20.もう戻れない
「ねーねー桜井さん、今日の放課後空いてる?」
「ひゃっ、何?」
「わぁ、桜井さんってそんな可愛い声も出すんだ!」
テストが終わってぼんやりしていると、不意に背中をつんつん突かれた。完全に気を抜いていた私が、不意打ちにビクッとしてから振り返ると、後ろの席の女の子がいたずらっぽい笑みを浮かべて私を見ていた。
「え、何?どうしたの?」
「クラスのみんなでカラオケでも行かないかってになってるんだけどさー。」
「そうなんだ。」
「桜井さんも一緒にどう?」
「ごめんね。行きたいのは山々なのだけど。」
歯切れの悪い返事に、彼女はグイっと顔を寄せ、不満そうに見上げてきた。入学してから数か月たっても、クラスメイトとあまり会話せず、他の人に比べ関わりの少ない私に対しても、遠慮のない上目遣いで何かもの言いたげな彼女。そんな距離感の近さに少しの居心地の悪さを感じる。
「えー折角テストが終わったんだから、クラス全員でお疲れ様会したかったのにー。」
「でもちょっと私、今日は大事な用事があるから……」
「むー、桜井さんってさあ、いっつも用事があるからって言うよね。みんな桜井さんと遊んだことないって言ってるし。」
「本当にごめんね。」
何度も謝る私を見ながら、彼女は口をとがらせながらブツブツと独り言のように言った。
「せっかくいつも来ない桜井さんが誘えば、男子たちも釣れると思ったのにー。」
出席率が低い私一人でそこまで参加者が増えるものなのか、そう思いながら私はまた謝り倒す。何といっても今日はテスト最終日。テスト期間中にあまりできなかった掃除や、洗濯がたまりにたまってしまっている。そんな状況を思い出して、きっぱりと断った。
「ごめんね。やっぱり今日は忙しいの。」
「もしかして、彼氏?」
「え?」
予想外の質問に私は間の抜けた声を出してしまった。私の反応に図星と思ったのか、畳みかけるように彼女は質問攻めしてくる。
「聞いてなかったけどさ、桜井さんって付き合ってるの?分かった、もしかして彼氏とデートだからいつも来れないんでしょ。」
興奮した彼女の声は次第に大きくなっていき、彼氏という言葉が出た途端、ざわざわとしていた教室が静まり返った気がした。周りの様々な視線を感じて、肩身が狭くなる。
「ちょっと待って。私は誰とも付き合ってないよ。」
首を横に振ってはっきりと否定すると、張りつめた雰囲気が少し和らいだ気がした。同時に何のことはないはずなのに私の胸はちくりと痛んだ。
「ふーん。じゃあなんで……。」
キンコーンカンコーン
彼女のさらなる追求を遮るように終業のチャイムが鳴り響いた。
「今日はごめんね。別の機会に、また誘って。」
「あ、桜井さんちょっと、」
なおも何か言おうとした彼女から逃げるように、私は教室を出る。
途中、何人かの同級生に先ほどと同じようにカラオケや遊びに誘われた。高校だとそういうものなのだろうか。中学ではテストが終ったらすぐに部活が始まり、のんびりしている人なんていなかった。この学校では、何というか一大行事が終わったかのようだ。
教室を出た私が目指すのは職員室。帰る前に父に一声かけておこうと思ったのだ。先生たちのいる職員室は一年生の教室から最も離れた場所にある。三年生の担当の先生はさらに離れた部屋にいるため、職員室に行くためには他の学年の教室を通らなければならない。
私が向かっている時には、ちょうど二三年生も帰り始めたころのようで、三年生の教室の前を歩いていると何人もの視線を感じた。年上の人たちの視線から逃げるように足早に目的地へと行くと、ちょうどよく見知った後ろ姿が、私と違う色のネクタイの生徒と話している所だった。
「最後の問題は難しかったけどちゃんとできたか?」
「余裕すよ。あれって問題集の最後の問題をちょっと変えただけでしょ。あれじゃあ俺たち騙されないですよ。」
「マジか、じゃあ次回はもっと難しくしていいかな。」
「え、えぇ。それはマジでやめてください。」
テストの出来について話しているシュン君と三年生の先輩。学校で遠目に見るシュン君はいつも楽しそうに生徒と話しているからちょっとモヤモヤする。
彼らの話が終るのはまだ少しかかりそうなので、私は離れた所で二人の話が終るのを待つことにした。別に嫉妬なんかしてない、はず。ただ少しだけ、学校でシュン君と楽しそうに話している三年生の先輩が羨ましい。でも私だってもう高校生だ。中学生のころならまだしも、割って入るような真似はしない。
「あら桜井さん。こんなところで何してるの。」
「向井先生、こんにちは。」
二人の話が終わるのを待っている私の後ろから向井先生が歩いてきた。クラスの担任であり、一年生の数学担当の先生だ。
「桜井先生に話があって、」
そう言いながらシュン君の方に顔を向ける。向井先生は私の視線の先にいる二人を見て、すぐに納得したように頷いた。
「なるほど、桜井先生待ちね。」
「はい。帰る前に話しておきたいこととかありますし。」
「なるほどね。……ところで桜井さん、テストの方はどうだったのかしら。」
「そうですね、簡単でした。」
「ふふ、相変わらず可愛くない返事。」
テストについて訊かれたので、率直にテストの出来を答える。言葉にしてから、我ながら酷い回答だと思った。しかし嫌味ではないのだと弁解しようと口を開く前に、向井先生は楽しそうにころころと笑う。
「あ、そうじゃなくて、」
「いいのいいの、桜井さんを責めているわけじゃない。たしかにあなたにとっては少し易しすぎたよね。桜井さんすごくできるもの。桜井先生に教わったりしているの?」
