佐世保(1)
九州の西北部の海岸とそれが織りなす島々、つまり肥前の海は、特徴がある。
湾の水深が深く、それを山と島が囲んでいる。リアス式海岸である。特に、平戸島から佐世保までの間は、瀬戸内にもみられるような多島海である。子どもが握ったおはじきを畳にこぼしたように、島が広がっている。一つ一つの島は、緑を盛り上げている。海の青、空の青、そして島の緑と砂浜の白のコントラストが素晴らしい。晩春の朦気の中、島々の向こうに太陽が沈むさまは、日本的な美の一典型である。
だが、優美なだけではない。これらの地域は、中世以来、軍事的な事績が多い。
元寇の際、肥前の海は主要な戦場となった。
はじめ、文永の役は、大いに負けた。
対馬、壱岐の島民は惨殺され、また捕虜となった。島々の武士団は激しく、短く戦った末、全滅した。松浦半島、博多の武士団も同様である。松浦、博多に上陸した元軍に戦いを挑み、大いに破られた。ただ、一部の武士団は抵抗を示した。結果的に元軍を退けた。
弘安の役は、戦訓を生かした。
防衛線、すなわち元軍の上陸が予想される海岸には、防塁を構築した。そして、襲来した元軍に対して巧みで粘り強い海岸での防御戦を敢行した。それだけではない。豪胆な船いくさ、特に夜戦でもって、元軍を悩ました。そして、台風の襲来、そしてそれにより弱体化した元軍を攻撃し、元軍を撃退した。
この一連の先頭は、日本人の記憶に深く刻まれた。ただし、(鎌倉武士団が企図したかどうか定かではない)暴風雨を直接の経緯とする元軍の撤退、つまり「神風」についての物語が、である。
時代が下り室町期になると、それらの島々と湾は、倭寇の根拠地となる。
倭寇とは要するに海賊集団といえるが、その実態はよくわからない。
南北朝時代から室町初期に活動した倭寇は、要するにはみ出し者の集まりである。
さらに、戦国期に活動した倭寇は、密貿易集団であった。特に、後期の倭寇は、そもそも日本人ではない、という説も有力である。が、平戸、松浦といった九州西北沿岸の者が参加したらしく、また、それらの地域が根拠地となっている。
そして、戦国期を経て安土桃山時代の最末期である。
東松浦半島に、巨大な城郭が築かれる。城郭を名護屋城という。そして、名護屋城の周囲に、陣屋が設けられる。日本各地から集結した大名のものである。豊臣秀吉が企図した朝鮮半島出兵、その後方基地となったのである。
ただし、その巨大な城郭群と付属する港湾施設は、すべて空に帰した。朝鮮出兵の事績そのものも、忘れ去られた。特に、石田三成に代表される秀吉政権官僚団の功績、具体的には、朝鮮遠征軍に対する後方支援である。
このことは、秀吉薨去による朝鮮出兵の沙汰止みだけでなく、石田三成が関ヶ原戦で敗れたことにより逆臣となり処刑されたことと濃厚に関係があるだろう。さらに、その後、豊臣政権が衰亡し豊臣政権自体が、雲散霧消したこととも無縁ではない。また、徳川政権が基本的に外征を欲しなかったという政治的事情とも無縁ではないだろう。
その後は、日本(と沿岸諸国)の海禁政策により、それらの島は、単に漁業拠点という意味合いしかなくなっていった。
だが、長い江戸期を経たのち、それらの海岸は、再び軍事の要衝としての地位を占める。
佐世保港がそれにあたる。
明治政府は、近代国家としての海軍を建設した。さらに、それらの拠点を求めた。そして、列強諸国の台頭を考慮し、日本の西南海面を守る防衛拠点の設置を求めた。
長崎、平戸、伊万里などが候補に挙がり、そして佐世保が選ばれた。
佐世保港は、別名を葉港という。深く入り組んだ湾のさまが、楓の葉のように見えるからだといわれている。九州西岸の浦々によくみられる形である。北に弓張岳、烏帽子岳が控えている。湾口から南側には、西彼半島がその姿を海面に映している。なだらかな丘陵からなる島である。
ところで、佐世保湾は他の西九州の浦々と大きく異なるところがある。
島と山に囲まれた海面が非常に広い。かつ、外洋との出入口が一つに限られている。多数の艦を外洋から隔絶しつつ蟠踞させうる。
そうした日本的優美さを持つ佐世保湾の最深部にあるのが、佐世保鎮守府である。そして、佐世保海軍工廠である。
それらとそれに付属する設備は、鉄、コンクリートその他人工物で形作られている。天然の美しさの対極にある。あるいは、各時代の機能美の頂点が集まっているといえるかもしれない。
昭和15年4月の未明は、西九州一帯に猛烈な落雷と強雨があった。この季節の九州によく発生する、春の嵐である。丑三つ時を少し過ぎたあたりから、多くの佐世保市民が目を覚ますほどの雷鳴、そして強雨が降り注いだ。
海防艦・志賀は、その雨に打たれながら、佐世保市街地からだいぶ離れた赤崎岸壁に係留されていた。
まったく暗い未明、艦長・田崎中佐は、雨衣をしっかりと身に着けて艦に戻ってきた。
海防艦「志賀」は、公試を終えて就役したばかりである。佐世保港内にて出航へ向けた準備をしている。日露戦争時の日本海軍がそうであったように、猛烈な訓練を行うためである。
「戦い」は始まっていない。しかし、それがありうる、ということが否応なく予見される出来事はある。
艦橋の羅針儀や示針計がつけられたガラス面、その反対側に、急なラッタルがある。三井中尉が前日作った海図をもって艦橋に上がったときは、強い雨が艦橋の窓をたたいていた。艦内にいた三井中尉は、その時まで雨と雷鳴に気づかなかった。
(こりゃ、手荒いかもしれんな)と、覚悟を決める。彼は、副直士官として、艦橋で勤務することになっている。三井中尉の艦艇勤務は、浅い。任官直後、3か月ほど駆潜艇に乗り組んだ後、防備衛所に配属されたためである。ブランクがある。だが、海軍はそんなことをかまってくれない。
(かんがえてみれば)と三井中尉は思った。
兵学校出身の士官は、4年間の兵学校生活を経て、その後近海巡行、そして仕上げの遠洋航海に出る。(もっとも、昭和15年度は国際関係の緊迫を理由に途中で引き返す、という異例中の異例な事態が生じたのだが。)
それに比べ、自分は1年の教育で候補生となり、その後短い教育機関を経て任官した。手荒いのは、今日の海だけではない、とも思う。




