17.石鹸の匂い
「やあ桜井君、さっきのプリントなんだけどさぁ……。」
社会科準備室は僕ら三年生の教員が普段使わない二年生と一年生の職員室の隣にある、社会の先生のための特別教室だ。大量の社会科の機材やビデオ等の映像資料があり、この学校に赴任してきてすぐのころにあった施設紹介で初めて見た時は秘密基地的な薄暗さにワクワクしたと同時に、たぶんもう二度と来ることはないだろうと思っていた。そんな特別教室で僕は今、同僚の社会の先生に恐れかしこまっている。二人だけということもあって、彼は普段の丁寧語から素のくだけた話し言葉になっていた。その態度が逆に怖くて、僕は彼が何か続ける前に謝罪の言葉と共に深々と頭を下げた。
「本ッ当に申し訳ございませんでした!」
「なかなか難しくないこれ?」
「え?」
「さっきちょっと解いてみたけどけっこう時間かかるの。はいコレ、返しとくね。」
「あ、ありがとうございます。……ってあれ、先生もしかしてプリント解いていたんですか?」
先生に返してもらったプリントを見ると、僕が空欄に書き入れていた数字はきれいに消された跡があり、僕の字ではない数字が新たに書き入れてあった。新たな答案は最後の問題を残して全てを几帳面に埋めている。
「まあな。これでもパズルは大好物だから。というか最後のだけど、上から一列目を揃えてからが難しくない?」
「あー確かに分かります。下の方ってヒントが少ないのでちょっと考えないといけなくなりますからねー。」
手元に返ってきたプリントの答えの空欄部の隅には消されているが、うっすらと小さくメモした跡が残っていた。
「とりあえず楽しかったよ。この量をあの時間中にやり切るなんて、さすがは数学の先生だ。」
「いえいえ、あはは。それでは僕はこの辺で、次の時間の試験監督もありますので。」
よかった。どうやらあまり怒っていないようだ。僕は先生に褒められたことに気を良くして、上機嫌で三年職員室に戻ろうと扉に手を掛けた。そんな僕に、彼は先ほどと変わらない軽い調子で言葉をかけてきた。
「でもさ、テスト中に内職は良くないと思うね。」
「はい。……えあ?」
それまでの流れのまま、あまりに自然に放たれた言葉は意味を理解するために数秒を要した。彼は僕の方に向き直ってたしなめるような顔で言う。
「別に怒ってるわけじゃないんだよ。でも試験監督は生徒たちが不正なく試験を終えるためにしっかり努めてくださいって、今朝の職員集会で学年主任がおしゃっていたよね。もしかして本当に聞き逃してたの?」
「いえ……覚えてます。」
「桜井君ってさ、我が道を行くようなところがあるよ。別にそれは構わないけど、生徒の見えるところで教師が手を抜いていたらいけないでしょ。」
「……すみません。」
「もっと子供たちのこともよく見て、責任を持ちなよ。」
「はい、おっしゃる通りです……。すみませんでした。」
久しぶりに他の教師から冗談でなく、真面目なトーンで叱られてしまった。100%自分の非だと分かっているがゆえに何も弁解できず、僕は肩を落としながら準備室を後にした。
「はぁ。」
「あら桜井先生、辛気臭い顔してますね。いつもの間の抜けた顔の方がまだましですよ?」
ため息をつきながら背中を丸めてとぼとぼ職員室へと戻ろうとしていると、後ろから僕と同じ数学の教師である向井先生が話しかけてきた。彼女は一年生の担当の教師で、丁度教室から戻ってきたところのようだ。小脇に答案用紙が抱えられている。
「向井先生、酷いですよー。少しは『どうしたの?』とか心配して欲しいのですが。」
「大方あなたがヘマして叱られたんでしょ。分かってることは聞きませんから。」
「うぅ、確かにそうなのですけども。こういうときは少しくらい優しくしてもらえると嬉しいものなんですよ。」
