12.朝寝坊
7時過ぎに僕が帰宅すると、ちょうどユイカが晩ごはんを作っている最中だった。リビングに入るなり美味しそうな匂いが漂ってきて思わずお腹が鳴ってしまった。
「シュンくんお帰りなさい。丁度ご飯が作ってるところなんだけど、先にご飯にする?それともお風呂にする?」
「んーご飯がいいな。お腹すいたしね。」
「わかった。ちょっと待ってて。」
そう言うと彼女はそっとフライパンのふたを取る。フライパンの中身は二つのハンバーグだ。ふわっとした湯気とともに香ばしい香りがより一層僕の食欲を掻き立てた。ユイカは手慣れた手つきで二人のお皿にハンバーグと付け合わせの温野菜を盛り付ける。美味しそうな匂いと食欲をそそる見た目に釘付けになっていると、
「その間にシュンくんは早く着替えてきてよ。準備して待ってるからさ。」
と、ユイカにたしなめられてしまった。
こんな風に差し障りのない普通の会話はできているが、お互いの気まずさから二人の間にはこれ以上近づけない距離がある。普段のユイカならここで僕にハンバーグの出来について褒めてもらおうと動いているはずなのだ。僕は「了解」と言うと、こっちをあまり見ようとしない彼女に背を向けて、自分の部屋へと向かった。
娘に急かされるままに部屋に行って着替えてから戻ってくると、ケチャップのたっぷりかかったハンバーグの他に、ご飯とコンソメスープが見栄え良く並んでいた。僕は既に向こう側を向いて座っているユイカの反対側に回ってその向かいの席に着いた。
二人が食卓に着くと、別に図っているわけでもないがぴったり同じタイミングで手を合わせていただきますをした。そのままイの一番にハンバーグに手を伸ばす。
「…おいしい!」
表面を噛みしめた瞬間に、中からジュワっと肉汁が染み出てきた。牛肉の合間合間に入ってくるプリっとした玉ねぎのアクセントも絶妙だ。それに喉を通った後の爽やかな香りは隠し味として何か使っているのだろう。
娘の手料理は相変わらず美味しくて、しばらく無心で箸を動かしていると、向かいから視線を感じて顔を上げた。すると箸を咥えたままユイカはちらちらと僕のことを見ていた。
「ん?どうかしたの?」
「あ、ううん。別になんでもないよ。美味しそうに食べてるから嬉しいなって。」
そうは言っているが彼女の顔はちっとも嬉しそうな顔じゃない。長年の経験から言えば、これは何か不満なことがあった時の顔だ。僕の前ではあまり不満や文句を言いたがらない彼女にしては珍しい表情である。
「……あ。」
「あ、あのさ、ユイカ。学校で何かあった?」
ちらちら見てくる彼女は僕の言葉に慌てたような顔で「何でもないってば」と言って目を逸らしたが、その突き放したような言動とは裏腹に気が付くと僕のことをじっと見つめていた。
「どうかしたの?俺の顔に何かついている?」
「何もついてないよ。たまたま目が合ってるだけだって。」
自分でも言い訳が苦しいと思ったのか少し早口でそう言うとスープをすすった。
「そっか、でもなんていうか、そうやって無言で見つめられると結構気まずいというか…。」
「…ごめんなさい。」
ユイカの低い声色に、僕はしまったと思ったがもう遅かった。彼女は傷ついたように顔をゆがめると自分の手元に集中するように下を向いた。それっきり僕の方に視線を向けてくる感じは無かったが、彼女からは必死に僕の方を見ないように押さえているのが感じられた。
結局それっきり話が弾むこともなく、夕飯が終わり、僕はユイカの次に風呂に入った。彼女は風呂から上がってからはずっと自分の部屋にこもってしまい、その晩はそれから顔を合わせることは無かった。
ちゅんちゅんちゅん
外から聞こえるスズメの鳴き声に朝が来たことを感じて僕は目を覚ます。まぶたを開くと窓の隙間から差し込んでくる朝陽が当たって目がちかちかした。温かい布団に包まれながら朝の少しひんやりとした空気を吸う。なんてすがすがしい朝なんだろう。今日は珍しく目覚まし時計の音に起こされなかったので、なんとも言えない満足感が心を満たしていた。……ん?