「……先生は忙しいから。教わったことはないですよ。」
「ごめんなさい。悪いこと聞いちゃったわね。」
「いえ、大丈夫です。」
「でも、私も帰りが遅くなることあるけど、桜井先生っていつも帰り遅いし、桜井さんも大変ね。」
「もう慣れてますから。」
「偉いのね。でも一人で待ってるときなんか寂しくなることだってあるでしょう。」
「……まぁ、時々は。」
言いながら、私は向井先生とこんな話をしていることに不思議な気持ちだった。もちろん授業中に最低限の会話はあるが、それ以外の機会ではあまり先生の近くにいないために話をしない先生に、まして普段は他の人にあまり家のことを話すこともない私が、こんな話をしているのだ。
「大好きなお父さんに甘えたくなったりもするよね。」
「はい……ん?」
「あら意外と可愛いこと言うのね。」
「な、何を言わせるんですか!意味が分かりません!!」
「……たまーにね、あなたみたいな子を受け持つこともあるの。」
「?」
「大人過ぎて不安になるのよ。あなたにはもっと高校生らしく過ごして欲しいって、先生思ってるのよ。」
「意味が、分かりません。」
「ふふ。そういう顔が見たいってこと。ま、今の話は話半分で覚えておいて。あら、ちょうど終わったみたいよ。それじゃ桜井さん、また来週。」
言葉を失っている私の肩をぽんぽんと二回たたいて、向井先生は職員室へと入って行った。
「おっともうこんな時間だ。気を付けて帰りな。」
「ホントだ。サンキュー桜井先生。先生って山崎先生とかと違って話してても女子も集まってこないし話しやすいよね。」
「いやいやそれってどういう意味だよ。」
「褒めてんだよー。それじゃさよならー。」
ひらひら手を振ってからその人は私とは反対の方向に走って行った。彼の去っていく様子を見ながら、ブツブツと何か呟いている彼の背中に、私は声をかける。
「桜井先生。」
「どうした。そろそろ下校時刻だぞ……ってユイカ?」
「何ですか、三年生の先輩はあんなに楽しそうだったのに。私じゃ何か不満なんですか?」
「そんなことはないけど……えーと。」
そんな反応をされて私は少しむっとして言った。しかし返答に困っている彼を見て、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふ、冗談ですよ。」
「冗、談?」
「はい、冗談です。」
「な、なーんだ。俺はてっきり。てか見てたなら話しかけてくれて良かったのに。それでユイカ、何の用だ?」
「ユイカでいいんですか?桜井先生。」
「桜井、何の用だ?」
シュン君は周りを見回してから、誰もいないことを確認してから私の呼び名を改めた。誰も彼の呼び間違いを見ている人なんていなかったのに律儀な人。
だからこそ、私はちょっと困らせたいといういたずらごころがむくむくと湧いてきた。だから私は彼の顔にグッと近づいて小声でささやく。
「ところでシュン君。」
「こ、こら。桜井さん。学校では……。」
「分かってるけど、先に間違えたのはシュン君だから、これでおあいこでしょ。」
「……分かったよ。それで?」
「シュン君って理解が早いから素敵。それで、今日は早く帰って来るの?良かったら、」
「あーごめん。今回はどうしても欠席できないみたいで。」
テスト後は先生の方でも打ち上げがあるのは分かっていた。いつもは誘いも断っているシュン君もこの時期の飲み会は欠席しづらいのだろう。分かってはいるのだけれど。
「そっか……。」
「ほんと、ごめん。なるべく早く帰って来るからさ。」
「……ううん、いいの。楽しんできてね。それじゃ私はこれで、桜井先生さようなら!」
「あ、ああ、さようなら。」
私はスッとシュン君から離れると、一生徒として桜井先生にさようならと挨拶して学校を出た。
家に帰ってきてからは思いのほか忙しかった。なにせ私もシュン君も両方とも定期テストの準備等で忙しく、一週間くらいまともに家事なんてできなかった。中学の頃とは違って、同じ学校にいるとこういうことは今までにない苦労もある。
しかし掃除洗濯をなんとか終えて、夕食を食べ終わった私は、何となくリビングに残ってテレビを見ていた。どうせ明日は土曜日で休みだし、今日くらいは夜更かししてシュン君の帰りを待っていてもいいだろう。シュン君は昔からお酒があんまり強くない。たぶん二次会なんて寄り道はせず、フラフラになって帰って来るはずだ。
だからせめて帰宅したらなにかしてあげようと、ぼんやりテレビを見ながら待っているのだ。
しかしそんなことを思って、待つこと早数時間。いつの間にか時計の両針は一番高いところでぶつかりそうになっている。明日になるのもあとわずかになっても彼は帰って来ない。
「はぁ、お泊りなのかな。」
もしかして酔っ払って何かあったのだろうか。それで帰りが遅いのか。一人で待っていると、物事は悪い方に、怖い方に考えて行ってしまう。昔からの悪い癖だ。
それとも酔った勢いで誰かと……、いや止めよう。
それにしても今は一人ぼっちという状況が自分の考えている以上に心細い。もう慣れっ子だと思っていたが、テストの疲れがたまっているからだろうか。リビング以外に電気がついていない、温かみのない家の中に立ち込める重苦しさで、まるで溺れてしまいそうな気分だ。
これ以上ここにいると泣いてしまいそうなので、私は考えるのを止めた。そして自分の部屋に戻ろうとテレビを消し、リビングの電気を消した。丁度その時だった、
ピンポーン!