「私はいつでも桜井先生に優しいですよ。なんなら今日の夜でも家に来ますか?一晩中励ましてあげますけど。」
先生は意味深に微笑んで、僕を見上げてきた。そんな彼女に僕はため息をついて首を横に振る。
「遠慮しておきますよ。向井先生もいろいろ忙しいでしょうし。」
「大事な大事な娘が待っているからですか?私よりも彼女の方がいいんですか?」
「な、何が言いたいんですか、もう。……っていうか励ますとか言ってますけど、先生に付き合ってたら家に帰れなくなっちゃいますもん。」
「あら、そう。残念です。一緒に飲む仲間が欲しかったんですけども。」
先生は思いのほかあっさりと引き下がった。大の酒豪である彼女と酒を飲むと間違いなく潰される。僕のような酒に弱い人を潰して遊ぶことが好きな彼女にしてはやけに諦めがよくて、僕は少し警戒した。
「どうせ僕がダウンするところを楽しもうとでも思ってるんでしょうが。さすがにもう嫌ですよ、また旦那さんに謝って泊めてもらうなんて。」
「いや、旦那は今海外だから……。」
以前家に行った際に会った向井先生の旦那さんを思い浮かべる。そういえば先生の旦那さんはこの春から単身赴任すると言っていたことを思い出した。旦那と言う言葉に彼女がちらりと悲し気な様子を見せたことを察知して「すみません」と謝る。
僕のことをいじっているようで分かりづらいけれど、先生は寂しいからわざわざ僕を誘ったのだろうか。そう考えると安易に断ってしまった自分の配慮のなさに申し訳なく思う。
さっきから自分の勝手さに反省してばかりだと思いながら、微妙になった空気を消すように僕は彼女の持つ解答用紙の束に目を向けた。
「そうそうユイカ、いや娘はどうでしたか。確か一年生の数学はもう終わったんでしたよね。あいつどんな感じでしょう。」
「女性と親密に話している時に別の女性の話をするなんて、嫌われますよ桜井先生?」
「あー気を付けさせてもらいますよ。でもとりあえず、僕と向井先生はそんな関係ではないので大丈夫でyしょう。」
「ふむ、そうですか。なら私の方からも言わせてもらいますが、そういう話については教師として他の教師から聞くのではなく、父親として本人と話してあげるのが一番ではないでしょうか。彼女も喜んでくれると思うのですが。……どうしました、急に黙り込んで。そんなボケっとした顔だと折角の整った顔が台無しになると思うんですけれど。」
「……いや、少し驚いてまして。」
「何が、でしょう?」
「向井先生ってお子さんいらっしゃらないのに、的な意味です。」
「桜井先生ってナチュラルに失礼ですよね。……別に、あの子ならそうしてあげた方が嬉しいだろうって、普段の彼女を見てれば分かりますよ。」
「確かにそうですね。ありがとうございました。帰ったら話をしよう、うん。向井先生、なんだか僕元気が出てきましたよ!それじゃ失礼します。」
「そりゃあどうも。まったくあの親バカ教師は本当に桜井さんのこととなると……。」
3時過ぎ。テスト週間中は午前で学校が終わるため、生徒たちはとっくのとうに下校して、廊下を歩いていてすれ違うのは教師たちだけとなっていた。ここ三年生の職員室でも先生方は、パソコンを立ち上げて必死に何か作業をしている一部の人を除いてお茶をすすりながら談笑しており、のんびりとした空気が流れている。テスト前後はまるで何かに憑りつかれるかのように忙しくなるが、テスト期間中は嵐の後と前の静けさというか、やらなければならないことから一瞬だけ解放されるのだ。
そんな先生方の横で相槌を打ちながら、テストの模範解答の作成していた僕はとりあえず完成のめどが立ち、パソコンをしまっていそいそと帰り支度を始める。他の先生と同じように談笑して時間を潰すのもいいけれど、向井先生と話した通り早めに帰ってユイカと話をしようと思っていたのだ。
