1.40
「まさかとは思うが村の外まで行くなんて言わねえよな。もう手遅れだよ。たとえ家族だろうが息子だろうが、見込みの薄い希望に自分の命を懸けるなんざ馬鹿のすることだ……そうだ、そうに決まってる。いいな?ほら、とりあえず帰るぞ」
農夫が私に向かって手を差し出す。
私は農夫の言葉も、今の状況さえもよく飲み込めずにいた。思考が空回りする。嵐の晩の怪物と息子の失踪。もしそこに関係があるとするなら、それは私が、私があのとき安易に戸を開けたから、だから息子は消えたのだろうか?もしそうなら、どうする、どうすればいい?まずは、まずは――
「知ってるだろうが、村の中心から離れた場所だと前触れなく霧が湧くことだってある。だから夜なんかは特に視界不良だから村の外に出るのは危険なんだよ。それに俺もあんたも今日は一日中畑仕事をして疲れてる。そうだろ?探すにしても明日、日が昇ってからにしろ。今日はもう休んで、明日から頑張る方が効率的だ」
農夫はそう言って、動かないままでいる私の手を取って立たせようとする。
そのときになって、ようやく私は農夫が何を言いたいのか分かってきた。要するに、この男は諦めろと言っているのだ。
「無理だ」
私は農夫の手を払い、自力で立ち上がる。
「おい落ち着けって。どう考えても村での言いつけを破って外へ行こうとすること自体が大きな間違いなんだよ。なにもあいつらの無責任な行動に巻き込まれてやる義理なんてないだろう?自己責任ってやつさ。それに大人の村人がついてるなら、もしかしたらあんたの息子は今頃無事に家に帰ってきてる可能性だってある。まずはいったん帰ろう、な?何もあんたのせいじゃない」
べらべらとまくし立てる農夫を無視し、背を向けて進もうとすると肩をつかまれた。
「おい待てって」
「誰が悪い悪くないだの訳の分からないことを言うな。村の外に留まることが危険なら、なおさら今すぐに行かないと。それだけじゃない、怪物が……」
「いいか、あんたまで帰ってこなかったらあんたの奥さんはどうなる。一挙に家族全員を失うことになるんだぞ!あんたが今しようとしていることは、この場限りの自己満ぞ――」
「黙れ!こうしている間にも息子が霧に呑まれたり、怪我をして動けないでいるかもしれないんだ。あの子が暗闇の中でうずくまり、震えながら助けを待っているのならば、親である以上駆け寄る以外に選択肢はない!」
「だから、あんたが負い目を感じる必要は――」
「いい加減しつこいぞ。自分から、しかも夜に村の外に出るような馬鹿者に関わる必要はないと、さっき自分で言ったことを忘れたのか。早くその手をどけろ」
私が振り返ってそう言い放つと、農夫は表情を歪めた。そして今度は蔑むような視線を私に向け、私の肩をつかむ力をさらに強めた。
「ああそうさ、その通りだ。だがな、その手に持っているランタンは返してもらうぞ。戻ってくるともしれないやつに、大切なランタンは預けられねえからな」
私は手に提げたランタンに目をやる。
しばらくそれを見つめた後、農夫に返す。彼はひったくるようにランタンを受け取った。
光源も持たず真夜中に村の外へ踏み出せば、息子の捜索どころか自分が無事に帰ってくることすら困難になるのは明白だ。
それゆえに、私は懇願することしかできなかった。
「……頼む。この愚か者に、ランタンを貸してくれ」
私はそう言って地に伏せ、頭を垂れた。
しばらくして、農夫が口を開いた。
「……なんの明かりも持たずに外へ出たって何もできやしねえ。だからあんたは今日のところはおとなしく家に帰るほかないってことだ。さあ、わかったらとっとと帰れ」
その言葉を聞いても、私の胸の内には怒りも落胆も湧いてはこなかった。代わりに息子を失う恐怖と罪悪感が胸中に渦巻き、行き場を失った焦燥は私の思考を介さず四肢を操り私を意志なき行動に駆り立てる。
私はおもむろに立ち上がり、衣服の泥も払わず手ぶらで息子の足跡が続く方へと歩き始めた。暗闇の中を手探りで進もうとするが、歩き慣れていない場所なのですぐに躓いて転び、起き上がって進めば今度は木にぶつかる。
どうしよう、足跡が見えない。いやこの森を抜ければ息子と同じ道を辿ることになるか。あと何も見えないから息子が近くにいても気づけない。そうだ大声で呼びかけながら進めばいい。そうしよう。
大声を出そうと息を吸ったとき、背中にどんっ、と衝撃が走った。
振り返れば、二つ手に提げたランタンのうち一つをぶっきらぼうに私に突き出す農夫の姿があった。
私は農夫の意図を汲み取ることができずに呆ける。
「……本当に何も持たずに外へ行かれたら、さっきあんたの頼みを断った意味がなくなる。ほら、受け取れ」
「あ、ああ、本当にありがとう」
私がありがたくそのランタンを受け取ろうとすると、寸前で農夫は「あ、やっぱこっちだ」と言って、さっき突き出した手を引っ込めて代わりに反対の手に提げたランタンを渡してきた。