インターホン軽快な音を立てて、モニターが呼び鈴を鳴らした主を映し出すのを確認するが早いか、私は玄関に小走りでかけていき、ドアを開けた。
「おかえりなさ、ひゃっ!?」
その人はドアを開けた私に倒れ掛かるように家に入ってくる。真っ赤になった顔を確認して、ようやくその人がシュン君だと分かるほどに泥酔している。
「しゅ、シュン君。おかえりなさい。……大丈夫?じゃなさそうだけど。」
「ゆ、ユイカー。ただいまー。やっとユイカに会えた……。」
「シュン君、ちょっとこんなところで、きゃっ!」
家に帰って来るのに全部の体力を使ったかのように、私を確認したシュン君の体から力が抜けた。私も身長は他の女性に比べれば高い方だけれど、当然大人の男性を支えることなんてできない。その結果どうなるか、簡単なことだ。私はシュン君に抱きしめられるようにして、玄関先でもたれかかられた。壁に寄りかかっていないと今にも倒れてしまいそうだ。
「しゅ、シュン君。ちょっと嬉しいんだけど、さすがにこんなところで横になったら風邪ひいちゃうよ。わ、お酒の匂い……もう、どんだけ飲んだのさ!」
「ごめんー。早く帰りたかったのに、ユイカを一人にしたくなかったのに。」
「そんなの別に気にしてないよ。お風呂入る?それとももう、ベッド行く?」
「んんー。ベッド。」
「それじゃ、シュン君肩貸してあげるから。一緒に行くよ。」
「ありがとー、ユイカー。」
足元がふらつくシュン君を支えながら、なんとか彼の部屋へと案内した。そのままベッドに一緒に腰を掛けて、私は微笑んだ。
「はい、到着。もうシュン君ったら飲みすぎだよ。早く帰るって言うからせっかく待ってたのに、きゃあ!」
私の言葉はそこで中断された。先ほどとは違い、明確に両肩を押して、シュン君が私をベットに押し倒されたからだ。私は困惑して、不安な声を出してしまった。
「しゅ、シュン君?どうしたの?もしかして怒った?」
彼は何も言わないで、押し倒した私の隣に横になった。至近距離で視線と視線が絡まりあい、お酒の匂いでクラクラしてくるとまるで現実離れしているよう気分になってくる。
「……好きだ。」
え?
「愛してるから、もう離したくない。」
ええええええええええ?!!!
「ちょっ、ちょっと待ってねシュン君。嬉しいんだけどその、心の準備が。」
今まで見たこともないような熱のこもったシュン君の顔を見て、私の心臓は相手に聞こえるんじゃないかと思うほどに大きな音を立てて鳴っている。
「大丈夫だよ……、楽にして……。」
「は、はひっ!」
笑ってしまうくらい上ずった声が出る。ふとシュン君が視界でブレた。そして首もとに鈍い痛みが走った。回らない頭でも、シュン君が私の首筋を甘噛みしたと気づくのにあまり時間はかからなかった。
このまま流れに身を任せてしまえば、私たちは二度と親子には戻れないんだろうな。どこか他人事のように考えながら、目の前のシュン君を見る。酔っぱらってどこか虚ろな顔は苦しそうに、悲しそうに見えた。
ふっと息をはいて、いよいよ覚悟を決めた。そして彼を受け入れるという気持ちを示そうと微笑んだ。
「シュン君、いいよ。きて……。」
私の声に誘われるように彼の顔が近づいてきた。そっと目を閉じて彼が触れるのを待つ。
しかしいつまでたってもその時はやってこなくて、薄目を開けて見てみる。すると
「zzz……」
私に覆い被さるような姿勢のまま、彼はいつの間にか眠り込んでしまっていた。
「ウソでしょ?!シュン君?シュンくーん!」
心の準備が完了して、いざ受け入れようと決めてからのまさかのお預けに、思わず変な声が漏れた。抱きしめられた胸の中で、シュン君の名前を何度も呼ぶが反応はない。完全にスイッチが切れてしまったようだ。もやもやした気持ちのまま、私は彼の胸に顔を埋めた。大好きな匂いと、汗とお酒の匂いがした。




