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3.昼休み

 高校三年生と言っても、年度が始まったばかりの四月ではまだ生徒たちに危機感はなく、皆、二年生の延長戦が始まったかのような顔をしている。僕が担任を務めるクラスの今日の四時間目は数学。僕の受け持つ授業だ。

「じゃあここの問題を一ノ瀬、解いてみて」

「はい。」

 僕が名前を呼ぶと廊下側の一人の女子生徒が立ち上がって黒板に向かって歩いてきた。僕の授業は基本的に授業の前半に公式などの解説をして、後半は生徒たちに問題集を解かせるという形を取っている。当てるのは挙手制ではなく名簿順で、クラス全員が均等に発表できるようにしようと考えた結果生まれた授業スタイルである。自分でも何のひねりもない退屈な授業だと思っているが、真面目な生徒たちはなんとか授業に付いてきてくれていた。

 カカカッと音を立てて問題を解き終わると、彼女は静かに席へと戻って行った。数学を得意とするこの理系クラスにおいては、今やってる単元は少し簡単すぎるとは思う。黒板に書かれた解答は適切な筋道で記述されているため、僕もここでなぜこの式になったかを少し説明しただけで生徒たちからは納得したような雰囲気を感じられた。

「じゃあ次は少し難しい問題を解いてもらうよ」

 そう言って僕は用意していた過去問の並んだプリントを配った。

「実際の大学入試の問題だから。時間かけていいので解いてみてね。解説は明日やるから。」

 配り終えてから僕がそう言うと、一斉にペンと机のぶつかり合うコツコツという音が鳴り響いた。教卓に両肘をついて暫く生徒の様子を見ていたが、やがて暇になったので生徒たちの間を歩き回って、困っている生徒がいないか探すことにした。

「分からないことがあれば、先生適当に歩き回ってるから遠慮せずに聞けよ」

生徒の集中の妨げにならない程度の声量で伝えてから、廊下側の机間から歩き始めた。難問と言っただけあって生徒たちも最初は解き方に悩んでいたが、暫くして徐々に1問目を突破し、2問目3問目に突入する人が増えてきた。僕は1問目に悩んでいる生徒に、解き方の道しるべを少し示してからは黙って巡回していた。もともと数学が得意な子が集まっているので、一から十まで教えることは無い。

 暫くしてまた暇になって今度は窓の外を眺める。グラウンドでは体育の授業で陸上競技が行われていた。半袖半ズボンの体育着の生徒たちが男女に分かれて100メートル走や走高跳び、ハードル走などを行っている。暑い中頑張っているなと思いながら見ていると、ひと際足の速い子が100メートルのコースを駆け抜けた姿に目を奪われた。他の人が地上を疾走しているなら、その子はまるで空をはばたく鳥のような自由でのびのびとしたフォームで走っていた。たったの100メートルでこれだけの差が付くのかと驚くほどに彼女は他の子を置いてゴールを駆け抜けた。

「おぉ…速い」

「先生?」

 思わずつぶやくと静かだった教室は少しざわついた。しまったと思ったが、生徒たちは問題を解く手を止めて僕を訝しげに見ていた。クラスメイトを代表するかのように、学級委員の田中が僕にどうしたのかと聞いて来た。

「ああごめんごめん。校庭見てた。気にせず続けて。」

あっけからんという僕に、田中は呆れたような顔をした。

「先生、嘘つかないのはいいと思うんですが。授業中よそ見してたことを生徒に言っちゃうってどうなんでしょうか?」

「悪かったって。ほら、俺に気にせず続けて。」

 そう言って、再び生徒たちをプリントに向かわせた。教室を見渡していると、ふと窓の外から視線を感じた。再び外を見ると、先ほど走っていた少女は僕の方を見て腕を突き出して大きく左右に振っていた。顔はよく見えないが、その仕草には見覚えがある。

「ユイカ!?」

今度はこみあげてくる自分の声を抑えることができた。僕の方に腕を突き出していた少女はそのまま長い髪を揺らして大きく腕を振っていた。あまりに大げさに手を振っている彼女が可笑しくて、ついくすくす笑っていると、また生徒たちが遠慮がちに僕の方を見ていた。

「お?なんだみんな、解き終わったの?」

「いえ。あのー桜井先生。チャイム鳴りましたよ。」

「あ、マジか。じゃあこの解説は次回やるから忘れず持ってきてね」

 先ほどの田中ではなくもう一人の学級委員である一ノ瀬が号令をして四時間目の授業が終わる。窓の外に気を取られて授業をおろそかにするという学生でもしないような失態を反省しながら、僕は職員室へと戻った。