どちらも同じにしか見えないが、何か違いがあるのだろうか。
「あとついでに、あんたの奥さんに伝えておいてやるよ。馬鹿な旦那が、無謀にも息子を探しに村の外へ出て行った、ってね」
「……妻には家で待つよう伝えてくれないか」
農夫は、心底迷惑そうな表情を隠そうともしない。
「いやだよ。どうせ言っても聞きやしねえ。たぶん、誰かさんと同じくランタンを奪い取ったって止まらないんだろ、なあ?」
「なら力ずくでも止めてくれ。頼む」
「じゃあ、あんたが止めればいい。なんなら俺は今からでもあんたの方を止めてもいい。力ずくでな」
私は一瞬迷った。妻の気の強さを鑑みるに、一人で何もせず家で待つような人ではない。いっそのこと妻と二人で外へ行くか?いや、駄目だ。独りよがりだとしても、妻には危ない目に遭ってほしくはない。
「……頼むよ。絶対に帰ってくるから家で待っていろと、妻に何度も言い聞かせてくれ」
農夫は呆れたように鼻で笑った。
「そこまで付き合う義理はねえ。……でもいいぜ、毎日畑仕事もしてない出不精女が気張ったところで森を抜けたあたりで力尽きるのが関の山だからおとなしく家で指を咥えて待っていろ、と。それくらいは声をかけてやるよ」
私は思わず苦笑する。この男、こういう言い方しかできないのだろうか。
そろそろ村の外へ向かおうとして、その前に一つ私が気になっていたことを指摘した。
「……そういえば今更なんだが、なぜランタンを二つ持っているんだ。村の取り決めで一世帯につき一つ支給されるはずだろう?」
「ああ、こいつか?」
農夫は自分の手に提げたランタンを掲げ、ぼんやりと眺める。その瞳はランタンの光を映し、まるで目に光が宿っているかのように見える。
「こいつはな、俺の……その、なんていうか、仲のよかったやつの形見だ」
そう言って農夫は目を細めた。
「俺たちは小さい頃、夜にこっそりここで遊んでたんだ。二人でそれぞれの家のランタンを勝手に持ち出してな。そいつは村一番の、とんでもなく足の速いやつでなあ、本当に速かった。それと木登りがうまかったんだが、ある夜、木から下りてきたそいつが少し遠く、村の外にランタンの火が見えた、って言うんだよ。村の外には霧が立ちこめて誰も住めない、って散々教えられてきたのに、本当はそうじゃないかもしれないってことでそいつは大はしゃぎしてたな」
農夫はそばにあった一本の木をランタンで照らし、見上げた。
「そいつはぶっ飛んでるというか、思いついたものはとりあえず全部実行する頭のおかしいやつだったから、俺の言うことも聞かず、見えたっていう光の方へ一人で飛んで行っちまった。俺はそいつについてこいと誘われたが、村の外へ出るのが怖くて、足が動かなかった。取り残された俺は家に帰った。その日のことは誰にも言えなかった。向こう見ずなそいつの行動の責任の一端は自分にある気がして、その重圧が恐ろしかったんだ。次の日、そいつはいなかった。その次の日も、そのまた次の日も。とうとう罪悪感に耐えかねた俺は大人たちに真相を訴え、ここへ来たり、何度か昼に一人で村の外に出るなんていう無謀なこともした。だがどれだけ探しても、そいつがいた証は何も残っていなかった。……次第に何でこんなことをしているのか分からなくなり始めたある日、このランタンが落ちているのを見つけたんだ。もしこれを見つけられなければ俺は今頃…………」
そう言って農夫は押し黙った。
暗い森に沈黙が広がる。風も、生き物の声すらしない。
「そうか……それは気の毒――」
「な~んてな!」
「⁉」
私が驚いて農夫の方を見ると、彼は笑っていた。虚ろな目をして。
「実はそいつが飛び出していった晩の翌朝にはいつの間にやら村に戻ってきてたんだよ。ちなみにそいつ、ってのはダルクのことだ。ほら、木工師の。最近だと閂式の鍵なんかを作って――」
「おい、こちらから聞いた手前、貴重な時間を割いて長ったらしい話を聞いてやったがこれはどういうことだ。冗談にしてはたちが悪いだろ」
私は苛立ちを隠そうともせずに農夫を非難する。
「いやあんた、今にも死にそうな顔してたからさ、案外、霧に呑まれたって思われてたやつがいつの間にか帰ってきていることもある、だから気楽にいけ、って言いたかったんだよ。俺なりの気遣いってやつだ。な?怒んなって」
農夫はへらへらと笑っている。思わず横っ面を殴りたくなるようないい笑顔だ。
「全くいい性格だな。何が大切な形見のランタンだ、よく言う。ただの横領じゃないか」
「おっと余計なことまで喋っちまったか?告げ口されて怒られるのはごめんだが……どうだろう、その心配はした方が良さそうか?」
農夫はふざけた調子でおどけてみせる。
呆れ返った私は、こんどこそ農夫に背を向けて歩き出す。
「ほざけ。ランタンは返すし、横領に関しては帰ってきてからきちんと村長に報告する。だから、せいぜい首を洗って待っていることだな」
私は片手をひらひらと振って、森の奥へ歩を進めた。