鞄に一通り荷物を入れて立ち上がろうとしたとき、僕は鞄を机の端にぶつけてしまった。その拍子に机の上に置いてあった例のパズルの問題をプリントを落とした。
「おっと、しまったしまった。……ん?」
床に落ちる際にくるりと裏返しになったプリントの端に、何か図のようなものが描いてあることに気付いて手に取った。よく見ればそれは教室の簡単な見取り図。その壁の所々には黒丸でポイントされている。
「そういえば教室の汚れ、取ろうって考えていたんだった。」
午前中に叱られた内職中にプリントのパズルさえ終えて暇になってしまった僕は、暇つぶしに教室のシミをメモしていたのだった。そしてせっかく時間のある放課後にきれいにしておこうと考えたことを思い出す。
思い立ったが吉日と僕はいったん荷物を置いて、職員室の隅のあまり使われない掃除用具入れを開けた。職員室の備品らしくきちんと整理整頓された用具入れの中から僕はゴム手袋に雑巾とブラシ、そして白い粉末状の洗剤を取り出した。この粉末は普段使われないためあまり名前を聞くことがなかったが、担任クラスの環境委員会の生徒が掃除用具の点検をしている時に聞いたところによるとクレンザーと言って、かなり強力なシミ取りのようだ。
「桜井先生、掃除用具なんてもってどうしたんですか?」
僕の隣の席の先生が不思議そうに、掃除用具を持って今にもどこかに飛び出さんとする僕に尋ねてきた。
「ちょっと暇つぶしに行ってきます。」
「は、はあ……。」
彼女の怪訝そうな様子を気にせず、僕は職員室を出て自分の教室へと向かった。三年二組の教室は当然というか、誰もいないため電気は消されていた。しかし窓から入る初夏の太陽が教室を明るく照らしており、電気を点ける必要もなく教室は暖かい色に染まっていた。
「さてと、始めますか。」
そう独り言ちてゴム手袋をはめてから、尻ポケットに入れてきた見取り図を開いてシミの場所を確認した。その場所には遠目には薄くぼんやりとしか見えなかったが、確かにシミができている。書道の隅の汚れのような黒いシミをまずは軽く濡らした雑巾でこすってみた。
環境委員の生徒によれば、クレンザーは最後の切り札なのだという。どんなにしつこいシミも落とすことができ、これで落ちないのは壁自体の模様のみという最強の洗剤だが、これを使うと壁を削ってしまうこともあるので常に危険と隣り合わせ。いわゆるハイリスクハイリターンの代物なのだ。そのため使用には十分注意しなければならず、まずはそのシミが濡れ雑巾で拭き取れるものなのかを確認してから使用するようにと彼は言っていた。
「むむむ、かなり強くやっているけど落ちないなこれ。」
墨汁の汚れかと思ったが、そうでもないようだ。何度強くこすっても薄くならない。どうやら壁によく染みてしまっているらしい。
「しょうがない。早速これを使うしかなさそうだ。」
僕はとっておきと粉末クレンザーを取り出した。その粉を床や棚にこぼしてしまわないように慎重に、だが念入りに雑巾に落としてから「よしっ」と気合を入れて雑巾をシミへと近づけていく。そして……一拭き。
「お、おぉこれは……。」
雑巾を取り払った時には既に、壁を汚す黒く淀んだシミはきれいさっぱりと消え去っていた。まさに一撃必殺。否、一拭必殺。クレンザーの威力おそるべし。シミだけでなく、それまで何となく経年の変色があった壁はまるで新品のように輝かしい白色へと変わってさえいた。
「これは面白いな。」
僕は不敵な笑みを浮かべながら次の獲物へと向かっていく。今度の敵は天井近くの黄色いシミ。なにが原因かは皆目見当もつかないが、そんなことは今の僕には関係ない。
「ふっふっふ無駄無駄。ひとえに風の前のチリに同じ、ってね。」
