4.密着した温もり
「ただいまー。」
辺りもすっかり暗くなった頃、僕はリビングの明かりだけがついた我が家へと帰って来た。部活動の指導の後、三年生の先生たちによる打ち合わせがあったり、授業用の問題を探しているうちに、いつの間にか時計の針が九字を回ってしまっていたのだ。帰宅部のユイカは六時間目の終わりと共にとっくに帰っていたようで、携帯に彼女から『遅くなるの?』というメッセージが送られてきていたのを、僕は帰りの電車に乗っている時に気付いた。
「ユイカ?」
明かりの点いたリビングに入ると、無人の部屋の中で四人掛けのテーブルに、お茶碗とお皿が並べてあることに気付いた。きちんとラップされた食器には、ご飯とユイカが作ったのであろう夕食のハンバーグと炒めた野菜が盛り付けられている。傍に添えられたメモには『温めて食べてね』と彼女の整った文字で書かれていた。僕はメモに書かれたとおりにレンジで温めて、娘の作ってくれた夕食を食べる。朝ごはんは僕の仕事だが、夕飯が僕よりも帰りの早いユイカの仕事になったのは、彼女が中学生の頃だった。中学に上がりたての頃、「シュンくんにご飯を作りたい」と言った彼女に夕飯を作ってもらって以来、その分担がずっと続いているのだ。
不思議なことにご飯を食べている間、ユイカは帰宅した僕の前に顔を出さなかった。いつもは僕が帰ってくるといの一番でやって来る彼女なのに、今日は彼女の部屋の方からはうんともすんとも聞こえない。電気が付いていない部屋で宿題をしているとも思えないし、もう寝てしまったのだろか。そんなことを考えながら食事を終えて、自分の部屋へと向かった。風呂に入るにしてもまだ入らないにしても、まずは汗をかいたワイシャツを着替えたい。
自分の部屋の扉を開けて、入り口から見て左側の壁にある部屋の明かりのスイッチを押した。暖色系に近い白色の明かりが部屋を照らす。机の上にバッグを置こうと部屋へと足を踏み入れた。その時、僕はベッドがこんもり盛り上がっていることに気付いた。
「なんだ…?」
さっと掛け布団を剥がすと、ユイカが丸くなってすやすやと寝息を立てていた。いつも彼女が寝る時間よりもまだだいぶ早い。
「うお、ユイカか…。こんなところで寝てるなんて。」
いつもは朝になってから僕の部屋に来るので、夜にここで寝ているのは不可解だった。回りを見渡すと机の上には恐らく彼女のものと思われる、数学のプリントが数枚積んであった。きっと宿題の途中で寝てしまったのだろう。なぜ僕の机でやっていたのかは知らないけれども。
「ユイカ、ほら俺のベッドで寝てないで自分の部屋に戻りなさい。」
「んん。シュンくん…?良かった、帰ってきた。」
目を覚ました彼女は、そう言うなり僕を強く抱き締めた。
「ただいま。ごめん、遅くなっちゃって。…ユイカ?」
いつもの甘えかと思って、やれやれと娘から体を引き離そうとしたが何やら様子がおかしい。彼女は僕の胸のなかで震えていた。
「どうしたの、ユイカ?」
「怖かったの。」
「怖い?学校で何かあったの?」
僕の質問には答えずに僕を真っ直ぐに見上げていた。寝ぼけ眼なのだろうが彼女の目は真っ赤になっていて、まるで泣き腫らした後のようだった。
部屋に戻りなさいとは言ったが、流石にこんな状態の娘を無理矢理引き剥がして部屋に返すことはできなかった。何があったのかは分からないが、怖がっているなら安心させたい、そう思った僕は彼女の背中に腕を回し、よしよしとゆっくり背中を撫でた。幼稚園児の頃は泣き虫だった彼女をこうして安心させていたものだ。
しばらく撫でているとユイカは少し落ち着いたようで、僕の胸に押し付けていた体を少し離した。
「どう、落ち着いた?」
「ごめんなさい。」
「謝んなくていいよ。」
