1・2 よみがえった記憶と猫ちゃん
気がつくと、わたくしは甘くかぐわしい香りがたちこめた見知らぬ寝室で寝ていた。
知らない場所だというのに久しぶりにぐっすり眠れたようで、心身ともにとてもすっきりしている。
「……ここはどこなのかしら」
ふしぎに思いながら体を起こして、周囲を見回す。
窓から入る陽の光が部屋に満ちており、香りとは違って、健康的で爽やかな雰囲気がある。
建具や家具は古めかしいデザインだけれど、磨き上げられておりピカピカ。ファブリック類は新しく上品な品。壁に掛けられた大きな絵画は穏やかな森と湖を描いたもの。花瓶のお花は――
「バラにラナンキュラスにダリア……。ずいぶんと華やかね」
ふむ、と思いながら近場に視線を転じる。
わたくしがすわっているのは、やけに広々としたベッド。横に何回転もできそうなほど幅がある。四隅には蔦模様の彫られた飴色の柱、その柱には天蓋から垂らされたモスグリーンのカーテンが留められている――
「ん? 待って」
なにか思い出しそうな気がする。この幅広ベッドに見覚えがあるような。
どこでだったかしらと、こめかみに人差し指で触れたそのとき――
「にゃ~ん」
「んん? 猫ちゃんがいるの?」
今、猫ちゃんの鳴き声がしたわよね。いったいどこからかしら。
ふたたび周囲を見回す。
すると足元のベッドの陰から、まるまるとした大きくて黒い毛玉が出てきた。ぽてぽてとした足取りがとても可愛らしい。
毛玉はわたくしの近くまで来ると、ぼすんと(たぶん)お座りをした。
つぶらな黒い瞳がわたくしを見上げている。
「きょ、巨大……たぬき?」
「にゃん!」
黒い毛玉が怒ったような声をあげた。
「あ、やっぱり猫ちゃんなのね。――あっ!」
黒い猫。
そのフレーズに覚えがある。確か、侍女頭が話していたレイモンの飼い猫が――
ん? レイモン……?
「そうだわ、ここは……!」
膝立ちになって、もう一度辺りを見回した。
どうしてなのか、すっっっっっかり忘れていたけれど! 思い出したわ!
わたくしはレイモン・ロヴァッティと結婚をして、初夜のために寝室に入ったのだわ。
そして――
「わたくしは『恋ラバ』の悪妻ミレイユ」
寝室でレイモンとの初夜を回避しようとしていたら、突然前世の記憶がよみがえったのだった。
でもそのあとの記憶がない。
よくわからないけれど、ショックで気を失ったのかもしれない。
「それでレイモンがわたくしをここへ寝かせてくれたのかしら」
「にゃん」
猫ちゃんが床にお座りしたまま、「そうだよ」とでもいうかのように鳴く。
猫というより、海苔を巻いたおむすびみたいなシルエットをしている。すごく可愛い。
「あなた、いつからこの部屋にいるの? わたくしきのう、ひどいことを言ったの」
猫を害すると。
「聞いていたかしら。ごめんなさいね。本気ではなかったの。どうしても初夜を迎えたくなくて」
「にゃん?」
黒猫がぽてりと首をかしげた。
「ええと。とにかく、仲良くしてくれたら嬉しいわ。わたくしはミレイユ。――あ、でも待って。レイモンには嫌われたいのだったわ。彼の大切な猫ちゃんが、わたくしと仲良くしてくれるかしら」
というか、その前にもっと重要なことがあったわね。わたくしは死亡確定キャラだったわ。
前世の乙女ゲーム『恋せよ乙女 Lover&Peace』。わたくしはその中に出てくるモブ、『悪妻ミレイユ』
ミレイユは治療法のない病、青薔薇病に罹っている設定だった。
「はあ。なんでこんな運命なのかしら。前世なんて思い出したくなかったわ」
目に涙が浮かぶ。
愛する人を奪われ、婚約破棄され、あげくに余りものとの結婚を強制されて。
しかもあと半年の命だなんて。
あまりにみじめすぎて、体育座りになってひざに顔を押し当てた。
「確かに、わたくしは悪女よ。ベルトラン殿下に婚約破棄されてからのこの半年は、派手に異性と遊んだし、浪費もしたわ。だってそうでもしないと、おかしくなりそうだったんだもの」
「にゃん」