近くにあった生徒の椅子を音を立てて引っ張って靴を脱いでその上に立ち上がる。背は高い方だけれど流石に教室の天井近くにあるシミに椅子なしでは手が届かないからだ。
高いところにあるシミを手を伸ばして一拭きした。しかしシミは消えなかった。手を伸ばしているため先ほどよりも力が伝わりにくく、きちんと拭き切ることができなかったのだ。
「っく、なかなかやる。でも、負けないぞ。」
僕はあきらめずに何度も何度も雑巾を走らせた。一度拭きで落ちないなら二度拭きで、二度で落ちないなら何度でも。一生懸命に雑巾で吹き続けるとシミはまるで根負けしたようにしだいにシミが薄く広がって行った。
「よし、もう少し。最後の一撃だ!」
一閃。僕の最後の一拭きは薄れていくシミにとってのとどめの一撃となった。壁を見るまでもなく分かる完勝に、僕はしばしほうっとため息をついてその余韻に浸った。しかしその目にはもう次のターゲットが映っていた。
「よし、次はお前だ!」
そう言って僕は新たなシミへと向かっていった。。。
ジャーー
僕は敵に完全勝利した達成感を味わいながら、シミで汚れた雑巾を水道で洗っていた。最初は思い入れも何もなかったこの掃除用具にも厳しい戦いを共に乗り越えた今となっては戦友のような連帯感を感じていた。だからこそシミで黒くなってしまった雑巾には敬意を持ってしっかりと洗い流していく。これは僕から相棒へのねぎらいだ。
「これでよし、と。」
雑巾を洗い終わった僕は、今度は自分の手を石鹸でごしごしと洗う。別にゴム手袋をしていたから汚れているはずはないが、家でもやっている習慣ゆえに、掃除の終わりはつい念入りに手を洗ってしまう。
「あ、先生?!」
「ん?って一ノ瀬!」
ハンカチで手を拭いていた僕が少女の驚いたような声に振り返ると、そこには学級委員の女子生徒、一ノ瀬が立っていた。
「どうしたの?とっくに皆帰ったと思っていたんだけど。」
「あ、私は自習室に行っていて。帰ろうとしたんですけど、その……忘れ物しちゃって。」
「ああ、そういうことね。」
この学校にはテスト期間に生徒たちに開放される自習室がある。自習室、といっても学習塾のような整った設備などはなく、ありのままに言うならば空き教室に机を並べている本当に自習ができるだけの空間であるのだが。
「俺が言うのもアレだけど、うちの自習室使ってる人っていたんだ。」
「一応私含めて5人いたんですよ。あはは。」
「秋になってくるとまあ人は増えるけど、今から使ってるなんて偉いよ。流石は一ノ瀬だ。」
「私なんてそんな。今の第一志望が難しいところですので。」
「そうだったな。ま、受験勉強も結局普段の勉強の積み重ねだよ。頑張って。」
「はい!」
それじゃあと掃除用具を持って立ち去ろうとする僕を、彼女はどこか切羽詰まったように呼び止めた。
「あの、桜井先生!」
「何?どうかした?」
「私、今少し……悩んでることがありまして。」
「どうした?俺でよければ相談に乗るけど。」
僕は改めて彼女の方に向き直った。高校生にもなると生徒たちは自分の悩みごとを一人で解決したり自分の中で我慢することが多く、悩みごとを相談しにくる子は少ない。目の前の少女もどちらかといえば一人で我慢したり解決してしまう生徒なので、僕に相談にくるのは意外で、心の中で思わず身構えてしまった。
「あの、えと……」
「?」
「なんというか、その……。こんな個人的なことを先生に相談していいのか、そもそも悩んでいるんです。」
「いいよいいよ。個人的なこともどんなに些細なことでも問題なし。君らの悩みを聞いて一緒に悩むのが俺の仕事だしね。って一緒に悩んでちゃダメかちゃんと解決させないと、はははっ。」
「……やっぱり、いいです。本当に個人的なことなので。」
「そう?……別にそれならいいけど。」
「ごめんなさい、先生が珍しく人の話を真面目に聞いてくれてたのに。」
