58.アリシアの解放
時は現代に戻る。
皇后アリシアは、もう2か月以上も体調が優れず、ベッドの上で一日を過ごしていた。
目を閉じている間。
自身の深層世界で一人彷徨っている。
どこまでも黒く。
どこまでも闇が広がる世界。
その場所でたった一人、アリシアは子供のようにひざを抱え、小さく身体を丸める。
ーー マリアン⋯⋯私はあなたが羨ましかった。
黄金の髪、水晶の瞳⋯⋯愛らしく美しい女性。
皇帝テオとは幼い時に出会い初恋同士。
私は正皇后という名のあなた達の悪魔。
どうすれば彼女に勝てるの?
どうすればテオは私を見てくれるの?
『アリシア、聞こえるか? 私だよ、テオだ。』
聞こえてるわ。
へヴァンが池に落ちてから。
もうずっと眠っている私の手を取って、眠り続ける私に語りかける。
もうあなたは何年こうしてるの?
五年?
十年?
気の遠くなるような年月。
暗闇の中で大好きなあなたの声を聞く。
少し年を取ったわね?
声も容姿も。
呪われている私は、目が開いている間は狂っているから。
一日の何気ない出来事、小さな幸せ、リエルの成長⋯⋯。
全て私に語りかけてくれた。
私は陛下に愛されてるの?
必要なの?
たまに現実世界の眠る私の手にあなたの涙が落ちる。
私はもう一度あなたに会いたい。
もう一度。
もう一度。
エストリニア神よ⋯⋯どうかテオにもう一度会いたいっ!
神様⋯⋯っっ!!
ーーーパリーーーンッッ!!
「なんだとっっ!?」
目と口だけある白い煙が叫ぶ。
その瞬間、闇色のガラスがくだけ散った。
ガラスは細かく飛び散り、アリシアは光に包まれる。
「ここは⋯⋯?」
「いけない! 皇后が目覚めてしまう!」
アリシアはもう何年もこの影と一緒にいる。
光に包まれた世界は、白い煙のような影の存在を、闇色に変えていた。
(戻れるの? 元の世界に戻っていいの? )
彼女はこの世界からの解放を求めて、自分を導く光に手を伸ばす。
「⋯⋯させるかっっ!」
影は、アリシアの首に手をかけた。
「くっっ!」
アリシアは目を見開く。
息ができない苦しみに耐える。
同時に、現実世界のアリシアは自分の手で自分の首を絞めていた。
「はぁっっ! だれ⋯⋯か⋯⋯」
かろうじて出した声も、無人の部屋では意味がない。
深層世界の影が叫ぶ。
「術が解けたお前はもう用なしだ! 死ね!」
アリシアは呼吸をするため、自分の首を絞めている影に手をかける。
(だ、だめ⋯⋯陛下、テオ⋯⋯ごめんなさい)
もう彼女は、抵抗する力がなくなり、自らの命を諦めようとした。
その時!
『頑張って! あなたはリエルの母でしょう。生きてリエルを支えてちょうだい。』
(あ、あなたは! )
その声は覚えている。
羨ましくて憎んでいた側妃マリアンだった。
マリアンは、首を絞めている影をつかみ、アリシアに呼吸を促した。
『お願い。あなたは目覚めなさい。一人じゃないわ!』
優しいマリアンが、怒りの形相に変わっている。
『あなたは生きているのよ! 私のできないことをしなさい!』
その時。
テオが部屋に戻ってきた。
アリシアが自分の首を絞めている異様な光景が目に映る。
「アリシア! 何をしてるんだっっ」
テオが、力づくでその手を剥がそうとしていた。
「これからも私達は一緒に生きていくんだろう! 君は死んではいけない!」
彼は狂ったように叫んだ。
深層世界のアリシアには、必死に自分の腕をはがそうとしている夫が見える。
その姿を見た瞬間!
