16.鬼面の下
古くなったチーズを食い『意外とイケる』と目を瞠り、食い切ったのが数十分前のこと。
『か、神よっ……くぉぉぉぉ……!』
「今のお前に必要なのは紙だよ」
羅刹は便所の前にボロ紙を積み上げた。
当人は聞こえていないのか、向こうから低い唸りと表現しがたい音だけしている。
「さて、俺様は美味い物でも喰ってくるとしよう」
空は雲を青紫に染め始めた頃であった。
目覚めたばかりのポーカン通りを渡り、夜の賑わいを迎える準備中の酒場に顔を出す。馴染みとなりつつある店だ。
中の店主を確認すると、かつての言葉がアドバイスになった、と足を踏み入れながら礼を述べた。
「言葉ではなく、初物を回してもらいたいね」
「生憎、既に全員埋まっている」
羅刹は鋭い爪でカウンターのテーブルを叩く。
積むものを積めば、との意味である。店の店主は一笑に付した。
「嫌な世界だ。金持ちが美味い部分を喰っちまう」
「平等にすれば殺し合いが始まるからな」
「それもそうか。ま、貧乏人は女房みたいな、傷んだ食い物で満足するとするかね」
「はっはっは! むしろ傷んだ方が美味――」
羅刹は言いかけ口を止めた。
己の主人は傷んだものを食い、何時間も滝の音を落としているのだ。
店主は何だと訝しんだが、この時期は新鮮なものがいい、と言うに留める。
「ふぅむ? ああ、新鮮と言えばあれだな、清楚な修道女をいつでも抱けると思うと、今度は聖女様の喘ぎを聞いてみたい欲が湧いてくるな」
「聖女様? 修道女の他にもいるのか?」
「あのスタジアムの声の主だ」
ああ、と羅刹は思い出した。
ウグイスでも鳴くのを止める声だ。窓を開けて聞かせれば最高の客引きになるに違いない。
羅刹はさっと立った。
スタジアムの地下に住んでいる、とティナが話していたはずだ。
「今度は庶民が先に愉しめるのを期待しているよ」
店主の言葉に、羅刹はニヤリと笑みを返した。
空は藍色が占領してしまっていた。早馬でも明朝の到着になるが、鬼の脚で飛べば夜明け前には到着できる。北西・ライコーンの街がある方角に身体を向け、羅刹はぐっと地面を蹴った。
びゅん、びゅんと世界が流れてゆく。
ミズーラ域との境界線付近に差し掛かったその時、向こうに馬に跨がった少年の姿を捉えた。
コッポラ帽を被り、革のベストに黒いカバンを斜めにかける男――ティナのお気に入り・ロアンであった。
金と情報を扱っている自覚があれば、夜に配達など絶対にしないはず。
必死の顔で馬を駆ける姿に、のっぴきならぬ事情があると思い、羅刹はロアンの正面に降り立った。
「うわあぁ!?」
驚いた馬は両脚を上げ、高い嘶きを伸ばす。
降り落とされまいと蔵にしがみついたロアンは、汗の上に冷や汗を重ね、ぜいと息を吐いた。
「ら、羅刹さん……!?」
「ティナみたいなショタコンなら、この間にケツの穴をほじくられてるぞ。火急であっても共をつけろ」
「す、すみません……。僕の給金では、馬を借りるので精一杯で……」
「文使いの馬ではないのか」
何があったと訊ねると、ロアンは馬を降り、とつとつと話し始めた。
ボーインの娼館宛てに手紙を受けていたのだが、ティナ宛の手紙もあったので共に重ね置いた――彼女への配送はいつも最後にしているため、これが速達だったと気付いた時には遅く、せめてと馬を借りたのだと言う。
「いくら可愛がって貰えると言っても、仕事を疎かにするのはいかんな」
「も、申し訳ありません……!」
羅刹が腕を組んで言うと、ロアンはしゅんと肩を落とした。
「ま、娼館宛てなら俺様宛でもある。坊主、何を書いているか読み上げろ」
大丈夫なのかと問うような表情を向けながら、恐る恐る手紙の封を切ったロアンは、ゆっくりと声を抑えながら読み上げる。
それはローガンからのものあった。
内容は新たな娼婦となったシスターたちの相手が全員、決まったことを告げるもの。挙げられたのは名だたる者ばかりなのか、ロアンは驚きと羞恥に堪えながら読み上げ続けた。
「――え、エイミーは十四歳と聞いていたが、こ、子を産める身体だろうか? と、嫁がせることを前提に、と考えている。へ、返事を急がれたし……」
「ふむ。ミランダが検査した見立てでは近いはずだ。なるほど、大人を相手にするのは酷だと案じていたが、シスターとの間に娼婦の経歴を噛ませ、身請けを口実に貴族の嫁にするのもアリか」
それなら社会階級もあまり気にしなくていい。
顎に手をやる羅刹の呟きを、少年は顔を真っ赤にして聞いていた。
「坊主。手紙が遅れた理由ついては、『途中で天狗に攫われた』とでも言っておけ」
「て、てんぐ?」
「何でもかんでもワシのせいにするな、とキレる奴だ。――ここまで潜んでる奴はいなかったから、さっさとティナの手紙を渡し、そこで泊まれ」
「は、はいっ!」
声を弾ませ、身を軽くして馬に跨がるロアン。
馬を走らせかけた時、ああそうだ、と鬼が呼び止める。
「ティナは今、尻を出したままになっているぞ」
「え……」
「選択を誤ってな。訪ねる時は気をはらえ」
「そ、そんなことは……」
「食うもままならず、穴から出るものが止まらない状態だ」
「そ、そんな……! う、嘘、ですよね……?」
「狭い部屋の中で、うーうーと呻き続けている。いわゆる便女ってやつだ」
「う、嘘です……!」
「鬼は悪さをしても嘘をつかない。疑うなら部屋を訪ねてみればいい、痴女のお姉ちゃんに失望しなきゃいいがな」
「神よ……っ!」
ロアンは脱兎の如く馬を駆け出した。
何者かが立ち阻んでも、あれなら無視して突っ切るだろう。
「人前で救いの手を出す者、これ鬼と悪神のものなり――下痢ぴっぴのご主人様に、たっぷりと栄養を与えてやってくれ」
己の力で切り抜けるのを見守るのが真の仏神。手段を選ばぬのが鬼神。
手を振り見送った羅刹は言うと、くるりと身を翻し、ライコーンに向かって跳躍する。




