第4話:言葉にならないもの
森は、静かだった。
音はある。風も吹いている。
それでも——遠い。
葉が揺れているのに、音だけが遅れて届く。
風が頬を撫でるのに、感覚が追いつかない。
時間が、ずれている。
ラグナードは動けなかった。
理由は分からない。
ただ——
“見てはいけないものが近い”と、本能だけが叫んでいた。
足跡が続いている。
深く、重い。
この森に存在していい重さじゃない。
(……戻れる)
そう思えば、戻れた。
見なかったことにもできた。
だが——
足が、止まらない。
夢のせいだった。
何度も見た、腕を喰われる夢。
目が覚めたはずなのに、今も終わっていない気がする。
(……おかしい)
足音を殺す。
地面に触れる瞬間、重みを抜く。
それでも——
森が、自分の音を拾っている気がした。
進む。
進む。
足跡の先は、見えない。
やがて——
ラグナードは、わずかに息を吐いた。
(……何も、いない……?)
その瞬間だった。
泉。
森の奥、底にある場所。
そこに——いた。
巨体が、三つ。
泉の前に立っていた。
空気が重い。違う。
押し潰されている。
ラグナードは息を止めた。肺が焼ける。それでも吐けない。
(……見つかったら、終わる)
視線を外せない。外した瞬間、何かが終わる気がした。
足が震える。逃げろと叫んでいる。
だが、動けない。
(なんで……ここに……)
深淵の森に、魔神がいる。
それだけで、ありえなかった。
ここは“弱いものが隠れる場所”。
強いものは来ない。来る理由がない。
なのに、いる。
理屈が崩れた。
その瞬間。
「……っ……くそ……」
音が落ちた。
ラグナードの思考が止まる。
(……今のは……)
“声”だった。
青い鬣の魔神が、わずかに揺れる。
口が動いている。
「……腕……喰われた……」
理解が遅れる。
(……喋ってる……?)
違う。
言葉の形をしている。だが、繋がらない。
赤黒い魔神が、低く揺れる。
「……城……どうなった……」
「……仲間……」
断片が落ちる。
胸の奥が軋んだ。
(仲間……?)
分からない。
分からないはずなのに、意味だけが刺さる。
三体の空気が変わる。
怒り。焦り。苛立ち。
混ざって、濁っている。
一体が地面を殴った。
轟音。大地が跳ねる。木々が軋み、折れる。
それでも、止まらない。
「……くそ……魔神……襲って……きやがる……」
壊れたまま、吐き出される。
(……魔神が……魔神を……?)
理解が追いつかない。
だが、感情だけは分かる。
怒っている。奪われた。壊された。
その“結果”だけが流れ込んでくる。
「……止められない……」
一番大きな魔神が、低く落とした。
「……全部……荒れる……」
世界の底が抜けるような感覚。
(……なんだ、それ……)
知らない。理解できない。
それでも——終わっていると分かる。
ラグナードの喉が震えた。
怖い。今すぐ逃げたい。
だが、目が離れない。
「……城……守れない……」
断片が、また落ちる。
(……城……?)
頭の奥がざわつく。
知らないはずなのに、何かが引っかかる。
(……こいつら……)
喉が、かすかに動く。
(……言葉を……持ってる……)
その瞬間。
恐怖の中に、別の感情が混ざった。
ほんのわずか。押し殺していた何か。
(……繋がれる……?)
次の瞬間、強く否定する。
(……違う)
あれは壊れている。意味はある。だが繋がらない。
あれは——失敗した何かだ。
(……ああなるのか……)
感情も。意味も。
全部失って、それでも生きているだけの存在。
三体が動き出す。
森の奥へ。壊れた気配を引きずったまま。
ラグナードは動けない。
影が消え、静寂が戻る。
だが、何かが残っている。
胸の奥。消えない違和感。
(……今のは……)
理解できない。だが、無視できない。
ラグナードはゆっくり息を吐いた。
足は震えている。それでも——視線は森の奥を向いていた。
(……行きたくない)
本心だった。
それでも、足は止まらなかった。