思いのほか近くで聞こえた声に顔をあげたら、いつベッドに上がったのか、すぐそばに猫ちゃんがすわっていた。可愛い目でわたくしを見上げている。
「あなたもひどいと思わない? ずっとベルトラン殿下を愛して、彼のために貞淑で慎み深い王太子の婚約者であり続けたのよ。それを真実の愛がほかにあったからという理由で、婚約破棄されたの」
そのうえ国王に『息子の不始末の詫び』として、新しい婚約者を押し付けられた。
それが魔術師団長で公爵のレイモン・ロヴァッティ。
一見、すばらしい良縁に見えるけれど、そんなことはない。
レイモンは桁外れの魔法の才能を買われて、公爵家の養子となっただけの男なのだから。
公爵家の前は、同じ理由で伯爵家の養子だった。
その前は慈善家の男爵が拾い上げた、身元不明の孤児。
あげくに冷淡で感情に乏しく、人付き合いも悪いとか。
王妃になるはずだったわたくしが嫁ぐにふさわしい相手じゃない。
「それにわたくしを生贄にするラスボスだし」
――あら? ちょっと待って。
「そうよ、レイモンはラスボスなのよ。確か彼は――」
昨晩よみがえった『恋ラバ』の記憶を、懸命に引っ張り出す。なにかで彼の設定を読んだことがある。
それによると彼がラスボスなのは、王太子の味方のような顔をしておきながら、裏ではクーデターを企んでいたから。
クーデターを企んでいた理由は、彼が国王の隠し子で、しかも第一子だから。
レイモンの存在を知られると困る王は、レイモンが五歳のときに、母と母の実家の男爵家に無実の罪をかぶせて、一家全員を処刑した。五歳の彼や十歳に満たない従兄も含めて。
幸い執事の機転で、彼だけは生きながらえた。けれど大切な家族を自分のせいで殺されたレイモンの絶望は深かった。
だから。彼は復讐を企んでいる。
「彼はゲーム中随一で可哀想なキャラだったわね……」
第一攻略対象の王太子――つまりわたくしの愛するベルトラン殿下は、ハピエンルートで、そのような事情があるとは知らずに、兄を討つ。
そのあと、お涙頂戴の展開になるのだけど。
「わたし、ベルトランを好きになれなかったのよね。婚約破棄があまりに自分勝手だったから」
にゃん? と黒猫がまた、不思議そうに首をかしげた。
「……そうよ。前世のわたしはベルトランを好きになれないままゲームを終えたわよね?」
だって、どう考えても浮気者の最低男だったもの。
「なのに、わたくしはあんな人を好きだったの?」
前世の記憶をもってベルトランを見ると、まったく魅力がない。
「むしろ婚約破棄されてラッキーまであるかも?」
まだ、突然の前世の記憶に、冷静にはなれていないけど。
それでもずっと胸の奥にあったベルトランへの想いが消えているような気がする。
あんな浮気男よりも、わたくしの命があと半年で終わるほうが問題よね?
回避不能の死亡フラグだもの。
「そうよ。あんなロクデナシはどうでもいいわ。それよりもわたくし、あと半年をどう生きればいいのかしら」
「にゃん……?」
猫ちゃんがよりいっそう丸く毛玉になると、わたくしの手の甲をなめた。
「もしかして、励ましてくれているの? あなた、優しい子ね」
猫ちゃんにそっともう片方の手を伸ばす。
お礼に撫でてあげたい。
ふわふわっとした毛が、わたくしの手をくすぐる。
「でも、初めて会った人に触られるのはイヤかしら? どう? 猫ちゃん」
猫ちゃんはわたくしを黙ってみつめた。
「……そうだわ、あなたはレイモンの猫ちゃんなのよね。触れる前に、まずはあなたのご主人様に謝らないとね。わたくし、彼に抱かれたくないからって、かなりひどいことを言ってしまったもの」
好きな相手ではない、という理由だけじゃない。
彼が身元不明の孤児という点も、許せなかった。公爵令嬢のわたくしには、不釣り合いだと思った。
彼のことをよく知りもしないで。
今思うと、自分の狭量さが恥ずかしい。
すぐにでも謝りたいけれど、そのためにはまずは目覚めたことを誰かに知らせて――
そう思ったとき、トントンと扉をたたく音がした。