「うん。お父さん、ありがとう。」
「じゃあ俺はお風呂入ってくるから。ユイカも落ち着いたら自分の部屋に戻りなよ?そこに置いてある数学の宿題も忘れないようにな。」
「うん。ありがと…シュンくん!」
「はいはい。」
娘に部屋に戻るように行ってから、僕は衣装ラックにスーツを掛け、タンスからTシャツと半ズボンと下着を引っ張り出して、自分の部屋を出た。今日はもう疲れたから、風呂に入ったらもう寝よう。そう思いながら浴室へと向かう。僕は学校の仕事を家でまでやることは嫌なので、相当追いつめられない限りは基本的には持ち込まないようにしていた。
「ふぅー。」
娘が入浴してから電源がつけっぱなしになっていたので、湯船にたまったお湯は39℃のままでいい湯加減だった。僕は思わず大きく息をついて胸のあたりまで湯の中に体を入れた。疲れの溜まった全身に熱い湯がしみわたっていく感覚がとても気持ちいい。僕はそのまま肩までお湯の中に入れて、更にその温もりに身を預けた。
気が付くとウトウトと微睡んでいた。給湯器のリモコンに写っている現在時刻を確認すると、風呂に入ってからもう1時間近く時間が経っていることが分かった。そろそろ上がろうと顔を両手で一拭きしたところで、ガチャリと浴室の扉が開かれた。長風呂が過ぎてユイカが心配したのだろうか。
「ごめん、ユイカ。もうすぐ上がる、ってうおおっ!?」
僕は慌てて入り口と反対方向に顔を向けた。
「ごめんユイカ!見るつもりはなかった。すぐ上がるからもう少し待ってなさい!」
そこには一糸まとわず、惜しげもなく白い肌を晒した娘が立っていた。一瞬目に映った彼女はタオル一枚で体を隠していた。僕は目を力いっぱい瞑って見たものを忘れようとした。しかし忘れようとすればする程、タオルからはみ出た彼女の女性的な体が鮮明に浮かんできて消えなくなる。
「お風呂の電源入れたまま寝ちゃったから、まだ入ってなかったんだ。だから私も入るね?」
「待て待て待て!俺はもう上がるから!ちょっと待ってなさいって。」
「待たないよ。だってもう全部脱いじゃったから。」
そう言って娘は浴室へと足を踏み入れ、ドアを閉めた。僕は慌てて立ち上がって出ようとしたが、娘はさっとシャワーを手にして立ち上がった僕に冷水をかけてきた。
「逃がさないもん。」
驚いた僕が派手に水しぶきを上げて湯船に入ったのを見て、彼女はニコニコしながらシャワーで髪と体を洗い始めてしまった。僕は何も言えずに壁の方を見て湯船の端の方に移動した。
「シュンくんとお風呂入るの久しぶりだよね。」
「…あ、当たり前だろう。高校生の娘と風呂に入る父親なんて普通いないよ。」
「私はいつも入りたいと思ってるよ。」
「…。」
「…フンフン♪」
僕の薄い反応を特に気にするわけでもなく、ユイカは楽しそうに鼻歌を歌ったりしている。最近流行りの、街でよく聞く人気アイドルグループの最新曲だ。でも僕にはそれを聞いている余裕なんて無くて、耳に入ってくるボディソープのクチュクチュという音にひどく、興奮していた。僕はたまらなくなって関係ない話題を挙げる。
「そ、そうだ。高校はどう?一か月たったけど、もう慣れた?」
「慣れたよ。友達もできたし。毎日楽しいよ。」
「勉強はどう?たまにはお父さんが教えてあげようか?」
「うーん。すごく嬉しいけど、」
「けど?」
「やっぱりシュンくんに聞くのは悔しいから嫌だな。だって妻に勉強を教えてあげるなんて、シュンくんも変だと思うでしょ?」
「い、いや。俺は別に、だって俺たちは…。」
親子だろうと言葉をつなぐ前に、体を洗い終えたユイカが湯船に侵入してきた。僕のごつごつの背中に彼女の柔らかく小さな背中が当たる。肩甲骨がぶつかり、二人で背中合わせの形になっていた。
