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「助けに来たんだ。ここから出よう」
シルヴァンはセレスティアの手を握った。細い指はシルヴァンのそれより冷たい。本当に呼吸をしているのか、生きているのか──湧き起こった疑問に首を振る。セレスティアは確かに目の前で動いていて、手には控えめだが熱がある。その瞳は縋るように、また今が真実であることを確認するように、真っ直ぐにシルヴァンを見つめている。藤色の瞳が揺れている。ガラス越しではないその姿は、まるで夢に見た人魚のように儚く美しい。
「ですが、私には……そのようなこと」
セレスティアの落とした視線の先には、スカートの裾から僅かに覗いている足があった。細く、自身の力ではしっかり歩くこともままならないそれと、似合わない無骨な足枷から伸びる鎖。鎖が捕らえているのはセレスティアの身体か、それとも。シルヴァンはその先の思考を放棄して、セレスティアの手を離した。
「この程度の鎖で何を縛れると言うんだ。歩く力だって、まだこれからどうとでもなるだろう。──セレスティア。貴女にはまだ未来がある。外に広がる美しい夜空を、街の騒めきを、祭りの賑わいを……貴女に見せたいんだ。諦めるな。どうか諦めないでくれ。こんな鎖なら、私が何度でも断ち切ってあげるから」
シルヴァンはセレスティアから一歩離れ、剣を抜いた。良く磨かれた銀色が室内の光を反射する。シルヴァンはそれを、セレスティアの足の少し先を目がけて振り下ろす。渾身の力を込めた剣は、セレスティアを繋いでいた鎖を粉々に砕いた。
男が振りかぶった剣に、セレスティアは思わず目を瞑った。数日前のベルナールの剣もまた、同じ銀色だった。蘇った恐怖はしかし、その後に続いた大きな鈍い音と共に霧散した。
目を開けると、自身の足の少し先で鎖が砕かれている。床にまで深い傷が付いていて、そこに込められた力の強さを感じた。
「え……」
男は剣を鞘に収め、セレスティアに改めて手を差し出してきた。セレスティアよりずっと大きくて、ところどころに剣だこのできた、男らしい手。それはベルナールの手入れされた手とも、以前の主人の節くれだった手とも違った。
「逃げよう、セレスティア。他の皆もちゃんと保護する。貴女を縛るものは、ここにはもう何もないから」
セレスティアは自分のちっぽけな手を広げた。こんなに非力な手でも、望んで良いのだろうか。望めるのなら、光の中の未来を──もう一度、夢見てみたい。
控えめに男の手に手を重ねると、男は嬉しそうににかっと笑った。それは長く見ていなかった太陽のように眩しく、セレスティアの心を灼く。強く握られた手が熱かった。
「おいヴァン何してる! 足止めも限界だ、早く行くぞ」
開け放たれたままの扉から身体を半分だけ覗かせているのは仲間だろうか。男──ヴァンははっと扉を見て頷いた。
「分かった」
ヴァンはすぐにセレスティアに向き直り、強く手を引く。セレスティアはその力に身を任せるようにして立ち上がった。ふらつく足は枷が付いたままだが、既に繋がる鎖はない。
「ありがとうございます。貴方と……共に参ります」
セレスティアは精一杯の勇気で応えた。言葉と共に一歩外へと踏み出そうとして、視界の端に本の並ぶ棚が映った。そこにはセレスティアの大切な思い出が、失くしてしまったものが詰まっている。涙を流し続ける程に辛い、しかし大切な思い出。セレスティアは踏み出した足を、本棚の方へと向けた。
「あ……っ」
ふらついた身体が倒れる。驚き慌てているヴァンに構わず、セレスティアは手の先にある本棚に身体を引き寄せ、中でもお気に入りの深い青の本を手に取る。捨てることはできそうにない。
「ごめん、大丈夫か?」
何も悪くないのに、すぐに手を差し出してくれるヴァン。セレスティアは本を両手で抱き締め、小さく首を振った。
「申し訳ございません。ですがこの……この本だけは」
美しい挿絵が、鮮やかな色で描かれている本だった。あの海の青さを、忘れたくない。
「分かった、持っていこう。──行くよ」
急に距離を詰められ、心臓が大きく音を立てる。ヴァンは顔に布を巻き直し、本を抱えたままのセレスティアの身体に端に置いていたブランケットを掛け、両手で抱き上げた。力強い腕は、まるで壊れ物を抱くように、愛しい人にそうするように、暖かく優しい。
「あの」
「黙って。少し走るから、しっかり掴まってて」
ヴァンは言うか早いか、地面を蹴って走り出した。予想以上の揺れに、セレスティアは空いた方の手をヴァンの首に回した。激しい揺れと時折感じる衝撃が、セレスティアに今が確かに現実であると教えてくれる。何度か廊下を曲がるとすぐに国営博物館の外に出た。広がる夕焼け空に、セレスティアは目を細める。
「──綺麗な空」
呟いたセレスティアに、ヴァンは口元を緩めた。
「これから何度でも見れるよ」
周囲の野次馬達の声すら、今のセレスティアには新鮮だった。こんなに沢山の音に触れたのは久しぶりだ。目まぐるしく変わる景色が、セレスティアの胸を期待と不安で埋めていく。感情の昂りに堪えられず涙が溢れそうになると、ヴァンは目敏くそれに気付き、慌てた様子で声を上げた。
「泣かないで、もう少し我慢して。近くに馬車を待たせているから。──頼む。気付かれたくないし……私は貴女の泣き顔も見たくないんだ」
はっと顔を上げた瞬間、潤んだ目から一粒だけ涙が零れた。
「泣くなだなんて言われるの、久しぶりですわ」
セレスティアが小さく微笑んだとき、丁度馬車の前に着いたようで、ヴァンの足が止まった。ゆっくりと箱馬車の中に運ばれ、そっとその腕から降ろされる。座った椅子には柔らかなクッションがいくつも置かれていた。
「馬車が貴女を安全なところに運んでくれるから、安心して乗っていて。大丈夫、セレスティア。貴女は自由だ」
優しく髪を梳くように撫でられ、指先がゆっくりと離れていく。セレスティアはその手をゆっくりと目で追った。
「──ヴァン様?」
セレスティアは、建物の中で男の会話からやっと知ることができた呼び名で呼ぶ。一度も名乗らなかった彼の、きっとこれは名前の欠片だ。
ヴァンは驚いたように目を見開き、すぐに馬車から降りた。扉が閉まり、その姿はセレスティアから隠される。セレスティアが追うより早く、馬車は動き出した。少しずつ、あのガラスの檻から、苦しかった場所から、そして優しい彼から離れていく。心の中がぐちゃぐちゃで、何かが壊れてしまいそうだった。そうして慣れない揺れに耐えているうち、気付けば意識を失い──セレスティアはゆっくりと運ばれていった。




