10 空を駆ける
伊野さんは、いた。
気付いたら俺は駆けだしていた。
頭の痛みも、体も痛みも、全てを無視して走った。
もう画面なんて見なくても、この目で見える。
笹峰が現れた脇道の前。車道のちょうど真ん中辺り。
そこに、伊野さんが来ていた。
「い、伊野さぁぁん!」
叫ぶように名を呼ぶと、伊野さんがこっちを向いた。
気付いた。
だけど、なんだ。
様子が変だ。
伊野さんはしきりに首を動かし、自分が来た方向を気にしている。
その時、棍棒のような物を振りかぶった男が、脇道から躍り出てきた。
どう見ても味方とは思えない。
すぐに理解した。
狙われているんだ。
助けないと!
焼きつくような焦燥が胸を駆け巡る。
その時、
「逃さないよ」
斜め前方から声が聞こえた。笹峰だ。
無視して突き進もうとするが、視界の端で腕を動かしたのが目に映る。
その刹那、俺の正面の景色が僅かに歪んで見えた。
腕がくる――そう直感した俺は、足に意識を集中した。
空間の歪みを、笹峰を、跳び越えてやる。
「うおおおぉぉああ!」
着地点を奴の後方に定め、踏み切った。
上から引っ張られるような感覚に全身を委ねる。
次の瞬間には、俺は街路樹の上から笹峰を見下ろしていた。
腕は回避した。
次は。
ベルトから砂の風車を抜いた。
驚きで目を見張る笹峰に一瞬で狙いを定め、《砂塵の烈風》を真上から放った。
容赦ない砂と風の圧力。
笹峰は短く叫ぶと、押し潰されたように地面にひれ伏した。
そのまま笹峰を越え、車道に着地。
振り返らず再び駆けだした。
前を見ると、伊野さんが顔の前で青い傘を開いていた。
男の攻撃をそれで受け止めたのだ。
盾のようなアイテムだろうか。
今度は押し返すように傘を突き出すと、男は後ろに下がり怯みを見せた。
その隙をついて、伊野さんがこちらに向かって駆けだす。
開いた傘が邪魔だったのか、それを放り出して。
「伊野さん!」
「久綱さん!」
伊野さんが手を伸ばす。
その手を一秒でも早く掴もうと、俺も手を伸ばした。
伊野さんは、いた。
やっぱりいたんだ。
探してよかった。
探し出せてよかった。
あと少しだ。
もう少し。
しかし、彼女の後ろから男が怒号を上げ、猛烈な勢いで迫り来るのが見えた。
振り上げられる棍棒。
近くで見ると、鋭い刺が幾つも付いているのが分かる。
俺は、深い絶望感に襲われた。
うそだ……そんな。
このままじゃ、間に合わない。
あと一歩だというのに。
どうすればいい。
「伊野さん、目を閉じて!」
俺は咄嗟にそう叫んだ。
こんな時に無茶なお願いだったと思う。
それでも伊野さんは目を閉じて足を止めた。
俺は走りながら砂の風車を構え、《砂塵の烈風》を発動させた。
押し寄せる砂風が、彼女もろとも男を飲み込んでいく。
息を全て吐き出し、腹の中心が絞られるように痛む。
だが、俺は足を止めなかった。
濛々たる砂煙の中に突っ込む。
かたく目を閉じている伊野さん。そのすぐ後ろで、目を押さえて喚く男。
俺は、伊野さんの横をすり抜けると、
「うらあああああ!」
力に任せて男を殴りつけた。
拳が頬にめり込む。
男は口から鮮血を噴き出しながら、盛大に吹っ飛んだ。
「久綱さん、あっち!」
その声に俺は振り返る。
今度は、笹峰が向こうの砂煙から這い出てくるのが見えた。
奴の能力は厄介だ。
それに跳躍も風車も、もう通用するか分からない。
だが、まだ打つ手はある。
俺は手早く大入道を具現化させ、柄の端の方を握った。
ずっと考えていた。
この扱いづらい薙刀。
一振りごとに大きくなってしまう大入道。
だいたい素人が扱える武器じゃない。
それを有効に使うには――。
笹峰に向けて放り投げた。
大入道は、ブーメランのようにぐるぐると回転しながら飛んで行き、またたく間に巨大化した。
「あ、うあああああ!」
笹峰が悲鳴を上げ、腕を宙で泳がせる。
片側二車線からはみ出すほど巨大化した大入道が、伸し掛かるようにして笹峰を押し倒した。
……うまくいったか。
けど、まだ安心はできない。
俺は伊野さんに駆け寄り、横にして抱き上げた。
「え?」
そして片膝を突き、
「しっかり掴まって」
空に向かって跳んだ。
景色がめまぐるしく変化していく。
視界は大きく開け、ジェットコースターのように緊張、疾走、弛緩を繰り返し、空を駆けていく。
もっとだ。
もっと高く、もっと速く。
