第16話:それでも、繋がりたかった
「……誰だ……お前……」
声は、かすれていた。
喉が、うまく動かない。
白い影は、答えない。
ただ——見ている。
沈黙が、落ちる。
重い。
息が、詰まる。
(……なんだ、これ……)
怖い。
本能が、関わるなと叫んでいる。
それでも——
逃げられなかった。
ラグナードは、その場に立ち尽くしている。
“誰か”の前で、初めて。
「……だれ……?」
言葉が、こぼれる。
小さく、頼りない音。
返事はない。
やっぱり、無理か——
そう思った、その瞬間。
「お前は、言葉が理解できるのか?」
——声。
ラグナードの目が、開く。
(……しゃべった……?)
「……しゃべってる……」
息が浅くなる。
「……お前……しゃべれるのか……?」
わずかな間。
「……驚いた。魔神が、言葉を理解するとはな」
「できる……!」
反射だった。
「できる……俺、話せる……!」
胸の奥が、熱くなる。
ずっと、なかった感覚。
(……通じてる……)
白い影は、動かない。
ただ、見ている。
値踏みするように、静かに。
「……名前はあるのか」
「ラグナード……!」
少しだけ、間が空く。
「……お前は?」
「……アズレリア」
その名は、静かに落ちた。
ラグナードは、小さく繰り返す。
確かめるように。
「……アズレリア……」
声にするだけで、胸がわずかに軽くなる。
理由は、分からない。
「アズレリアは……魔神なのか……?」
「違う。私は天界の使徒だ」
「天界……?」
聞いたことのない言葉だった。
だが——
今は、どうでもいい。
目の前に、話せる存在がいる。
それだけでいい。
「お前は、なぜここにいる」
「……わからない」
視線を落とす。
「気づいたら……ここにいた。洞窟を出たら、知らない場所で……」
言葉にしても、繋がらない。
「ここは死神界だ。魔界でも天界でもない」
理解は、できなかった。
それでも——
ここにも“世界”があると、初めて実感する。
そして。
(……こいつは、敵じゃない)
胸の奥が、わずかに緩む。
だが——
(……本当に……?)
小さな違和感が、残る。
ラグナードは、唇を噛んだ。
言葉が、出ない。
何を言えばいいのか、分からない。
それでも——
終わらせたくなかった。
「……あの……」
声が、弱い。
自分でも、情けないと思う。
目を逸らす。
怖い。
でも——
ほんの少しだけ、視線を戻す。
「……一人、なのか……?」
間。
ほんの、わずかな間。
「……そうだな」
短い返答。
それだけだった。
(……同じだ……)
胸が、揺れる。
小さく。
だが、確かに。
息を吸う。
肺が、痛い。
怖い。
壊れそうになる。
それでも——
離したくなかった。
「……あの……」
もう一度。
言葉が、止まる。
喉が、震える。
それでも——
「……一緒に……来てくれないか……」
言ってしまった。
止められなかった。
「俺は……弱い」
声が、揺れる。
「魔界で……生きていけない」
視界が、滲む。
「話せるやつも……いない」
喉が、詰まる。
「……誰も……いなかった……」
言い切った。
沈黙。
長い。
時間が、止まったように感じる。
怖い。
拒絶される、その瞬間が。
「……構わないけど」
——短い返答。
あまりにも、あっさりと。
ラグナードの思考が、止まる。
「……え……?」
願いが、通った。
胸の奥が、崩れる。
張り詰めていたものが、一気にほどけた。
力が抜ける。
立っているのも、やっとだった。
「ただし」
その一言で、引き戻される。
「その状態で、一緒にいてって言うの?」
「……あ」
気づく。
血に濡れた身体。
裂けた皮膚。
震えが止まらない足。
立っているだけで、やっとだった。
言葉を失う。
だが——
違和感が走る。
軽い。
さっきまでの重さが、ない。
ゆっくりと、右腕を動かす。
動く。
「……治ってる……?」
信じられなかった。
あれだけ壊れていたはずなのに。
「青い炎……残ってるわね」
アズレリアの視線が、腕に落ちる。
「さっきの死神の炎。本来は、触れたものを焼き尽くす」
でも——
「あなたには、効かなかったみたいね」
ラグナードは、自分の手を見つめる。
確かに——あの時、死ぬはずだった。
それなのに、今。
生きている。
(……でも……)
わずかに、胸の奥がざわつく。
(……何か……おかしい……)
小さな違和感が、消えない。
「……なんなんだ、俺……」
こぼれる。
「それは——これから分かるんじゃない?」
どこか、他人事のように。
ラグナードは、顔を上げる。
“これから”。
その言葉が、胸に残る。
未来。
考えたこともなかった。
でも——
今は、違う。
隣に、誰かがいる。
ひとりじゃない。
ラグナードは、ゆっくりと息を吐く。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
それでも——
奥のざわつきは、消えないまま。
アズレリアが、周囲に視線を走らせる。
「ここ、長くいられる場所じゃないわ」
空気が、張りつめる。
「……え?」
「さっきの死神。一体じゃない」
静かに告げる。
「見つかれば、今度は終わりよ」
ラグナードの背筋に、冷たいものが走る。
アズレリアは、視線を細めた。
「……まだ残ってる」
振り返る。
空間が、歪んでいた。
黒い“裂け目”。
ゆっくりと、閉じかけている。
(……あれ……)
ラグナードの喉が、鳴る。
さっき——自分が引きずり込まれた場所。
「出口、消えきってないわね」
「……出れるのか……?」
「今なら」
短い返答。
迷う余裕はなかった。
「行くわよ」
アズレリアが先に踏み込む。
ラグナードも、続く。
足元の感覚が、消える。
落ちる。
浮く。
引き裂かれるような違和感。
そして——
次の瞬間。
湿った空気。
重い匂い。
「……ここ……」
視界が、定まる。
岩肌。
焼けた跡。
壁に、手を触れる。
なめらかすぎる。
(……なんだ、これ……)
削った形じゃない。
歪んでいるのに、整っている。
気持ち悪い。
「……戻ってる……」
洞窟だった。
だが、さっきの場所より奥。
空気が、わずかに重い。
アズレリアは、軽く息を吐いた。
「私の隠れ家」
短く、言う。
「……壊さないでよね」
ラグナードは、その場に立ったまま、
自分の手を見つめる。
まだ、何も壊していない。
だが——
胸の奥で、何かが脈打っている。
さっきまでの自分とは、違う。
隣に、誰かがいる。
それでも——
何かが、確実に変わっている。
その違和感だけが、
静かに、残り続けていた。




