第29話:記憶侵蝕
ラグナードの視界が、変わる。
落ちていく感覚はない。
ただ——世界が“剥がれた”。
現実が、紙のように剥がれていく。
その奥にあったのは、知らないはずの“時間”。
それは記憶だった。
だが、それが誰のものかは分からない。
ただ一つだけ確かなものがある。
温度だ。
風がある。
笑い声がある。
生きている“時間”がある。
「ベルザグラド、また来たの?」
声がした。
軽い。
光そのものが言葉になったような声。
ラグナードは息を止める。
(……誰だ、これ)
視線の先にいるのは、白い光を纏う女。
その存在は、ただそこにいるだけで世界の輪郭を変える。
その前に立っているのは——
黒い角を持つ魔神。
まだ歪んでいない。
まだ壊れていない。
ただの魔神だった。
「うるせぇな……別にいいだろ」
乱暴な声。
だが、その声は震えている。
怒っているわけじゃない。
隠しているだけだ。
ラグナードは気づかないまま見ている。
(これは……戦いじゃない)
そこには“会話”があった。
距離のある、でも確かに繋がっている関係。
「ベルザグラド、また無茶してるでしょ」
女が笑う。
その名前が落ちる。
セラフィーナ。
ラグナードの胸が、わずかに跳ねる。
「心配すんなって……俺は強くなるんだよ」
ベルザグラドは笑う。
でも、その笑いはどこか必死だった。
(強くなるためじゃない)
(離れたくないだけだ)
ラグナードにはまだ分からない感情がそこにあった。
そこへ、もう一つの声が落ちる。
「……また来たのか」
冷たい。
だが切り捨ててはいない。
ただ距離を置く声。
ベルザグラドが振り返る。
「ヴァルディエル、お前まで説教かよ」
ヴァルディエル。
その名前が確定する。
ラグナードは理解する。
(この三人……)
敵じゃない。
仲間でもない。
でも、確かに“繋がっている”。
セラフィーナが言う。
「ベルザグラド、強くなりたいんでしょ?」
「なら、ちゃんと付いてきなさい」
ベルザグラドは一瞬黙る。
そして、笑う。
「当たり前だろ」
その声はまだ軽い。
だがその奥にあるのは——
不安だった。
場面が変わる。
魔界の外縁。
歪んだ大地。
風は濁っているはずなのに、そこには奇妙な“光”があった。
三人は並んでいる。
戦っているのはベルザグラドだけ。
「くそっ……!」
ベルザグラドが叫ぶ。
炎が走る。
それは赤い炎。
極炎。
セラフィーナから授かった“天界の力”。
だが——
制御できていない。
炎が早すぎる。
重すぎる。
自分の意思より先に暴れる。
ドンッ!
空を焼く。
だが——外れる。
「まただ……!」
空振り。
地面だけが裂ける。
セラフィーナが息を吐く。
「力に振り回されてる」
ヴァルディエルは静かに言う。
「焦るな」
ベルザグラドは歯を食いしばる。
「焦るに決まってんだろ……!」
声が震える。
炎が揺れる。
(当てたいんじゃねぇ)
(見せたいんだ)
(ここにいるって)
(置いていくなって)
その想いだけが先に走る。
炎がまた暴れる。
ドンッ!
また空振り。
ベルザグラドの呼吸が荒くなる。
「……くそ……!」
セラフィーナはそれを見て、何も言わない。
ただ見ている。
そこには試練ではなく、“見守り”があった。
時間が飛ぶ。
同じような戦闘。
同じような空振り。
ベルザグラドの炎は少しずつ形を持ち始める。
だがまだ不完全。
制御できない。
「違う……違うだろ……!」
焦りだけが積もっていく。
ラグナードは気づく。
(この人……)
(強くなりたいんじゃない)
(離れたくないだけだ)
また場面が歪む。
空気が変わる。
セラフィーナの声が落ちる。
「ベルザグラド」
空気が止まる。
「魔界調査は終わりよ」
ベルザグラドの動きが止まる。
「……は?」
ヴァルディエルが続ける。
「天界へ戻る」
その言葉は、あまりに簡単だった。
ベルザグラドは笑おうとする。
だが、声が出ない。
「……待てよ」
ようやく絞り出す。
「俺も行く」
セラフィーナは目を伏せる。
「あなたは魔界に残る存在」
ベルザグラドの声が一気に荒くなる。
「ふざけんな!!」
一歩踏み出す。
「俺も一緒に行くって……!」
「約束しただろ!!」
ヴァルディエルが間に入る。
「決定だ」
短い。
揺るがない。
ベルザグラドの拳が震える。
「……離れたくねぇんだよ……!」
その一言が、ようやく本音だった。
セラフィーナは一瞬だけ目を細める。
だが、何も変えない。
「また会いましょう」
光が引く。
「待て!!」
叫びは届かない。
二人は消えた。
天界へ。
残されたのは魔界とベルザグラドだけ。
静寂。
音が消える。
「……はは」
乾いた笑い。
「勝手だな……」
だが崩れない。
崩れ方を知らない。
ただ立っている。
それでも——
胸の奥は空だった。
「……離れたくなかっただけなのにな」
その声は誰にも届かない。
ベルザグラドは、城を作り始める。
守るためじゃない。
忘れないためだ。




