触れていない温度①
「飯」
東が言った。
西條は顔を上げる。
「急だな」
「三十分休憩がある」
「珍しく人間っぽいこと言うじゃん」
東は無視して歩き出す。
西條は苦笑しながら後を追った。
外は、少しだけ雨が降っていた。
細かい雨粒が、街灯の光をぼやけさせている。
「近場でいいか」
「任せる」
「お前、食に興味なさすぎだろ」
「効率の問題だ」
「人生つまんなそう」
返事はない。
西條は肩をすくめる。
歩いて数分。
見慣れた看板が見える。
赤と黄色のロゴ。
「ナナハンか」
「問題あるか」
「いや」
西條は少しだけ笑う。
「なんか久しぶりだなと思って」
自動ドアが開く。
油の匂いと、暖かい空気が流れてくる。
店内は混んでいた。
学生。
会社員。
親子連れ。
誰もが、いつも通りの時間を過ごしている。
西條は無意識に、店の奥を見る。
窓際。
少し奥まった席。
そこに、女性が座っていた。
年配。
上品な服装。
静かな姿勢。
見覚えがある。
「……あ」
思わず声が漏れる。
「何だ」
東が振り返る。
「いや」
西條は視線を逸らす。
「なんでもない」
本当に、なんでもない。
ただ。
見たことがある気がした。
注文を済ませる。
トレーを持ち、席へ向かう。
東は迷わず空いている席に座る。
西條は少しだけ迷ってから、その向かいに腰を下ろした。
「どうした」
「いや」
西條はポテトを一本つまむ。
「ここ、前にも来たなって」
「店だろ」
「まあな」
東はハンバーガーの包みを開ける。
動きに無駄がない。
西條はぼんやりと店内を眺める。
変わっていない。
音楽。
話し声。
機械音。
全部、前と同じだ。
その時。
『ナナハン新作バーガー、本日より発売です』
声が流れる。
西條の手が止まる。
低く、落ち着いた声。
変わらない声。
店内の誰も反応しない。
ただ流れて、消えていく。
「……黒崎恒一」
西條が小さく呟く。
「知ってるのか」
東が聞く。
「まあ、有名だしな」
西條は視線を上げる。
スピーカー。
そこから声が落ちてくる。
「イケボの元祖、とか言われてる人」
「声優か」
「そう」
西條は少しだけ笑う。
「顔ほとんど出さないのに、めちゃくちゃ人気ある」
東は興味なさそうに食べ続ける。
「声だけで成立してる人、って感じ」
その言葉を言った瞬間。
西條の中で、何かが引っかかった。
ほんのわずかに。
説明できない程度に。
「……どうした」
東が聞く。
「いや」
西條は首を振る。
「なんでもない」
その時。
カタン、と小さな音がした。
視線を向ける。
窓際の女性だった。
グラスが少し揺れている。
「あ……」
西條は立ち上がりかける。
「大丈夫ですか?」
女性は顔を上げる。
穏やかな笑み。
「ええ。少し手が滑っただけ」
その声は静かだった。
落ち着いている。
だが。
どこか疲れている。
西條は、軽く頭を下げる。
「なら良かったです」
女性は微笑む。
「ありがとう」
それだけだった。
西條は席に戻る。
東が言う。
「知り合いか」
「いや」
西條はポテトを口に入れる。
「でも、なんか見たことある気がする」
「気のせいだ」
「かもな」
店内には、また声が流れる。
同じ声。
同じ言い方。
同じ間。
変わらない。
西條は、ふと窓際を見る。
女性は静かに、その声を聞いていた。
食事の手は止まっている。
ただ、聞いている。
その姿が。
なぜか、妙に印象に残った。
「……なあ」
西條が言う。
「何だ」
「声ってさ」
東は視線を向ける。
西條は少し考えてから続ける。
「残るんだな」
東は数秒黙る。
そして。
「記録媒体にはな」
それだけを言う。
西條は小さく笑う。
「お前らしいな」
雨はまだ降っている。
窓の外で、街の光が滲んでいる。
店内では、また同じ声が流れる。
誰も気にしない。
誰も疑わない。
ただ。
その声だけが、確かにそこにあった。