「いや俺はいいんだけど……珍しく?ひどいなあ。俺はいつも真面目な気がするんだけど。するんだけど?」
「ふふ、そうでしょうか。桜井先生、今日テスト中に別のことやって注意されてたって聞きましたよ。」
「うっ。よく、ご存じで。」
目を逸らす僕に、彼女はいつも教室で見せる柔らかい笑みを浮かべてたしなめるように見上げてきた。彼女はその見た目と同様に包容力というべきものを持ち合わせている。これじゃあどちらが先生なのか分からないな、そう思っていると、
「なんか先生と話していると悩みが消えたわけじゃないけど、安心します。ありがとうございました。それじゃあ先生、また明日。」
「おうまた明日ね。」
にこっと笑って立ち去ろうとする後ろ姿に、僕は何か言わなければならない、そんな予感がして気付けば僕は彼女を呼び止めていた。
「一ノ瀬!」
「はい?どうしました?」
「その、なんだ……一人でムリはするなよ?」
僕の言葉に、パッと彼女は振り返った。そして僕の方に近づいてくると僕の手を取る。
「ん?どうした?」
「あの、何も相談しないうえに自分勝手とは分かっているのですが。私、先生にこうして欲しくて……。」
彼女は僕の手を両手で包んで自分の顔の高さまで上げてくると、自分の頭を僕の手に触れさせた。
「すみません。子供っぽいとは思うのですが、その、頭撫でてもらえませんか?」
「頭を?」
物静かで大人びた少女にはおおよそ似つかわしくない僕への”おねだり”に面食らった。しかし彼女の赤らんだ顔を見ていると、僕の方が恥ずかしくなってきた。
大体教師が生徒の頭をなでるなんて普通嫌がらないだろうか。今の女子高生はそういうスキンシップも普通なのか。身近な存在であるユイカを思い出してみるが、あいつは親の目から見ても例外の父親っ子だと思うので参考にはならなかった。僕が頭をなでるのに戸惑っていると、彼女は囁くように言った。
「あの、誰にも言わないし、秘密にしますので。お願いします、桜井先生。」
「う、うん。じゃあはい……よしよし一ノ瀬。」
撫でながら僕は凄く照れていた。小学校の教師ならいざ知らず、高校三年生の女子生徒を娘のように撫でるのは教師生活でもあまりない経験だ。一ノ瀬は下を向いて僕に撫でられるがままになっているため、彼女の今の表情は読めない。
そのまま時間にすれば1分ほど僕は無言で撫で続けた。やがて満足したかのように最初と同じく僕の手を両手で包み込むとそっと下ろしてくれた。
「あの、ありがとうございました。元気が出ました。」
「うん、……それはよかった。」
「……」
「……」
無言の間が気まずい。見れば一ノ瀬の方も顔を真っ赤にしてうつむいている。確かに教師に頭を撫でさせるなんて滅多にやることではないし、それが甘えん坊な生徒ではなくあの学級委員とは誰が思うだろうか。
「先生。あの、すみませんでした。私誰にも言わないのでどうか秘密にしてください。私何でこんな、恥ずかしくて……。」
「あー。いいよ気にしなくて。ちょっと驚いたけど一ノ瀬が吹っ切れたならよかったと思ってるし。」
「先生……」
「ほら、そろそろ帰るんでしょう?気を付けてね。」
「あ、あの先生、宜しければまた、今日のように頭を撫でてもらえないでしょうか。二人だけの時にこっそりとでいいですので。」
「……分かった。それで悩みごとが少し晴れるならね。」
小走りで校門へと向かう少女を窓越しで見ながら僕は一人で物思いにふけった。一年生のころから見てきた一ノ瀬加奈という生徒は成績優秀の模範的な生徒であり、教師の間でも話題になるほどであった。