「あ、しまった!!」
慌てて枕もとの目覚まし時計を見ると、いつもよりもだいぶ遅い出発間近の時間が表示されている。嘘だと思って目をこすってからもう一度見るが、二つの針の指している時間は変わらなかった。
「やば、寝坊した!朝ごはんは…準備してる暇ないな。それとユイカは?!」
そう思うや否や自分の部屋を出て廊下をリビングの方へ早歩きで向かった。困ったことにリビングの電気はついていない。娘はまだ自分の部屋にいるのだ。
「おい、ユイカ!起きてる?ごめん、お父さん寝坊したから朝ごはんは買って…ユイカ?」
僕がいくら呼び掛けても反応が無いことや、扉の隙間から光が漏れ出てないことに若干の違和感を感じながら呼びかけを続けた。
「おーい、ユイカ。そろそろ準備して…。」
しかしその部屋の主からは未だ一言も返事が来ない。僕はしびれを切らしてドアノブに手を触れた。
「ユイカー。もしかしてまだ寝てるのか?ちょっと入るぞ、いいか。」
扉を開けると真っ暗な部屋。僕の部屋の物よりやや厚手のカーテンは南向きの彼女の部屋の窓に差し込んでくる光を完全に遮断している。僕は真っ暗な中、手探りでドア側の壁にある部屋の電気のスイッチを見つけ、押して電気を点けた。
彼女は案の定、まだベッドで布団をかぶってすやすやと眠っている。僕はユイカの寝ているベッドに近づくと、掛け布団をゆすりながら声をかけた。
「ユイカ、朝だよ。起きないと遅刻するよ?」
「ん……」
相当深く眠っているようで、中からくぐもった声が聞こえてきただけで、娘が起きた気配はなかった。このままではいつまでたっても起きなそうなので、僕は掛け布団を取ることにした。
「ユイカ、早く起きな?布団取るからね。」
恐る恐る彼女が頭から被っている布団をはがしていくと、
「うぉっ!ユイカ!?」
娘は布団の中で膝を抱えるように丸くなって眠っていた。僕が驚いたのはその姿だった。
僕の妹のレナが、ユイカのためにと妙な気を利かせて買った下着姿で寝ている彼女は、丸まっていてちょうど腕や足が大事なところを隠しているため一瞬全裸で寝ているのかと思った。目を背けながら「ユイカ、朝だよ。」と改めて起こしにかかると、布団がはがされて肌寒くなったためかようやく目が覚めたようだった。
「あ、シュンくん。…おはよ。」
「おはよう、ユイカ。ヤバい遅刻するよ。」
「え?…わっ!もうこんな時間なの!?」
ユイカが背後で飛び起きたことを感じ、僕は立ち上がって扉の方へと向かう。今振り返れば間違いなく娘の寝起きの下着姿が目に入ってしまうのは分かっていたので振り返らずに声をかけた。
「今日は車で連れて行くからとりあえず支度をしておいて。朝ごはんはコンビニで適当に買っておく。車の中で食べよう。」
「うん…。」
娘の妙に恥ずかしそうな声を聞きながら、僕は部屋を後にした。
「桜井先生が寝坊なんて珍しい。それで今日は珍しく学食に行くんですね?」
「まあそうなんだよね。はぁ、なんで寝坊したんだろう。」
僕は昼休みに学食に来ていた。朝寝坊したのでいつも持ってきているお弁当も今日は作れていない。なので珍しく僕は学食までの道を歩いているのだ。ユイカにも昼は学食か購買部で買うように言ったのでもしかしたら会うかもしれない。
「それにしても僕、すごく嬉しいんですよ。心強いって言うか。いつも自分ひとりで行っていたので。」
「なーに子供みたいなこと言ってんだ。ってか君は一人じゃないでしょ。」
僕と一緒に学食に向かっているのは若い体育の山崎先生。モデルと間違えられるほどの高身長のイケメンでこの学校に入って早々女性教師陣だけでなく、女子生徒や保護者を虜にしてしまったのだ。うちのクラスでも昨日の昼、体育祭の看板を制作していた中野絵里が話しているのを聞いたが、他にも何名かが彼にメロメロなのだということは普段の彼女たちの話を聞いていれば分かった。
僕は呆れながら後ろを向くと、両手では収まらない人数の女子生徒が僕たち、というより山崎先生の後ろを付いて歩いて来ていた。みんな目をハートにしながら彼に話しかけてきているが、彼の顔が若干引きつっていることに気付いているのは僕だけなのだろうか。
「え?女性が怖い?」
「僕、ずっとスポーツをやって来た人間で女の子と話した経験もあんまりなくて…。」