 職員室で事務仕事を終えたのは昼休みが半分過ぎたころだった。僕はうんと伸びをして自分の荷物からお弁当の入ったバッグを探す。しかし、

「…ない。あれ?」

更によく探してみたが見つからない。どうやら弁当を家に置き忘れてきてしまったようだ。

「あちゃー。仕方ないかな、とりあえず購買か学食にでも行こう。」

 そう独り言ちながら三年職員室の引き戸を開くと、目の前には見慣れた顔があった。

「あ、お父さん!やっと出て来た!」

娘のユイカはニコニコした顔で、後ろ手を組んで職員室前に立っていた。

「学校ではお父さんじゃなくて桜井先生だろ?こんなところでどうかしたのか?」

「先生ったら、せっかく作ったお弁当忘れて行っちゃうんだから。」

そう言って彼女は右手に持っていた僕の弁当バッグを上に掲げた。どうやら僕の忘れ物を持ってきてくれたらしい。それならそうと登校中に教えてくれれば良かったのだが。ありがとうと僕がそれを取ろうとすると、彼女はその手をひゅっと後ろに下げて、僕を見上げてこう言った。

「先生と一緒に食べたいなぁ」

「えーと。」

「一緒にお昼食べてよ。高校に入ってずっと一緒にご飯を食べるの楽しみにしてたんだから!」

「…まあ、いいよ。」

「やったぁ!それじゃあお父さん、じゃなくて桜井先生。レッツゴー!」

ユイカは僕の手を引いて、僕を外へと連れだした。

 彼女が僕を連れてきたのは教室のある建物と特別教室の建物の間にある中庭だ。上履きで出ることができる場所で、とても静かな場所である。僕たちは空いているベンチに腰を下ろしてお弁当を開いた。

「そういえばさっきの時間は見てくれた?私シュンくんに手を振ってたんだけど。」

座るや否やユイカは僕に聞いてきた。二人きりだからかいつの間にか僕への呼び方も家でのものに変わっている。

「体育の時間か?あれ、やっぱりユイカだったんだ。走るの凄い速かったからビックリしたよ。というかあそこに俺がいるのよく知ってたね。」

「当然!シュンくんの授業は自分の時間割を覚えるより前に覚えたんだから。」

「それは、誉めていいのかな?素直に凄いとは思うけど。」

「えへへ、ありがと。」

「…」

「…」

「シュンくんシュンくん、はいあーん」

ユイカは僕の半分まで減ったお弁当箱からタコさんウィンナーを箸で掴むと、僕の口許まで持ってきた。恋人が食べさせるアレをしたいらしい。

「いやいや、さすがに恥ずかしいから。」

「誰もいないから大丈夫だよ。ほら早く!」

「いや、でもなー。」

「もう、シュンくんの意気地無し!この、えいっ!」

「ふごっ!?むぅ!」

タコさんウィンナーは僕の口に無理矢理ねじ込まれていた。突然ねじ込まれてビックリしながらユイカの方を見ると、彼女は怒ったような顔で頬を膨らませていた。その頬にはご飯粒がひとつくっついている。

「まったくもう、シュンくんはいつも周りのこと気にして。私のことなんて見てくれないんだもんね。ふんだ!」

ユイカはプイと横を向いた。わざとやってるのか、ご飯粒がついた方の頬は僕の方にキチンと向いていた。その様子が面白くて、僕は思わず吹き出してしまった。

「ぶふっ!ごめんごめん。ユイカ、機嫌直してよ」

「ふん!」

やはり頬のご飯粒に気づいていない。どんどん大人になっていく娘の、こういう子供っぽいところを見ると少し安心する。僕はそっと彼女の顔に近づいて囁いた。

「ユイカ、ちょっと動かないで。」

「…?!」

僕の言葉に硬直したように固まって、期待のこもった目でちらりと僕の方を見た。僕はそんな彼女の頬を優しくなぞって、頬に付いた物を取った。そのまま白米をパクリと口に入れる。味はしなかった。丁度その時昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、外に出ていた生徒たちが校舎へと戻ってくる声が聞こえてきた。

「はい、終わり!五時間目が始まるからそろそろ戻ろうか。」

「え?え?頬を撫でてくれただけ…?」

「ほら、ご飯粒ついてたよ。」

「え?」

「頬っぺたにご飯粒くっつけてるなんて、ユイカもまだまだ子供だね。」

「な、…シュンくんのバカ!」

「え、ええ?ご飯粒取っただけで、いくらなんでもバカはないだろう。」

「私の純情を返して!キスしてくれると思ったのに…。」

「はいはい、ふざけたこと言ってないで早く片付けて戻ろうね。」

「もうお嫁にいけないから!シュンくんのお嫁さんになるしかないから。」

「そんなわけはない…」

「うわーん、シュンくんの大バカー!」

騒ぎながらユイカは教室へと戻って行った。僕は一人残って空を見上げる。春の穏やかな天気だった。

 ぼんやりと先ほどの感覚を思い出していた。ユイカの頬は柔らかかったな。ユカと同じ優しい柔らかさがあって、思わず唇を触れさせたくて…。僕はハッとしながら立ち上がると慌てて弁当を片付けて、大分遅れて校舎へと向かった。


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