11話 「東方への羅針盤」
帝都に戻ってから、アイクはほとんど話さなかった。
宿の部屋の隅に剣を立てかけ、窓の外を見ていた。
帝都の喧騒が遠く聞こえる。人の声。馬の蹄の音。律式の灯りが灯り始める夕暮れ。
ヤマトはその背中を見ながら、何も言えなかった。
セリフィアの森の入口。
カレンの足跡が消えた場所。
あの地面の傷を、二人とも、まだ見ているのだと思った。
「ヤマト」
アイクが、窓の外を見たまま言った。
「カレンは——今、怖い思いをしているのか」
ヤマトは少し間を置いた。
「……わからない。でも、生きている。それは確かだ」
「生きていることと、怖くないことは——別だろう」
返す言葉がなかった。
アイクはそれ以上何も言わず、また黙った。
ヤマトは机に向かった。
古代文献の複写。セリフィアで採取した律式残滓のデータ。老顧問が秘密裏に送ってきた石版の拓本。
それらを広げながら、頭の中で計算を走らせた。
(カレンを助けるために、今何が足りないか)
答えは、すぐに出た。
全てが、足りない。
夜が深くなった頃、ヤマトはアイクを呼んだ。
「聞いてくれ。整理できた」
アイクが振り返る。
「まず——カレンの力について」
ヤマトは石版の拓本を広げた。
帝国の教科書には載っていない記述。老顧問が「禁忌指定」と囁いた古代文献の一節。
「カレンが持つ龍痣は、第三階層——深律へのアクセス権だ。俺たちが話した通りだ。だが問題は、その力の発動条件だ」
「十歳以降に発動するとされている。カレンは今、五歳だ」
「……つまり、まだ発動していない」
「発動していない。だが——セリフィアの連中はそれを知っている。彼らはカレンを『神の子』として囲っているが、目的は崇拝だけじゃないはずだ。カレンが十歳になったとき、その力を——利用しようとしている」
アイクの目が、静かに変わった。
「俺たちには五年ある」
「五年」とアイクは繰り返した。「カレンが十歳になるまで」
「その五年で、俺たちが今の力のままでは——あの森に入っても、カレンを連れ出せない。セリフィアの集落がどれほどの戦力を持つか、龍痣の力に対してどう対抗するか、何も分かっていない」
アイクは黙っていた。
「わかってる」と、低い声で言った。「だから、体制を立て直すと言ったんだろう」
「ああ。だが——俺が言いたいのは、そういうことじゃない」
ヤマトは顔を上げた。
「力だけじゃ足りない。律の知識が必要だ。カレンの力が第三階層由来なら、俺たちもその階層を理解しなければ、対抗できない」
「一つ、気になる記述があった」
ヤマトは別の紙を広げた。封律塔に関する記述。
帝都の中心に建つ白銀の塔。龍の爪痕を封じるために築かれた、帝国の最古の建造物。
「この塔の封印作業は、三つの勢力の祖先によって成し遂げられた。皇帝の祖先。セリフィアの祖先。そして——ヒナカミの祖先」
「ヒナカミ」
「東方の孤島だ。律が不安定な土地として記録されている。だが、不安定なのには理由がある」
ヤマトは指で地図をなぞった。
「ヒナカミは、封律塔の律の観測圏の端に位置している。龍の力が封印される以前の——律の根源に最も近い場所だ。そこに伝わる武術が律に依存しないのは、律が不安定な環境で戦う技術を継承しているからだ」
「つまり」とアイクが言った。「律が使えない場所での、本物の戦い方を知っている」
「そうだ。カレンの力が発動したとき、周囲の律が変異する可能性がある。スキルに頼った戦い方は、その瞬間に使えなくなるかもしれない」
沈黙。
アイクは地図のヒナカミを見つめた。
帝都から遥か東。大陸の果ての、小さな島。
「カレンから——離れるのか」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
ヤマトは答えなかった。
「一度離れて、力をつけて、それから助けに行く——そういうことか」
「……ああ」
「カレンは、待ってくれるのか」
「五年ある」とヤマトは言った。
「カレンが十歳になるまで。セリフィアの連中は、その力が発動するまでカレンを手放さない。逆に言えば——発動するまでは、生かしておく」
「俺たちが今突入しても、助け出せる保証はない。でも五年で力をつければ——確実に助けられる」
アイクはしばらく黙っていた。
それから、一つだけ訊いた。
「カレンは、今も怖い思いをしているかもしれない。それでも——待てと言うのか」
ヤマトの胸が、痛んだ。
「……俺も、嫌だ」と、ヤマトは静かに言った。
「待たせることも、離れることも。でも——」
言葉が詰まった。
計算はできる。合理的な答えは出ている。
でも今この瞬間、ヤマトは計算ではなく、ただ弟として話していた。
「お前が守ると誓っただろう。俺も、守ると決めた。なら——確実に助けられる力で行かなければ、その誓いは果たせない」
長い沈黙。
アイクは目を閉じた。
それから——息を吐いた。
「……わかった」
たった三文字だった。だがその三文字の重さを、ヤマトは知っていた。
「絶対に、戻ってくる」とアイクは言った。窓の外を見ながら。
「カレン、待ってろよ」
その言葉は誰にも届かない。届くはずがない。
でも——言わずにはいられなかった。
翌朝、二人は帝都を発った。
ヤマトは地図を持ち、アイクは剣を背負った。荷物は少ない。
目的地は、大陸の東の果て。
帝都の門をくぐるとき、アイクは一度だけ振り返った。
帝都の中心に立つ封律塔が、朝の光を反射して白く輝いていた。
その頂の《断律球》が、静かに浮かんでいる。
この塔が封じているものと、カレンが持つ力は——同じ根を持つ。
アイクはそれを見ながら、何かを確認するように頷いた。
「行くぞ」
「ああ」
二人は東へ向かって歩き出した。
カレンのいる森は、背後に遠ざかっていく。
その距離が広がるたびに、胸が締め付けられる。
だがヤマトは前を向いた。計算ではなく——誓いとして。
必ず戻る。必ず助ける。
その答えを持って、戻ってくる。




