花冷え(3)
「敗ける、とは。」
大井中佐の目と口調が、心持ち厳しさを帯びたように感じた。が、言ってしまった。(もはや、これまで)。腹をくくった三井大尉は、続けた。
「決戦で敗けるか、海上通商路を寸断されるか、それは分かりません。と、いうより、わが海軍は、その両方に直面するのではないか、と考えます。」
じっと三井大尉の顔を見ていた大井中佐は、小さくため息をついた。
(やってしまったか)と三井大尉は思った。
少しの沈黙の後、ぽつりと、大井中佐は話した。
「そのとおりだと思う。君と全く、同意見だ」
三井大尉は目をむいた。
少しの間、沈黙が流れた。
表通りを走る路面電車の音が、微かに流れた。雨が、上がっている。
「そこまでわかっているのならば、話は早い」
(一体、何を話し出すのだろう)三井大尉は思った。
大井中佐は続けた。
「君の言うとおり、このままのいくさを、だ。」
大井中佐は窓のほうに視線をやった。三井大尉は、大井中佐の口元をじっと見ている。
「前動続行で続けていれば、海上護衛戦で負けることは目に見えている。それは、君の言うとおりだ。これの意味するところは何だとももう。」
引き込まれるように、三井大尉は答えた。
「軍事的に徹底的な敗北です」
「具体的に、端的に行ってくれ。行きつく先だ。」
「内南洋を占領されます」
「それだけで済むか」
「フィリピンを奪還されます。いや、台湾か沖縄を占領されます」
「本当にそれだけか」
「最後は、日本本土に対する米軍の上陸がありえます。国土は、敵軍に蹂躙されます。」
三井大尉は、そこまで答えた。
「そうだ。要するに、日本本土、この島を取られる、ということだ。」
小さく、しかしはっきりと大井中佐は言った。
「君、それは許せるか」
「断固、否です」
三井大尉は答えた。
「三井大尉」
不意に、しかし明瞭に、大井中佐は言った。
「今から話すことは、軍機に属する。心して聞いてほしい。」
大井中佐らのまっすぐな視点を、三井大尉は受け止めた。
「今、陸軍から、絶対国防圏という構想が出ている。」
そういうと、掌を組んで視線を落とした。大井中佐は、続けた。
「要するに、戦線を下げる、ということだ。ソロモンも、ニューギニアの大部分も放棄する。南方の資源環送に関係ある要所だけを守る。要は、そういう構想だ。だがな。海軍は反対している。もっとはっきり言うと、軍令部作戦課と、連合艦隊が反対している。」
そこまで言って、大井中佐は視線を窓の外に向けた。
「連合艦隊は、どこかで決戦を企図している。要するに、戦前の漸減要撃、もっと言えば日露のときの日本海海戦のよう戦艦で一回こっきりの決戦ですべてカタをつける、という栄光の再現だ。」
大井中佐は、何かに堪え切れたくなったように下を向いて、すぐ目線を上にあげた。そして、溜息と共に、言った。
「この1年半戦争を続けて、アメリカはそんないくさを許してくれん、と分りそうなものだ。だがな、分からんのだよ。」
三井大尉は、言った。
「どういうことでしょうか。なぜ自分に、そんなお話を。」
「君を見込んで、頼みたい」
大井中佐は、向き直るといった。
「海護総隊は、陸軍の提案に乗る。」
少し間を置いて、続けた。
「要するに、海護総隊としては絶対国防圏構想の実現に賛成し、協力する。ラバウル、ブイン、マーシャル、トラックから兵を引く。だから、陸軍とつなぎを取ってほしい」
息をのんだ三井大尉は、言った。
「しかし、自分は正規の士官ではない、予備士官です。そんな重大事に自分が関係してもいいのでしょうか。そもそも、私のようなものではなく、中佐が」
そこまで行ったとき、大井中佐は三井大尉を制した。続ける。
「君だからだ。私は、というか海護総隊の幕僚は、軍令部の、特に若い参謀連中から目をつけられている。護衛のこと以外、口を出すな、と。だから、陸軍の幕僚に接触できない。」
そこまで言って視線を机の上に落とし、すぐに戻して続けた。
「君の動きは、軍令部の連中なんかにマークされていない。」
大井中佐は、言葉を切った。一瞬、眉間と頬に緊張が浮かんだように三井大尉には見えた。
大井中佐は言葉をつづけた。
「我々、要するに海護総隊は絶対国防圏に賛成だ、というところを伝える。陸軍省、参謀本部、海上護衛総隊が賛成する。数の上で、絶対国防圏が多数派となる。割れている海軍省、そして、軍令部と連合艦隊をこれで抑えたい。」
ふいに、窓の外が光り、二人とも外に視線を向けた。と、低い雷鳴がなる。
そして、沈黙が流れた。
三井大尉は、直感的にすぐに答えてはならない、と思った。後になって考えれば、ぬかりがあった。なぜ自分に、戦争の帰趨にかかわるような、そんな役回りが回ってきたのかということを、不覚にも考えなかった。
窓に何かが当たる音がした。大粒の雨が窓にあたりだした。雹がまじっているのではないか、という激しい音である。
「分かりました。自分にできることなら、何でも言ってください」
三井大尉は、率直に言って感激した。自分をそこまで、買ってくれたのか。
彼は、現在海軍省と軍令部に出すレポートの件を話した。この情報共有、という名目で陸軍に接触すれば、それは怪しまれないだろう、という旨のことを言った。
大井中佐は、大きくうなずいた。
ふいに幕僚事務室の扉が開き、副官が入ってきた。大井中佐に電話が入っている旨、伝える。
(大井中佐は、今夜当直幕僚なのか。)
三井中佐はとりとめもなく、そんなことを思った。
「頼むぞ」
最後に大井中佐はそう言って、幕僚事務室を出て行った。
幕僚事務室は、再び静かになった。いや、驟雨がガラスをたたく音が満ちている。
(そういえば、2年前か)
三井大尉は、自分が海防艦の副直士官として、航海に出たときのことを思い出した。
三井大尉が、海軍士官として小さな自信を持つに至ったとき。
その時も、佐世保を出たときは雨が降っていたな、とりとめもなく、そう思い出した。