彼女は、抵抗する自分の腕に力をこめた。
すると、酸素が一気に体内に入り込む。
首を締め付けていた闇色の影が遠ざかっていく。
「お前なんかもう用済みなのだ! もっと役に立つ者が現れたからな⋯⋯帝国の平和なんて絶対に⋯⋯ないっっ!」
そう叫んで、影は跡形もなく消失。
現実世界でも、自分の首を絞めていた力が抜けた。
アリシアは大量に汗をかき、荒い呼吸をしている。
「アリシアッッ! 大丈夫か?」
皇帝は、意識がとんだアリシアに呼びかけ続ける。
一方。
明るい光に包まれた深層世界。
アリシア妃とマリアン妃は二人きりになった。
『ほら、テオが心配するわ。目を覚ましなさい』
マリアンがアリシアに覚醒を促す。
「⋯⋯あなたはどうなるの?」
「どうなるも何も私はもう現実世界の人間じゃない。元の世界に戻るわ。空から見守っているから、幸せになって」
アリシアはマリアンの視線から逃れるように下を向き、涙を流した。
「ごめんなさい、私はあなたが羨ましくて……妬ましかった。だから、テオにもへヴァンにもリエルにも、ひどいことをしてしまった」
マリアンはにっこり微笑んで、涙を流しながらうなだれているアリシアの肩に手を添える。
『それでも、あなたは生きているわ。あなたは、もっと自分を大切にして。テオはあなたを間違いなく愛している』
アリシアは目を見開いて、マリアンを見上げる。
「それはないわ」
『彼の心の中で、生きている人間が大きな存在になっていくのは正常なことよ。辛いこともあるかもしれないけど、きっと皆がいるから大丈夫。勇気を出して、目を開けて』
アリシアは深呼吸しながら、ゆっくり目を開く。ほぼ十年ぶりの現実世界だ。
あまりにも眩しく白い世界に、網膜が追いつかない。
「アリシア! 目が覚めたのか? アリシアなのか?」
愛しい人の顔が近くにあるが、まだ目が慣れなくて、ぼやけていた。
「テオ⋯⋯?」
皇帝テオは皇后アリシアの両手を包み込みながら問いかける。
「アリシア⋯⋯ちゃんと帰ってきたのか? 君なのか?」
周りにたくさんの護衛や使用人がいるが構わない。
もちろん、彼らは皇帝の言葉の意味は全くわからずにいた。
「えぇ、私です。テオ、怖かった。とても長い間怖かったのです」
アリシアは震える手で皇帝にしがみついて、子供のように泣きじゃくった。
皇帝は皇后の背中を撫でながら語りかける。
「もう離さない。大丈夫だ。皆が君を待っていたよ」
いつの間にか彼も涙を流していた。
その光景をへヴァンが、使用人達の後ろから眺めていた。
ーーもうすぐ、僕の役目は終わる
へヴァンは皇后の部屋を出て、自室に戻ろうとした。
「部屋に戻るのですか?」
キリアンはへヴァンの後ろについていく。
「あぁ、今日はもう休む」
「⋯⋯夕食も召し上がらないのですか?」
「あまり食欲がない。使用人に伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
へヴァンは足早に自室に入った。
キリアンはいつもと違うへヴァンの様子が気にかかる。
(念のため、執事に報告しておこうか)
キリアンは、食事のことを使用人に伝えに行くついでに、執事の元へ向かった。
へヴァンは自室で床に座り、ベッドに頭をあずけてふさぎ込む。
ーーわかっていた。こんな日が来ることは。この前の視察隊襲撃だって、母上の命令じゃなかった。あの時点で、母上はきっと術者の思いどおりにならなくなっていたんだ。ただ、遠隔地から黒魔術にかけられる人数を、増やせるようになっている。その力を増大させている。
へヴァンは、今の状況を冷静に分析する。
アリシアは元に戻った。
明後日はナユタが正式に次期皇太子妃だと公示される。
リエルも明日には皇宮に戻ってくる。
「⋯⋯お前は幸せになることを約束されてるじゃないか」
へヴァンは一人静かに呟いた。
弟は両親から愛され、皇太子になり、初恋であろうナユタ嬢と婚約し、国民に祝福され、結婚する。
ーー 僕はもうリエルを陰からでも守れない。リエルが皇太子になれば消える運命だったから。
へヴァンはそのまま目を閉じ、いつまでも動かなかった。
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