第31話:戻る場所
魔界に落ちてくるもののほとんどは、死体だった。
呼吸のない肉。折れた骨。境界の外に捨てられた残骸。
だから——
生きたまま落ちてくる人間は、異物だった。
ベルザグラドはすぐに気づいた。
動いている。息をしている。泣いている。
(……生きてるやつ、か)
無造作に積まれた石と木の内側。
床に膝をつき、震えている人間。
周囲を見回し、状況が理解できていない顔。
ベルザグラドはゆっくり歩く。
ガンッ、と足音を鳴らした。
「おい」
その一言。
人間の肩が跳ねる。
「ひぃっ……!」
後ずさる。
完全に“獣”を見る目だった。
ベルザグラドは眉をひそめる。
「なんだその顔」
人間は震えながら、必死に言葉を絞る。
「こ、ここは……どこ、ですか……?」
か細い問い。
ベルザグラドは一度だけ間を置いて、短く言った。
「魔界だ」
それだけ。
人間の顔が強張る。
「ま……魔界……ですか……?」
半信半疑。信じたくない声。
ベルザグラドは鼻で笑う。
「なんだその顔」
人間は激しく首を振ることしかできない。
少しずつ、会話が始まる。
ベルザグラドは腕を組む。
「人間ってのは、何食ってんだ」
人間は震えながら答える。
「……穀物や肉、魚などを……火を通して食べます」
「穀物?」
ベルザグラドは眉をひそめる。
「なんだそれ」
人間は少し戸惑いながら説明する。
「小麦や米……植物の実のようなものです」
ベルザグラドは理解できない顔をする。
「魔界にはねぇな」
その言葉で、人間は少しだけ安堵する。
「……そう、なのですね」
ベルザグラドは続ける。
「文字ってのはなんだ」
人間は震えながら、持っていた荷物を開く。
そこには“紙”と“筆記具”があった。
落ちてくるときに、偶然持っていたもの。
人間は紙を広げ、ペンで線を引く。
「これが……文字です」
ベルザグラドはそれを覗き込む。
「ただの線じゃねぇか」
「意味があります」
人間は必死に書く。
自分の名前。家族の名前。
ベルザグラドは黙る。
(残す……)
(消えないようにするものか)
日が経つ。
人間の顔色が悪くなっていく。
立てない。息が浅い。
ベルザグラドは気づく。
「おい、どうした」
「……体が、重くて……」
わずかな間。
人間は、震える声で続ける。
「……帰らないと……家族が、待ってるんです……」
魔界の空気。魔物の肉。それが人間の身体を壊していた。
ベルザグラドは拳を握る。
(ここにいるだけで……壊れるのか)
人間は弱い声で言う。
「お願いが……あります……」
「どうか……元の世界へ……」
「家族のもとへ……戻らせてください……」
ベルザグラドは黙る。
長い沈黙。
そして短く言った。
「分かった」
境界の裂け目。
人間は立っているのもやっとだった。
「……本当に、ありがとうございました……」
ベルザグラドは答えない。
少しだけ間を置いて言う。
「二度と来んなよ」
それだけ。
人間は泣きながら笑って、消えた。
ベルザグラドはしばらくその場から動かなかった。
扉の前から、離れられなかった。
——気づけば、積み上げていた。
石を。木を。時間を。
そこには、わずかな“形”が生まれていた。
(人間ってのは……)
(戻る場所があるのか)
わずかな沈黙。
(……あいつも、そうだったのか)
胸の奥が、わずかに軋む。
だが——
その感情に、名前はなかった。




