虚無の深淵・前編
地を揺るがす震動ののち、裂け目から黒い霧が噴き上がった。
それは一つの形をとどめず、巨大な塊となって空を覆い、この土地そのものを呑み込もうとしている。
「……これが」
私の喉が震えた。
「虚無の……深淵……」
黒い影は巨獣のように大地を這い、時には人の腕のように伸び、時には渦を巻く海のように蠢いた。
中心には赤黒い光が脈動しているが、それすらも霧に呑まれたり姿を現したりを繰り返す。
⸻
「おらぁッ!」
ガルドが大剣を振り抜いた。
刃が黒の塊を叩き裂き、一瞬だけ霧が散った――かに見えた。
だがすぐに虚無は形を変え、何事もなかったかのように迫ってくる。
「効いてねぇ……!」
歯噛みするガルドを、ゼノが片目で制した。
無言で駆け、深淵の一部を切り裂く。
だが断面はすぐに閉じ、切り口すら消えていく。
「無駄ではないが……決定打にはならぬ」
魔王が掌に黒炎を灯し、深淵へ叩きつけた。
炎は霧を焼き払った。
だがその奥から、さらに濃い闇が滲み出し、炎を呑み込んで消す。
⸻
「っ……護りが!」
リリィが声を上げる。
私たちの身を覆う護りの光が、霧の波に押されて軋んだ。
ひび割れるような音が聞こえる。
「持たせます……でも、長くは!」
彼女は必死に杖を握り、光を繋ぎとめる。
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私は羽ペンを握りしめ、古書に走らせた。
『束ねる核よ――その力、再びは紡がれぬ』
光の文字が宙に舞い、深淵を縛ろうとする。
だが巨大すぎる闇は、あざ笑うかのように蠢き、拘束を振りほどいた。
「効かない……!?」
光は深淵の表面をかすめただけで、すぐに飲み込まれて消える。
クラウスは眼鏡越しに深淵を観察し、声を張った。
「効き目が薄いのは確かですが……まだ可能性は残されています、マシロ様。どうか書き続けてください!」
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「……わかってる!」
私は歯を食いしばり、再び羽ペンを握り直した。
(一度で駄目なら――何度でも!)
だが二度目の文字も、深淵の奔流に呑み込まれる。
虚無の影が嘲るように形を変え、迫り来る。
リリィの結界が軋み、ガルドが大剣で押し返し、ゼノが黙って切り込む。
仲間が時間を稼いでいる。――だから、私も止まるわけにはいかない。
「もう一度!」
私は羽ペンを紙に叩きつけるように書き始めた。
その背に、魔王の声が重く響いた。
「退くな。食らいつけ。ここで諦めれば、世界は終わる」
絶望の闇の中で、仲間の灯火と共に、私は筆を走らせ続けた。