少なくともこれまでの彼女は先生に撫でて欲しいと甘えてくるような生徒ではなかった。そんな彼女の悩みとは何なのだろう。前に彼女の父親が単身赴任中で寂しいという話を聞いたが、そういう寂しさからくるものなのなのか。それとも受験や将来の不安とかそういったものなのか。もしくは人間関係や、考えたくはないがいじめなどがあるのだろうか。
様々なことに頭を巡らせて、僕は最終的に静観することに決めた。どんな悩みを彼女が抱えているのかは分からない。それでも彼女が自分の中に抱え込んで隠さず、外に出してくれたことは非常に意味のあることだと思う。一ノ瀬が悩みを打ち明けてくれるよう、できる限り僕の方でも手を尽くしていきたいと考えた。
「ただいまー。」
いつもよりだいぶ早い時間に僕は帰宅した。僕の帰ってきた音を聞きつけてリビングからこちらへ全速力で走ってくる音が聞こえた。
「シュン君おかえりなさい!!今日は早いんだね。すごく嬉しい。」
「ただいまユイカ。いつも遅くてごめんな。」
オシャレなワンピースにエプロン姿で娘のユイカは嬉しそうに満面の笑顔で僕を出迎えてくれた。毎日飽きもしないで走ってくるその様子はまるで飼い犬のようだが、さすがに娘に失礼なので犬っ可愛がりすることは控えている。
「ううん気にしないで、それでねシュン君、ご飯にする?お風呂にする?それとも……わ・た・し?」
今更そんな会話は若いカップルでもしないよと苦笑しながら僕はご飯をお願いする。
「ごめんね。ご飯まだ準備できてないの。それでねお風呂もまだ沸かしてないの。」
「はいはい。」
「だからぁ、」
彼女は僕の胸元に右手を添わせてきた。
「私にするしかないね……。」
そう言って彼女は目を閉じると僕の方に顔を向けた。紅潮させた顔は逆に必死な感じが出ていて、僕はただ娘の頭にポンポンと手を乗せた。彼女は目を見開くと怪訝な顔をして、父親の触れたところを撫でた。
「シュン君?どうしたの頭なんか撫でて、もしかして私の……」
「ユイカって悩みごととかは無い?」
「うーん、シュン君との結婚式をどこでやるかとかどのくらい人を呼ぶかとか、新婚旅行はどこにするかとか色々あるかなー。」
「はは、面白いね。じゃあ学校では?」
「桜井先生が好きすぎて違う学年の担当なのが悩みかな。」
「そっか。悩みが無くていいね。」
「な!!こんなに悩みがあるのになんでシュン君は……」
ぶつぶつ言うユイカの頭を優しくなでながら、僕は頬を緩ませた。一ノ瀬と比べてなんて分かりやすい子なのだろう。どう接していいか分からないことはあるが、彼女は僕を慕ってくれている点ではすごく分かりやすい。
「何さ、今誰か別の人のこと考えたでしょ!もう私といるときは私のことだけ考えていて欲しいのに。」
「はいはい、ごめんね。ユイカは今日も可愛いな。」
娘は僕の言葉に花が咲いたような笑顔になる。しかしその顔をふと戻して僕の両手をぎゅっと掴んできた。その仕草に僕は少しドキッとする。
「どうしたのユイカ?」
「なんかシュン君。いつもと違う匂いがする。もしかして、女の人と遊んできたりしたの?」
やましい気持ちなど無いのに、なぜだか思い切りドキッとして僕は慌てて否定した。別に隠す気は無いはずなのに一ノ瀬の頭を撫でたことも咄嗟に隠してしまった。
「してないしてない。どうしてそうなるんだよ!放課後に一人で掃除してね、その後石鹸でよく手を洗ったんだよ。たぶんその匂いだろう。」
ユイカは僕の手にもう一度くんくんと鼻を近づけた後、そっかと一応納得の顔を見せて笑った。
「まあいいや。シュン君今日はね、スーパーで夏野菜が安く売ってたんだ。だから夏野菜でカレーを作ってたんだよ。」
「おお、さっきからいい匂いがすると思ったらカレーか。じゃあ俺もちょっと手伝うよ。」
「本当?二人の共同作業だね、きゃ。」
「はいはい。」
色々悩みごとはあるけれどそれはひとまずそれは置いといて、僕は娘に手を引かれてリビングへと向かった。