「わぁ、シュンくんの背中って大きい。…ねえシュンくん。さっきはその、ごめんね。」
「うん。…学校で何かされたの?」
後ろにるユイカの裸を意識しないようにしながら、僕は彼女に訊いた。必死に理性を保っているお陰か、娘のことがそれだけ心配だったのか、自分で思う以上に深刻な声が出た。
「ううん、そうじゃなくてね。全然そういうことじゃないの。」
「じゃあどうしたの?母さんのことを思い出して悲しくなった、とか?」
「そうでもなくて。あのね、今日の8時からのテレビ番組ってシュンくん知ってる?」
「8時?」
8時と言えばニュースがやっている時間だろうか。あまりテレビを見ない僕はそういうことをまるで知らない。僕が悩んでいるのを察したのか、彼女は答えを教えてくれた。
「ホラーのドラマをやってるんだよ。それでね、私普段はそんなの見ないんだけど。今日はたまたまテレビを付けたらそれがやっていて、ね。」
「まさか…、それを見て怖がっていたのか?」
僕の呟いた声に、彼女は恥ずかしそうな声色で「そう。」と肯定した。背中合わせのため、その表情は分からない。僕は更に気になっていたことを聞いてみた。
「でもなんで俺の部屋に…?」
「えーと、シュンくんの匂いで一杯になったら安心して。えへへ」
恥ずかしそうに笑うユイカに思わず力が抜けて、僕も苦笑してしまった。そんなことで取り乱していたなんて、彼女も僕も滑稽で笑ってしまう。
その時、背中の柔らかい感触が一瞬消えて、すぐに別の尖ったような二つの感触が僕の背中に加わった。その感触は僕の体を改めて硬直させる。頭はガンガン鳴り、飛んでいきそうな理性で必死に猛りを抑えた。
「嬉しい。シュンくんやっと笑ってくれた。」
「こら、分かったからやめなさい。その、当たってるから。」
「知ってるよ。でも止めないもん。」
そう言ってユイカは僕の首筋に顔を寄せて来た。彼女のため息のような深い吐息は僕をクラクラさせるには十分すぎる。さらに彼女はその手を腰の方に回し、僕の大事なところに近づけて来た。彼女は僕が隠そうと必死の、その変化に気付いてしまっているのだろうか。
「ユイカ、駄目だから…。これ以上は本当にヤバいから!」
「いいよ。私はね、シュンくんのこと受け入れたいって、ずっと思ってたの…。だからね、シュンくんが好きなようにしていいんだよ?」
ユイカの途切れ途切れの囁き声は、僕の理性の最後の抵抗をいとも簡単に突き崩した。気付いた時には、僕はいつの間にか彼女と向かい合わせになっていた。彼女のトロンと蕩けたような顔がやけに目に焼き付く。そのまま僕たちは…。
「きゃあ!ちょっとお父さん、大丈夫!?」
僕は突然の不快感と共にクラっとして、目の前のユイカの方に倒れ込んだ。湯船のお湯の中にもぐってしまう前に、彼女の腕によって抱き留められた。
「ヤバい…。のぼせた。ごめんユイカ。」
「え、ええ。こんな肝心の時に…!」
そう言いながらもユイカは僕の肩を支えて浴室から出してくれた。彼女はさっと置いてあった服を羽織って台所に水を取りに行ってくれた。僕もその間に服を羽織る。父親として申し訳なく、情けない。帰って来た彼女に自分の不甲斐なさを謝った。
「謝んなくていいよ。そりゃ残念だけど、次の機会があるからね!」
そう言いながらユイカは台所から持ってきた冷たい水を手渡してくれた。僕はその水を飲みながら、助かったと思った。風呂場で彼女に抱き留められた温もりはまだ僕の心を包み込んでいた。
あのままのぼせていなかったら僕はどうしていたのだろう。想像することが怖くて、僕はただ黙って受け取った水を飲んだ。
その晩は気を使ってくれたのか、彼女は僕の部屋にはやってこなかった。
次回辺り娘視点も入れていきたいと思っています。