彼が新任の時、たまたま二人で仕事していると彼は僕にそうカミングアウトしてきた。授業中はまだ我慢して話すことはできるが、なんと学校一モテる若い教師は女性を怖がってまともに話すこともできないのだ。また普通これだけモテれば男子には嫌われそうなものだが、彼が女子生徒たちを避けて男子とばかり話しているため、男子生徒にも人気が高いのは皮肉なものだ。
「先生、午後の授業は何やるんですか」
「え、マット運動だけど。」
「えー私マット苦手なんです。先生怪我しないように見ていてくれませんか♥」
「あ、うん。分かりました。」
「ズルい私だって見て欲しい!」
「私今日は見学なので先生の隣で見学したいな。」
「………」
「先生と一緒にお昼楽しみー!今日はそのために学校来たって言っても過言じゃないから。」
「あんた昨日もおんなじこと言ってたじゃない!」
「…あ、あはは。」
今もきゃあきゃあとにぎやかに話しかけてくる女子たちに山崎先生は冷や汗を流しながら笑っている。よくもまあそんなに女性が怖いのに、毎日毎日わざわざ生徒たちの多く集まる学食に行くものだと思ったが、口には出さないでおいた。その代わり僕は彼の後ろを磁石のようにくっついて歩く少女達に口を尖らせた。
「おいおい、まるで俺がいない人みたいに扱うのは勘弁しろよ。」
「うるさいなぁ。だって桜井先生は山崎先生のおまけでしょ。」
「失礼だな!?怖いわー、最近の女子高生は怖いわー。」
「あははは。」
「あの、みんな桜井先生とも仲良くご飯食べましょうね?」
「「「はーい♥」」」
「なんで山崎先生の言うことは聞くのに俺の言うことは聞かないんだよ!」
「だってー、山崎先生の頼みなんですもん。嫌でも聞くしかないでしょう。」
「うん、やっぱ酷いわ君たち。」
僕はまるで道化か何かのように生徒たちの笑いを誘った。別にそういう所に収まろうという気持ちは無かったが、山崎先生が不憫に思えたので助け舟を出したのだ。
ちなみに男子生徒に嫌われていない山崎先生だが、こうして女子生徒たちを引き連れている所に入って来れる男の人というのはなかなかいないため、いつも実質一人でご飯を食べているらしい。
彼は姦しく話している女子たちをしり目に僕にこっそり耳打ちしてきた。
「桜井先生、ありがとうございます。助かりました。」
「モテ男も苦労するなぁ。」
「別に好きでモテてるわけでは…。僕は桜井先生が羨ましいんですよ。」
「それは嫌味?」
「違いますって!女の子と普通に話ができるし、笑いが取れるし。」
「そりゃどうも。まあ早く慣れて怖くなくなるしかないね。」
「そうなれば苦労しないんですけどね。」
モテすぎる男にも彼なりの悩みごとを抱えているのだ。
そうこうしているうちにようやく学食へとたどり着いて僕たちは、自分たちの座れる座席を探す。
「あそこなんてどうでしょう?」
山崎先生が指さした先は丁度団体が出て行った席で、僕たち全員も何とか座れそうなくらいに席があった。
「じゃあ桜井先生はここに座ってください。」
「ん。おっけー。」
彼はさりげなく自分の右隣に僕を指名し、その隣に自分が座った。右隣は先に座っていた男子生徒がご飯を食べており、彼は自分の隣を素早く男で囲んだのだ。女子生徒たちを近づけさせないという涙ぐましい努力に思わず苦笑してしまった。
「ええー。私だって隣がいいです。桜井先生じゃなくて私を隣にしてよー!」
「今日はうちが山崎先生の隣の日なんですけど!」
「あーもう一々うるさいなぁ。俺はどうせ今日しか学食には来ないわけだし、いいじゃん今日くらい。」
「え?!桜井先生、明日は来てくれないんですか?」
「頑張れ山崎先生、強く生きろ。」
精一杯の笑顔でサムズアップをしてみせると、山崎先生はまるでカタカタカタと崩れ落ちて行ってしまうかのような顔をした。この先生、どれだけ女性が嫌なんだ。
久々の学食、そして久々のユイカ以外の女の子との食事は思いのほか楽しかった。途中何度も真っ青な顔をして生徒たちのおしゃべりに返事をする山崎先生には、悪いが笑ってしまった。そんな楽しい昼食を終えて、授業の準備があるからと生徒たちを置いて学食から逃げるように出て行った山崎先生の後を追い、僕も学食を出た。
「先生、唯華の機嫌が悪いんだけど。何かあったの?」
渡り廊下を歩いていると、後ろから男子の声が聞こえた。僕が振り返るとそこには彼女と同い年の男子生徒が怒ったような顔をしながら立っていた。




