触れていない温度②
店を出る頃には、雨が少し強くなっていた。
西條は傘を開きながら、ふと振り返る。
ナナハンの窓際。
さっきの女性は、まだ同じ席に座っていた。
動いていない。
ただ、店内を流れる声を聞いている。
「行くぞ」
東の声で我に返る。
「ああ」
西條は歩き出す。
雨音が、一定のリズムで傘を叩いている。
「気になるのか」
東が前を向いたまま言う。
「何が」
「あの女性」
西條は少しだけ考える。
「……分かんねえ」
本音だった。
知り合いではない。
話したこともない。
それなのに、妙に引っかかる。
「どっかで見た気がするんだよな」
「気のせいだ」
「だろうな」
そう返しながらも、西條はもう一度だけ店を振り返った。
ガラス越し。
店内の光。
その中で、女性は静かに座っている。
そして。
また、あの声が流れる。
『ナナハン新作バーガー、本日より発売です』
女性の手が、わずかに止まる。
それだけだった。
---
翌日。
署内には、いつもの雑音が満ちていた。
キーボードの音。
電話。
人の声。
西條は椅子に座ったまま、ぼんやりと天井を見ている。
「寝てないのか」
東が資料を置きながら言う。
「まあな」
「顔に出ている」
「便利だな、お前」
西條は軽く笑う。
東は返さない。
机の上には、新しくまとめられた関係者リスト。
制作会社。
音響。
広告。
スポンサー。
ページをめくる。
「……ナナハン?」
西條の手が止まる。
東が視線を向ける。
「スポンサー一覧だ」
「黒崎恒一、ナナハンのCMやってたのか」
「長期契約らしい」
西條は資料を読み進める。
十年以上。
音声のみ。
顔出しなし。
「徹底してんな」
「何がだ」
「顔」
西條は資料を軽く叩く。
「ここまで出さない人、珍しいだろ」
「声優だ」
「いや、最近はイベントとか普通に出るじゃん」
東は興味なさそうにコーヒーを飲む。
西條はページをめくる。
過去出演作品。
有名タイトルが並ぶ。
「すげえな……」
思わず漏れる。
「ほぼ主役じゃん」
「人気はあるらしいな」
「あるらしいってレベルじゃねえよ」
西條は苦笑する。
「この人、多分“声だけで売れた人”だぞ」
「意味が分からん」
「つまりカリスマってこと」
東は反応しない。
西條は資料を閉じる。
その時。
机の上のスマホが震えた。
着信。
制作会社の担当者。
西條は通話ボタンを押す。
「はい、西條です」
『あ、どうも。追加資料の件なんですが』
男の声。
普通だ。
聞き慣れた会話。
そのはずなのに。
西條の動きが、一瞬だけ止まる。
「……西條さん?」
「ああ、すみません」
我に返る。
「続けてください」
通話はそのまま進む。
何もおかしくない。
普通のやり取り。
問題ない。
いつも通り。
その言葉が、頭の奥に引っかかる。
通話が終わる。
西條はスマホを机に置いたまま動かない。
「どうした」
東が聞く。
「いや……」
西條は眉を寄せる。
「似てた」
「何がだ」
「声」
東は黙る。
「誰に」
西條は少しだけ考える。
だが、うまく言葉にならない。
「……分かんねえ」
本当に分からない。
ただ。
どこかで聞いた気がした。
東は資料を閉じる。
「次の関係者に行く」
「おう」
西條は立ち上がる。
だが、頭の奥には残っている。
同じ声。
同じトーン。
同じ言葉。
変わらない。
変わらなすぎる。
署を出る。
曇った空。
湿った空気。
西條はポケットに手を入れたまま歩く。
「……なあ」
「何だ」
東は前を向いたまま答える。
「もしさ」
西條はゆっくり言う。
「“本人っぽい声”があったとして」
「話が見えない」
「例えばだよ」
西條は続ける。
「本人じゃなくても、“本人に聞こえる声”があったら」
東は少しだけ考える。
「モノマネか」
「いや」
西條は首を振る。
「もっと自然なやつ」
東は数秒黙る。
そして。
「技術的には可能だろうな」
静かに言う。
西條は足を止める。
「……マジ?」
「今は珍しくない」
東は振り返らない。
「音声合成技術くらい知っている」
西條は黙る。
風が吹く。
湿った空気が通り過ぎる。
その瞬間。
頭の奥で、何かが繋がりかける。
だが。
まだ形にならない。
掴めない。
ただ。
違和感だけが、残り続けていた。




