1.30
「おかえりなさい」
「ただいま」
家の中は外よりも暗かった。窓から広がる仄暗い日差しは家具の陰を浮かび上がらせ、その陰が屋内の風景を形作っていた。
「あの子はまだ帰っていないのか」
テーブルのそばの椅子に腰掛け、妻に話しかける。
我が家では暖炉に薪をくべるのは息子の役目になっている。しかし、いつもなら家の中を明るくしてくれるはずの火は灯らず、今は妻の顔すらはっきりとは見えない。
「ええ、まだ。いつもどおり遊びに行くと言って。でも確かに今日は遅いですね」
「そのうち帰ってくるさ」
「……ええ」
それから間もなくして、いよいよ手元も見えないほど暗くなり、私が息子の代わりに暖炉に火をおこす頃になっても、まだ帰ってこない。
息子が私よりも遅く帰ってくることは今までにもあったが、ここまで遅いのは初めてだ。といっても、十三年もここで暮らしていれば明かりなしでも夜道を歩けるだろうから、暗すぎて帰れないなんてことはないと思う。
いや、何を悩んでいるのだ。
何かあってからでは取り返しがつかない。私は腰を上げた。
「……ちょっと近所を見てくる」
私は棚の上のランタンを手に取り、暖炉で蝋燭に火をつけ光源を確保する。
「わたしも行きます。ご近所さんに聞いて回れば誰かが知っているかも」
「いや、いい。ここにいてくれ。入れ違いになるのを防ぐためだ」
そう言い残して外へ出ようとしたところ、妻に腕を掴まれる。
「あの子ももう幼くはありません。一人でも家の中でちゃんと待っていてくれるはずです。それよりもあの子に何かあったのなら早く見つけないと!」
その揺るぎない決意の表情が、手に持ったランタンの灯りで鮮明に浮かび上がる。
「……その通りだな」
私はランタンを妻に押しつけると、戸を開いた。もう外は闇の世界だ。
「近隣の人たちに知らせて回れ。あと村長にも掛け合って村全体の捜索を頼め。私は畑の方へ行く」
「はい。気をつけて」
私は暗闇の中、駆け足で急ぐ。住み慣れた村の道の上ならば、夜闇もそこまで恐ろしくはない。躓いて転ばないようにだけ気をつけて、私は先を急いだ。
目指しているのは畑と同じ方向にある子供の遊び場だ。中途半端に切り開いた森の小さな広場で、切り株やら倒木やらが子供たちの遊具になっている。
通りがかった家々の戸を片っ端から全て叩く。初めは皆一様に怪訝な顔をして出てくるが、事情を話した後の反応は様々だ。淡々と知っていることを話す者、同情するだけで自分からは動こうとしない者、ぶっきらぼうだったり面倒そうにする者など様々だが、実際に息子を見かけた者は一人もいなかった。
一軒、また一軒と手がかりを得られぬまま通り過ぎていき、焦りだけが募っていく。
やがて広場のすぐ近くまできた。家の戸を叩く。しばらくして、農夫が顔を出した。
「こんな時間になん……」
「息子を、私の息子を見なかったか。まだ帰ってないんだ。いつもなら帰ってくる時間になってるのにどこにも――」
「何も知らねえよ。お引き取り……」
開いてすぐ閉められそうになった戸を力ずくで押しとどめ、食い下がる。
「ほらあれだ、ここらはよく子供たちの遊び場になっているだろう?だから何か見なかったかと思って、いや声でもいい。ここにいるとき息子の声はしなかっただろうか。頼むどんな些細なことでもいい。だから――」
「わかった。わかったから一旦落ち着いてくれ」
農夫は戸を開き、勢いのままに詰め寄ろうとする私から後ずさって、私をなだめようとする。
「そもそも俺は畑仕事で日中は家を空けてるんだが……そうだな、俺は今日空が赤くなる前には家にいたが、それからガキの声は聞いてねえ。畑からの帰り際も見かけなかった。だから、悪いが力になれそうにねえよ」
「そんな……」
息子は夕方までここにいたわけではないのか。それともこの男が気づかなかっただけか。ここ以外に息子が行きそうな場所は……まさか村の外?いやそれはない。息子には、というか誰しも子供の頃には、村の外へは出ないようにと親から口を酸っぱくして言い聞かされるのだ。息子も今までその言いつけを破ったことはない。だとすれば一体どこへ……
体から力が抜けそうになるのをなんとか堪える。何を一人で挫けそうになっているのだ、私は。今だって妻も必死に村を駆け回っているはずだ。何か手がかりは見つかっただろうか。村長に頼んで捜索に協力してもらえているだろうか。いずれにせよ、私にもまだできることはある。次は――
「あんたの息子がそこの広場にいたかもしれないっていう話だが――」
農夫が顎に手をやり、視線を宙に向けながら呟くのを聞いて、私はわずかに顔を上げる。
「――昨日の大雨であの広場もぬかるんでるだろ。もしそうなら足跡が残ってたりするかもな」
「……確かにそうだ!ありがとう」
すぐに広場へ駆けようとする私を農夫が呼び止める。
「おい!この暗闇の中、手ぶらで何する気だ!」
正気に返った私は立ち止まる。そうだ。足跡を探すのに明かりがなければ話にならない。ランタンは妻に貸しているから、農夫に明かりを貸してもらう以外に手はない。
そう思い農夫に声をかけようとしたところ、開け放しの戸から農夫が出てきてランタンを押しつけてきた。
「ほら、貸してやる」
ぶっきらぼうに言い放つ農夫に私は重ねて礼を言い、改めて私は広場の方へ駆けた。
明かりを手にして走りやすくなったこともあり、先を急いでいると、後ろから農夫がついてきていることに気がついた。彼も同様に手にランタンを提げている。
「手伝ってくれるのか?」
「まあな」
……はて、この人ってここまでお人好しだったかな?
