通りに。
ゼラントス家の、名前を、全て消していた。
皇宮の最奥、裁極の間。
白銀の柱が左右に並び、天井には巨大な龍の紋章が刻まれている。窓はない。壁を照らすのは青白い律灯だけで、それが部屋全体に冷たい光と冷たい影を等分に落としていた。
玉座に座る男が、静かに口を開いた。
「……戻ったか、グラヴィス」
ドラヴェル・ヴァルメリア。
帝国を統べる皇帝。端正な顔立ち、長身、冷たい金の瞳。その声には感情がない。
命令でも問いかけでもなく、ただ確認だけがあった。
黒いフードを被ったままの男が、広間の中央で足を止めた。頭を下げない。膝もつかない。
グラヴィス・レーン。《断罪の十環》序列一位。
皇帝に対してさえ、彼は「いつも通り」だった。
「ゼラントス家は潰した。龍痣の発現、確認済み」
「ただし、末妹は逃げた。現在、所在は不明」
広間に沈黙が落ちた。律灯が揺れる。影が伸びる。
皇帝はしばらく黙っていた。それからゆっくりと、金の瞳を細めた。
「……お前ともあろう者が、逃がしたのか」
「少し違う。俺が意図して逃がしたのは、双子の兄貴の方だ」
皇帝の眉が、わずかに動く。
「双子の兄——アイク・ゼラントス。スキル発現直後の十歳にしては、桁違いの器だった」
グラヴィスは淡々と続けた。感情はない。だが言葉の奥に、珍しいものを見た者だけが持つ、微かな熱が混じっていた。
「圧倒的な星幽容量。身体能力、剣の動き——父親より強くなるのは時間の問題だ。そしてなにより」
一拍、置く。
「龍の目が、発現していた」
今度こそ、皇帝の表情が動いた。
「……龍眼か。過去の記録にしか残っていない、あの」
「そうだ。十歳の、スキルを理解してもいない子供が、俺のスキルを一時封じた。殺すには惜しい。《断罪の十環》に届く器だ。今潰すより、泳がせて育てた方が——帝国の未来には得だと判断した」
皇帝はしばらく黙った。裁極の間に、静寂が満ちた。
やがて、低く笑った。
「お前が"惜しい"と思う相手か。それは確かに珍しい」
「俺は秩序の剣だ」とグラヴィスは言った。「情は持たない。断罪の基準はただ一つ——律を壊すか否か、それだけだ」
「だが律は枠だ。枠の中だけで動く者は、枠を超える者には勝てない。アイクは枠の外に出る可能性がある。そういう人間は、見ておく価値がある」
「……律を守るべき者が、律を壊す因子の妹を守ろうとしている」
皇帝が静かに呟いた。「世界は、どう動くか」
「それを見極めるのが俺の役目だろ」グラヴィスは肩をすくめた。「アイクは家族を守るために剣を振った。その"理由"が奴を強くする。それが断罪に値するかどうか——俺が決める」
皇帝は笑った。冷たい金の瞳が、初めて愉悦の色を宿す。
「相変わらずだな、グラヴィス。直感を信じる」
「結果が正しければ、それでいい」
グラヴィスは無言で踵を返した。広間を横切り、扉へ向かう。
その背中に、皇帝の声が追った。
「しかし——危険分子を放っておくわけにもいくまい」
グラヴィスは足を止めなかった。止める理由がなかった。
気配もなく、影が現れた。
帝国宰相ヴェルク・アストリア。細身の長身に、白を基調とした礼装。年齢は不詳。その静けさは、存在を消すことに慣れきった者の静けさだった。
「宰相。ゼラントス一族の律文をすべて抹消しろ。末妹カレン・ゼラントスを、公式な断罪対象として刻み込め」
「……グラヴィス様に直接命じればよろしいのでは」
「あいつは事務作業を嫌がる」
皇帝はそれだけ言って、玉座に深く腰を落とした。
「世界の命運がかかっているかもしれん。頼むぞ、ヴェルク」
宰相は静かに一礼し、音もなく消えた。
その日の午後。
帝国広報局より、一枚の律文告示が発令された。
帝都の掲示板。大通りの壁。国境の検問所。港の柱。あらゆる場所に、同じ文字が貼り出された。
《龍痣保持者・カレン・ゼラントスに対する賞金令》
《所在情報に最大金貨一千枚》
《生死問わず、即時断罪対象》
《帝国司法局シアリーにて処理を担当》
末尾には、帝国宰相ヴェルク・アストリアの署名が刻まれていた。
その文字を読んだ者たちは、思い思いの反応を示した。
賞金稼ぎは目を輝かせた。商人は素早く計算した。貴族は扇で口元を隠した。兵士は無表情で敬礼した。
誰も、その対象が五歳の少女だとは知らなかった。
あるいは——知っていても、関係なかった。
帝国が「断罪対象」と刻んだなら、それは罪人だ。律文がそう告げるなら、それが世界の答えだ。
それがこの国の、千年の秩序だった。
グラヴィスはその告示を、城壁の外で見た。
誰かが貼ったばかりの、まだ糊の乾いていない羊皮紙。
彼はそれを一瞥し、無言で目を通した。眉ひとつ動かさない。感想も出てこない。
ただ一言だけ、呟いた。
「……まぁ。止める理由もない」
肯定ではなかった。だが否定でもなかった。
彼はフードを直し、静かに歩き出した。
世界の律は今日も流れている。断罪の剣は抜かれた。賞金は大陸全土に放たれた。
だがグラヴィスの目の中には、炎の中で金色に輝いた、あの十歳の瞳が残っていた。
(あの目は、律の外にある)
それが何を意味するのか。律を壊すか否か、それだけだ。
答えを出すのは、まだ早い。
彼は歩き続けた。答えを待つように。あるいは、答えが来るのを楽しみにしているように。
夜が帝都に落ちていく。
その闇の底で、世界は静かに、次の一手を待っていた。
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