縦横無尽に駆け抜けるんだ。
助走をつけ、デパートの屋上から跳び出す。
腕の中の伊野さんが、驚嘆の声を上げている。
どんな表情をしているんだろう。
怖くないだろうか。
砂風を浴びせたこと、怒っていないだろうか。
こんなに近くに顔があるのに、怖くて見られない。
ああ、でも……見つけられて、本当によかった。
俺は腕に力を込めた。
ビルを越え、線路を越え、河川を越え、夢中で跳び続けた。
そして、住宅地にあるアパートの屋上までやってきた。
一つ、二つ、呼吸をし、むりやり息を整える。
「ここまで、来れば……もう大丈夫」
腕の力を抜くと、伊野さんがゆっくりと離れていった。
「……」
「……」
彼女は何も言わない。
俺は顔を上げられなかった。
やっぱり怒っているのだろうか。
そうだよな、怒っているに決まってる。
砂風もそうだけど、俺がこんなアプリ紹介したばかりに、伊野さんをデスゲームに巻き込んだんだ。
謝らなきゃ。
「……ごめん。俺が昨日、アプリを教えなければ、こんなことには……。本当にごめん!」
頭を下げると、普段あまり聞かない伊野さんの静かな声が聞こえてきた。
「頭を上げてください」
頭を上げると、伊野さんは少し硬い表情で俺を見ていた。
屋上に吹く風にゆるやかな美しい目をやや細め、太陽の光を受けてつやつやと輝く栗色の髪の一束が鼻にかかっている。それを細い指ではらうと、口元にふと微笑みの兆しが見えた。
「……ありがとう」
「え?」
「探してくれて、助けに来てくれて、ありがとう、ございます」
「そんな、そんなこと……」
言葉が続かなかった。
文句を言われるならまだしも、礼を言われるなんて。
こんな時、何と言えばいいのか俺は知らなかった。
ああ、だけど。
「無事で……無事でよかった……」
「……はい」
伊野さんはそう短く応えると、穏やかな笑みを見せた。
どうやら怒ってはいないみたいだ。
とりあえずは、よかった。
そう思ったら、なんだか急にほっとしてしまった。
すると、突然伊野さんが吹き出した。
「ぶふっ! あっはははは!」
「!」
身をよじって笑っている。
わけが分からない。
見ていない間に男に頭でも殴られて、おかしくなってしまったのだろうか。
いや、そもそもあの棍棒で殴られたら、ひとたまりもないはずだ。
いったいどうしたというのか。
「だって、怖かったんですもん。朝起きたら変なことになってるし、知らない人に襲われるし。久綱さんにいきなりお姫様抱っこされて、あんな高いとこまで跳んで。怖かったんですよ? でも今、ここに来たらなんか安心して、そしたら急におかしくなってきちゃって」
目の端に涙を浮かべ笑っている。
あんまりおかしそうに笑うから、俺までつられてしまう。
どうやら張り詰めていたものがぷっつり切れたようだけど、それは俺も同じだった。
本当に、無事でよかった。
二人でひとしきり笑った後、俺はもう一つ謝らなくてはいけないことを思い出した。
「ああ、そうだ。さっきの砂風……大丈夫だった?」
そう訊くと、伊野さんは「砂だらけだよ」と不服を述べるが、その声色は柔らかい。
大げさな仕草で服まで叩きだした。
「ごめん」
その姿を見て、また頬が緩む。
すると伊野さんは「あっ」と声を上げ、手をピタリと止めた。
「そんなことより久綱さん、怪我してるじゃないですか!」
「え? ああ……」
頭のことか。
そういえばそうだったな。でかい石で殴られたんだった。
すっかり忘れていた。
ちょっとクラクラするし鈍い痛みが残っているけど、平気じゃないかな。多分。
ああでも、伊野さん支援タイプだったっけ。
痛がったら治してくれるのだろうか。
悪くないな。
……いや待てよ、回復のアイテムを持っているとは限らない。
それだと気を遣わせちゃうな。
それに、あまり心配させるのも、どうだろうか。
「うん……大丈夫。たいしたこと、な……あ、あら?」
景色がぐらりと傾いだ。
地震か?
あいや、俺が傾いているんだ。
まじかよ。
俺、このまま……死な、ない……よな……。
【プレイヤーデータ】
Name:笹峰康介
Type:能力
装備:[能力]隠蔽…自分のタイプを隠す
:[能力]空間歪曲の腕輪…装着した腕を視界の任意の場所から出現させる 最大距離70メートル
ただし具現化したアイテムは空間を通過できない また、出現する腕の向きは使用者に連動する
:[攻撃]なし