二つのランタンの火が周囲を明るくする。
広場までの距離は数十歩もないのですぐに着いた。
腕を垂らし、ランタンで地面を照らしながら二人で手がかりを探す。それはすぐに見つかった。
「あったぞ!子供の足跡だ!」
「ああ、こっちにもある。だが……なんだこれは」
二人して屈み、足跡を観察する。
「足跡は……二種類あるな。息子は毎日ここへ通うから、この小さい方は私の息子だろう。それでもう一方は……」
刹那、私の背筋は一瞬で凍り付いた。
「なんか変な形だな。けど大きさ的には大人と一緒だぞ。もしあんたの息子が大人と一緒にいるなら安心して……おいどうした」
それは大人の足跡で、靴底の形が妙に角張っていた。そしてよく見れば、足跡の窪みの底が均一な平面だった。だがこの村の靴はどれも靴底があまり硬くない。だから村人の足跡は若干素足の足跡に似るのだ。つまりこの何者かは特別な靴をわざわざ用意したか、あるいは……
「おい、何で黙ってんだよ。おい……」
巡る思考は悪い予感に変わる。
もし角張っていて、平たく硬いのが靴だけでなかったとすれば。
もしあれが夢でなかったとすれば。
今朝から脳に焼き付いて離れない光景が蘇る。頼りない明かり。冷気と雨音。そして戸を開け放った先の――
「――怪物め……!」
遠雷が、どこかに落ちた気がした。
はっ、として私は勢いよく立ち上がり、ランタンを周囲にかざす。
何もいない。照らされたのは屈んでいる農夫、切り株や倒木、それに足跡だけだ。闇がそれらの先を一色に染め上げるのみで、ほかには何もない。しかし、その闇がこちらを窺っているかのような不気味さを感じ、言い知れぬ恐ろしさがこみ上げてくる。
「さっきからどうしたんだ。大丈夫か?」
農夫がそう言って立ち上がり、私の顔を覗き込む。
「ああ……大丈夫だ。そう、大丈夫だ」
私は半ば自分に言い聞かせるように返事をする。
「大丈夫そうには見えんがな。まあでも確かに雲行きが怪しくなってきたぞ。ここら辺の地面を見るに、どっかの誰かさんはあんたの息子と遊んでいたのか知らんが……ほれ、こっちに来てみろ」
農夫が地面を見回しながら歩いていく。
「ここの足跡を見ろ。二人は並んで一直線に歩いている。行き先は――」
動悸が収まらない。続く足跡はいくつもの切り株の間を抜け、倒木のそばを通り過ぎ、まだ先へ続いていく。
「――森の方みたいだな。……このまま進めば、村の外へ出るまでそう遠くはない。足跡を見るに無理矢理拉致されたわけでもなさそうだ。おおかた軽い気持ちで外への冒険を試みて、そのまま帰ってこないってとこか。馬鹿だねえ、散々言われていることをなぜ……」
もう途中から農夫の言葉は耳に入ってこなくなった。頭が真っ白になる。仮に息子と一緒にいたのがあの怪物だったとしてあんな奇怪な見た目のやつに普通ついて行くわけがない。一体どうやって息子をおとなしく同行させた?いや、もう理由なんてどうでもいい。村の外へ行ったのなら早く、早く息子を見つけねば。
私は足跡を追って走ろうとするが、まるで地に足がつかないような心地だった。
すると急に肩を引っ張られて、私はそのまま尻餅をついて地面に倒れた。ぬかるんだ土の感触と水気が、服を浸透して伝わってくる。
「おい、どこに行く気だよ」
顔を上げれば、農夫が私を見下していた。




