6.渡し船
「ふ、舟だと」
羅刹が金を使ったのはもう一つ。
ライコーンの街から少し離れた場所にある木工所にて、一艘のボートを作らせていたのである。
後ろに梶棒のついた和舟。それが川辺の塔の裏に、隠すように置かれてあった。
「架橋される前はこれで渡っていたんだろ」
「た、確かにそうだが、転覆が……」
「それは漕ぎ手が下手くそだっただけだ。流れが速いつっても激流ってほどでもなく、真っ直ぐ泳いで渡れるほどヌルい川だぞ。ほらさっさと乗れ」
鬼の操舵もあって対岸へは難なく辿り着いたものの、ティナは生きた心地がしないのか、ずっと深呼吸を続ける。
降り立った場所は、彼女の故郷でもあるウォールの街。
二度と踏むことはないと思っていたのか、それを見上げる女は複雑な表情を浮かべていた。
二人はすぐに証文帖に書かれている場所へと向かう。
ウォールの街の建物は、高さはまばらだが横に整然と並ぶ。ミズーラの区画とは違い櫛状に並ぶ筋の番号で区分けされている。
橙色を基調とした高級感漂う街並みの中、“10番筋”にそれはあった。
「そこの邸宅が、ブラウン家だ」
指差さしたのは、金貸しから借りる必要が感じられない高い石造りの建物だった。
しかし、証文を見れば金板は十枚を超えている。借り主の名はすべて同じ、シンシア・エドワード・ブラウン、妻の名前である。
「母はよく『この街に住む者はみな高い壁を築く。隣家と話す時でさえ、借り物の踏み台に乗らねばならない者も多い』と嘆いていたが……」
借金はこの家だけに限らず、ウォールの街の者の多くが焦げ付き寸前まで、果ては修道院まで金を借りている。栄華の裏に落ちる深い影を知り、ティナは深いため息を吐くしか出来なかった。
「見栄と虚栄、そしてそれを食い物にする連中の街だな」
「今ならその意味がよく分かる。……しかしどうする? 既に金貸しが殺されたことは周知されているだろうし、それをネタに強請ればすぐ足がつくぞ」
問題ない、と羅刹は言う。
「家で借りるなら強気に出られるが、これはシンシアって女が個人で借り続けたもの。つまりそれは、明るみにされると不味い理由があるってことだ」
あっ、とティナは声をあげた。
今はまだ昼前。夫は仕事に出て、家にいるのは妻のシンシアだけ。話を持ちかけるには最高のシチュエーションである。
「でも金がないから借りているのに、それを絞っても碌なものが出てこぬだろう?」
「だから稼いでもらうんだよ。女は売れるものを持って産まれてくるからな」
「まさか……いや、やはり娼館で働かせるつもりか?」
「ご名答。しかしただの娼婦ではなく、餌にする」
「餌……?」
頓狂な声で首を傾げるティナをよそに、羅刹は薄ぼけた橙色の外壁を見上げた。
◇
ブラウン邸の中。羅刹は開け放たれたままの窓から忍び込み、そのままシンシアが休んでいる部屋を直接訪ねた。
突如として現れた異形の存在に、大声をあげられそうになったが、見覚えのある証文を突き出されると彼女は口を強引に閉じ、目的を問う不安げな表情を向ける。金貸しは死んだと聞いている。そう言いたげにもとれる目だった。
「営業者が死んだら債務破棄、なら誰だって金貸しを殺すだろう」
「そ、そんなことは……。いえ、ですがまだ、期日まで日が……」
「あと二ヶ月ほどあるらしいな」
頷くシンシア。ティナによれば、かつて多くの男が彼女を取り合ったと言う。
実際に目の当たりにすれば、なるほど確かに、鬼も唸る器量であった。
苦労が薄く皺となって表れているものの、麗々しさを抑えた召し物はそれを引き立て、美しい年の取り方をしている女だと思わせる。同時に“抗いと孤独”を感じるのは、その身につけている奢侈な宝飾品のせいだろう。
「原因となったものを売りさばいても、果たして全額返せるのかね」
「確か借りたお金は全部で金板七枚です。売れば何とかなり――」
「利子入れて計算してるかそれ?」
言われた途端、あっ、と絶句した。
頭の中で算盤を弾いているのか、思案し、頭を振ることを幾度も繰り返す。
「借金を返すための借金もして、借り入れ額すら分からなくなってんだろ」
「え……? あ、あのいったい、全部でいくらに……」
「金板十三枚だ」
「じゅっ……!?」
想像を遙かに超えた額に、頭を抑えながら近くにあったテーブルに手をついた。
なんてこと、と己を悔いても遅く、時は今も流れ続けている。
「それに、貴金属を一気に売却するのは金に困っている、と白状するもんだ。売れば七枚どころか、足下見られ、金板五枚になればいいところだろうや」
シンシアはその言葉に膝から崩れ、テーブルにしなだれかかる恰好で羅刹に哀願した。
「お、お願いです! ど、どうか、どうか今しばらくお待ちください……!」
「この証文帖の中には役人の名前もある。連中が捜査に乗り出せば、アンタの下にくる可能性も高くなるぞ。カモの名前は金貸しの間で共有するからな」
「そんな……ど、どうすれば。主人に話したら、私はその場で首をはねられてしまいます……! どうか、どうかご容赦を……!」
「女ならまだ術がある。今からよく考え、腹をくくることだな」
「ま、まさか、それは……」
蒼ざめるシンシアを背に、羅刹は入って来た窓から外へ出た。
すぐ近くの路地にティナが立っていたが、その表情は渋く、眉を八の字に曲げていた。
「む、どうかしたのか?」
「どうもこうも。あんな大声でやり取りすれば、バレるだろうが」
「大声?」
訝しげにブラウン邸を見上げる。
確かにシンシアは半ばパニックになっていた。しかし周囲に人の気配はなく、居ても扉に耳を押しつけねばハッキリと聞こえないほどの音声だったはずだ。
「別に普通の声だったと思うが」
「馬鹿言うな。私の耳には一言一句、ハッキリと届いていたぞ。――まぁそれはいいとして、次はどうするのだ? 店に向かうのか?」
羅刹も特に気にした様子もなく、餌を欲するケダモノの所だ、と告げた。




