7.食う者、食われる者
とある邸宅の中に、訝る男の低い声がした。
「――本当に、シンシアが?」
日はまだ高いにも拘わらず、その部屋は燭台の灯りが頼りなほど暗い。橙のぼんやりとした輪の中にソファーが二つ平行に、二人と一人、対面するように座っている。
「この証文にサインしたのが、同姓同名の女であれば別だがな」
二人の中の片割れ・羅刹が言う。隣にいるのはティナで、居心地悪くこぢんまりと座っている。
正面にいる者は、細く長いため息を吐いた。
男の名前はローガン・ルイス・スミス。この街を統治する侯爵の一人である。
「何ゆえそのようなことを報せる。よもや私に棒引きしろと言うまい?」
「特別な想いを持っているのではないか、と思ってな。野心をギラつかせるほどに」
「……かつては、な」
ローガンは重く息を吐いた。
「今はエドガーの……いや人の妻だ」
「それが手に入るチャンスが巡ってきた、ってんならどうだ?」
「なに……?」
羅刹は暗闇の中でもハッキリと分かる、悪どい笑みを浮かべる。
「あの女は娼館で働くことになる。年は四十を超えているが、あの器量ならまぁそれなりの客がつくだろう。かつてのライバルが知れば、ケツの穴までじっくり堪能するだろう。惚れた女を、特に人のものに手をつけるのはこれ以上とない味だからな」
「う、むぅ……しかし、彼女が耐えられるはずも」
「大金を支払って我が物にしようとする奴も現れるだろう。世間知らずはいいカモ、熟れた肉の味は絶品だからな」
暗闇の中で、ローガンとティナはハッと息を呑んだ。
借金の棒引きや身請けであれば騒動になるが、専属の娼婦としてキープしておけば回避できる。
相手が“シンシア”と言う名の娼婦であれば、人の妻であっても憚ることなく抱ける。またシンシアも、見知らぬ者に蹂躙されるくらいならば、と受け入れるだろう。
しばらく沈黙が落ちる。
「その娼婦が本当にいるのなら――」
ローガンは重く、また期待を含めた口ぶりで“商談”を進め始めた。
◇
夜を告げる鐘が鳴った。この街では一日に二つ、修道院らが日の出、日の入りの鐘を鳴らす。
無機質なチャイムの音とは違う生きた音に、羅刹は日本の風情を思い出し、懐かしむのだった。
「かんこんかん、平等院の鐘と比べりゃけたたましいだけだが」
「修道院の鐘の音はみなそうだろう」
「日本の時の鐘は、ごーん、だ。低くいつまでも音が残る」
羅刹とティナは、ボーインの店裏にある寮の中にいた。
ここは娼婦たちが身を寄せる家。ティナは茶のワンピースに白の三角巾を頭に、各部屋から集めたゴミ箱の中身を一つにまとめている。
「さっき、シンシア様が一番乗りで部屋に入ったそうだ」
あれから一ヶ月。身なりのいい女が娼館の扉を叩き、追うようにして漆黒のローブに身を包んだ男が彼女を買った。金板二十枚――それが彼女につけられた“値段”であった。
「あの女は胸に空いた穴を贅で埋めていただけ。卑俗、反道徳なことでも、本当に欲していたもの――愛が入るのなら、それをすんなり受け入れられるだろうよ」
「他に入った婦人らも、確かに満ち足りた様子だ」
ティナはうんうんと頷く。
堕としたのはシンシアだけでなく、借金に苦しむ夫人たちを集めていた。中には夫公認の者までいる。
彼女らは渡し船に乗り、橋の関門を掻い潜りつつ、人目を避けつつやって来る。当初は悲壮な表情をしていた彼女たちも、二度目、三度目と回を重ねるにつれ、次第に悦な表情へと変わっていた。
一方、娼婦を売ることで、ボーインの店も一度に潤った。
羅刹やティナも店から借りた金も返せた……のだが、ティナは娼館の下女として働き続けていた。
「随分とここが気に入ったようだな」
「卑俗、反道徳と思える場所でも、住んでみれば温かいものだ。一日だけだ、一週間だけだ、と思って一ヶ月、来年もこうして働いてもいいと思うようになってしまったよ」
羅刹は、がっはっは、と腕を組んで笑った。
「どうして笑う」
「……すまん、鬼は来年のことを語られると笑ってしまうのだ」
ティナは眉を寄せた。
「まぁいい。紆余曲折を経て、この娼館も私も危機を乗り越えたし、これで安心して眠ることができると言うもの。今日はいいワインでも空けるとしよう」
「何言ってんだ。この店はまだ危機を乗り越えてないぞ」
「……何だと?」
二年分くらいの儲けを出しているのに、とティナは反論する。
「借金の返済をここが受けているだけにすぎん。新規の客は娼婦の数程度にしか増えていないぞ」
「え? あ、そうか、我々は逢い引きの場を提供しているだけ」
「だから、これから次の手を講じねばならん」
「客を増やすこと、か……うぅむ、代金を安くするとかどうだ?」
話にならないとばかりに羅刹は首を振る。
ティナはこれにムッとし、食い下がった。
「何故だ。『娼婦が高い』と嘆く客も多いのだぞ」
「安易な安売りは真なる価値を下げる。金は金を呼び、品は品を呼ぶ。特に売るのは生身の女だ。安売りすれば品のない奴が群がり、中身を食い潰してしまうぞ」
「……ふむ。言われてみればそうか」
ティナは短絡的であるが、正しい言葉なら聞き入れる素直さを持ち合わせている。
反省こそしないものの、すぐに自身の考えを改め、どうすればと次の手を考え始めた。
「高くとも金を払いたくなる娼婦、か」
「お前が店に上がればクリアできるんだがな」
「ば、馬鹿なこと言うな! 買い物中でも金貨を握らせに来るに留まらず、気持ち悪いポエムを送る奴まで現れてると言うのに!」
「実に勿体ない」
顔を赤くしたティナは荒々しくゴミ箱をまとめ、娼婦たちの部屋へと戻ってゆく。
その背中は忙しさを楽しむように揺れていて、鬼もこれには、やれやれと首を振るしか出来なかった。




