慎重
僕は這い蹲りながら崖にできるだけ首を延ばした。
どうして気付かなかったんだろう。
渓谷には霧も動かせないほどの微かな風が下から上へ吹いていたんだ。
崖に右手をかざし、左から右へずらしていくと、風があるところとないところがはっきりわかった。
階段は、目には見えなくても、風はしっかりさえぎっていたんだね。
僕は風が極端に少ないところへ手をゆっくり落としていった―――やっぱりだ。
確かに硬くて冷たい階段がそこにはあったんだよ。
「スミシー、おまえも何も恐れず、考えないで崖へ足を踏み入れるのか」
階段があるところは確認できていたんだけど、それでも僕は怖くって恐る恐る足を伸ばしていた。
そこへジェラールが来たってわけなのさ。
「違うよ。僕は、目に見えないものに触れる勇気なんてないんだもの」
正直にそう答えたね。
そして初めの一歩をふみ出した―――実は手のほうが先についちゃった。
「やめるんだ、スミシー。おまえも崖へ落っこちたいのか」
「大丈夫さ。僕は何とか、落っこちないですみそうなんだ」
四つん這いの格好で顔だけをジェラールに向けながら、ぼくはそういった。
体が震えて笑顔は作れなかったけど、ジェラールは僕を信じてくれたみたいだった。
彼は彼で、見えない階段のありかを見つけ出していたんだね。
極めて慎重に進んでいるぼくが大分崖から浮き上がると、太腿の間から見えるジェラールとユダが階段を上り始めたところだったんだ。
彼らは慎重だったんだけど、立って一歩一歩上っていたから、僕にどんどん追いついてきた―――勿論不安なところがあったら蹲って風を確かめたりしながら。
エゴールは僕と同じように初めから四つん這いになりながら進んできたんだ。
笑っちゃうよね。
憎めない奴なんだよ。
勇気があるのと、向こう見ずなのは決して同じじゃないと思ったね。
老人の姿はもうとっくに霧の中で見えなくなっていた。
僕はジェラールたちに抜かされていたけど、気にしちゃいなかった。
老人はゆっくりでいいって言っていたし、門柱のところで待っているとも言っていたんだもの。
それでも向こう見ずに崖へ踏み出す人が何人かいたんだ。
精悍な顔立ちをして下を見ないように足を踏み出していく。
僕はエゴールが嫌いじゃないよ。
彼はちょっとひねくれているけど、肝心なところでは実に正直なんだもの。
階段を上りきる間に、馬車に乗っていた人たちの半数が落ちていた。




